境内案内図
「大石鳥居」
1633年(寛永十年)酒井忠世奉納。国指定重要文化財。 石材には備前の御影石が使用されている。 関東大震災の折にも少しも傾かなかったほど工事が頑丈だったことは当時大変驚かれた。~上野東照宮HPより抜粋転載~
「水舎門」
1651年(慶安4年)に老中・阿部重次が奉納。社殿前にあった水舎の上屋だけを1964年(昭和39年)に門として移築。
屋根瓦には「徳川家の御紋」が入っています。
「上野東照宮ぼたん苑」
徳川家康公を御祭神とする上野東照宮の敷地内に、1980年4月、日中友好を記念し開苑。回遊形式の日本庭園に植栽された牡丹は現在、春は110品種500株、冬は40品種160株が栽培されている。
表参道の石灯籠が約200基並ぶ
旧東叡山寛永寺五重塔(旧東照宮五重塔)
寛永8年(1631)土井利勝により上野東照宮(寛永4年(1627)創建)の一部として五重塔が建立、寄進された。寛永16年(1639)火災により焼失、甲良宗広らにより同年再建されたのが現存する五重塔です。以前 この場所には五重塔への参道がありました。ですから五重塔の正面は今ご覧になっている面です。明治時代に神仏分離令が発令され、五重塔は仏教施設であることから全国の神社所有の五重塔は多くが破壊された。当宮の五重塔も取り壊しの対象となったが、美しい姿を何としてでも残したいと考えた当時の宮司は熟慮を重ね、五重塔を手放すこととし、塔は寛永寺の所属であると国に申し出た。東照宮五重塔は寛永寺五重塔と名前を変えたが、その機転により取り壊しは免れた。寛永寺の所属となったものの、寺からは距離があり管理が難しいことから昭和33年(1958)東京都に寄付された。現在は動物園の敷地内にある。塔の高さは約32m、江戸時代の多くの五重塔が初層から第4層までを和風、最上層のみを唐様風とするのに対し、この塔は、全層が和風様式。建物内部には心柱が塔の土台の上にしっかりと建てられ、塔の頂上にある青銅製の相輪まで貫いている。心柱が釣られた懸垂式と呼ばれる建築構造が江戸時代の五重塔に多く見られるのに対し、この塔は土台にしっかりと建てられた桃山時代建築の五重塔に良く見られた構造で建てられている。屋根は初層から第4層が本瓦葺、最上層は銅瓦葺を使用している。初層上方には十二支の彫刻が、各層の軒下の角隅部には4頭ずつ龍の彫刻が配されている。関東大震災でも倒壊せず、戊辰戦争や第二次大戦でも焼失を免れた、江戸初期の建築様式を伝える優れた建築の1つとして、明治44年(1911) 国の重要文化財に指定された。以前、塔の初層内部には心柱を大日如来に見たて、それを中心にして東寺大仏師職法眼康猶の作と伝えられる弥勒・薬師・釈迦・阿弥陀の4体の仏像が安置されていた。第二次大戦中、五重塔は管理が行き届かず扉は壊れた状態でした。その内部に仏像が置かれたままになっているのを発見した当時の宮司は、仏像の破損や盗難を防ぐため、急いで東照宮内に4体を引き取って大切にお守りし、戦後寛永寺にお返しした。現在 この4体の仏像は東京国立博物館に寄託されている。上野東照宮 ~下記案内板より抜粋転載~
上野東照宮から五重塔エリアへは黒い柵で仕切られていて入れません。柵の向こう側は上野動物園の敷地。
柵の隙間からカメラを差し込んで撮りました。
「神楽殿」
1874年(明治7年)、深川木場組合奉納。屋根の勾配の美しさは都下随一といわれている。御神楽や琵琶などの伝統芸能の奉納が行われる。~上野東照宮HPより抜粋転載~
上野東照宮 略記
【祭神】徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜
【縁起】元和2年2月見舞いのため駿府城にいた藤堂高虎と天海僧正は危篤の家康公の病床に招かれ三人一処に末永く魂鎮まるところを造って欲しいと遺言された。そこで高虎の家敷地であるこの上野の山に寛永4年(1627)に本宮を造営した。その後将軍家光はこの建物に満足出来ず、慶安4年現在の社殿を造営替えし、江戸の象徴とした。
【文化財】唐門(左甚五郎作竜) 透塀拝殿(金色殿)幣殿本殿棟れ 銅灯篭表参道大石鳥居:以上重要文化財 紅葉山鳥居(寛永3年) 石灯篭220基(慶安4年) 水舎門(慶安4年) お化灯篭(寛永8年) 新門辰五郎水舎(明治6年) 神楽殿(明治7年匂配の美都下随一) 陣羽織(都重宝) 辻ヶ花染胴服(都重宝)~下記案内板より抜粋転載~
上野東照宮
<国指定重要文化財>
藤堂高虎(1556~1630)は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮祠を造った。これが上野東照宮の創建といわれている。あるいは寛永4年(1627)宮祠を造営したのが創建ともいう。もとは「東照社」と称していたが、正保2年(1645)に宮号宣下があり、それ以後家康を祭る神社を東照宮と呼ぶようになった。現在の社殿は、慶安4年(1651)、三代将軍家光が大規模に造り替えたもので、数度の修理を経ているが、ほぼ当初の姿を今に伝える。社殿の構造は、手前より拝殿、幣殿、本殿からなり、その様式を権現造りという。社殿は都内でも代表的な江戸時代初期の権現造りで、華麗荘厳を極めている。唐門、透塀は社殿とともに構造、様式が優れており貴重であることから、参道入口の石造明神鳥居、唐門前に並ぶ銅燈籠四十八基と合わせて国の重要文化財に指定されている。台東区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「銅燈籠」
東照宮社殿唐門前と参道に、五十基の銅燈籠が並んでいる。燈籠は神事・法会を執行するときの浄火を目的とするもの。照明用具ではない。浄火は神事・仏事に使う清めた火。燈籠は上部から、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇で構成されている。火袋は、八角・六角・四角などの形式に分かれ、各面には火口・円窓という窓を設けている。火袋下部の長い部分を竿といい、ここに銘文を刻むことが多い。これら銅燈籠は、諸国の大名が東照大権現霊前に奉納したもの。竿の部分には、寄進した大名の姓名と官職名・奉納年月日等が刻字されている。それによると、伊勢国(三重県)津藩主藤堂高虎奉献の寛永5年(1628)銘一基をはじめ、慶安4年(1651)正月17日奉献二基、同年4月17日奉献四十五基、同5年孟夏17日奉献二基となっている。慶安4年4月17日は東照宮社殿落慶の日。その日の奉献数が最も多い。これら銅燈籠は、東照宮社殿とともに一括して、国の重要文化財に指定されている。台東区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
参道の左右に「手水舎」は二つ。
左側:現在の「手水舎」
右側:大きな鈴が吊るされた「手水舎」
「大鈴」
当宮の狛犬を彫った石工酒井八右衛門が寄進した大鈴。大鈴には「明治七年甲戌年六月 駒込肴町 願主 石屋八右衛門」の刻がある。駒込肴町は現在の文京区向丘一丁目で。この地で石屋を営んでいた酒井八右衛門は「井亀泉」(せいきせん)の名で名石工として知られ、廣郡鶴・窪世祥(こうぐんかく・くぼせしょう)とともに江戸三大石匠に数えられた。~案内板より抜粋転載~
「狛犬」(高麗犬)
【奉納】1914年(大正3年) 【南側】(社殿向かって左)吽形(閉口) 【北側】(社殿向かって右)阿形(開口)
【狛犬自体の大きさ】高さ115cm、前後120cm、幅60cm
狛犬は三大石工の一人とされた「井亀泉」酒井八右衛門の作で筋骨隆々の力強さが特徴である。台座の字は隷書を得意とした書家中根半湖の書。当時の社司 (現在の宮司に相当する役職) は、子爵 松平頼安。三島由紀夫の曽祖母の兄にあたり、三島の著作「神官」などいくつかの作品に登場する。狛犬とは、犬に似た日本固有の想像上の生物。古来より神社仏閣を守ると信じられ、左右一対で奉納されることが多い。古代インドで仏教の守護獣としてライオン像が置かれたものが起源とされている。それが中国で獅子の形になり、仏教とともに朝鮮半島を経て日本に伝わった際に、犬のように表現されるようになったと言われている。 当宮の狛犬は左が閉口した吽形、右が開口した阿形で、左右で阿吽 ( あ・うん ) の形となっている。阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であることから、「阿吽」は宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされ、狛犬や獅子、仁王など、一対で存在する神社仏閣の像には阿吽の形がよく見られる。~下記案内板より抜粋転載~
唐門(からもん)
1651年造営。国指定重要文化財。正式名称は唐破風造り四脚門(からはふづくりよつあしもん)。左甚五郎(ひだり じんごろう)作の昇り龍・下り龍の彫刻や扉の上には亀甲花菱、正面上部には錦鶏鳥・銀鶏鳥の透し彫りなど非情に精巧にを極めたものである。昭和25年重要文化財指定。~下記案内板より転載~
上部には、”錦鶏鳥・銀鶏鳥”の透かし彫り。
「昇り龍」・「降り龍」
左甚五郎(ひだりじんごろう)作の彫刻。毎夜不忍池の水を飲みに行くという伝説がある。偉大な人ほど頭を垂れる(立派な人ほど謙虚である、目下の者をも気にかける)ということから、頭が下を向いている方が昇り龍と呼ばれている。
「昇り龍」
「降り龍」
「御三家灯籠」
これら唐門両側の六基の銅灯籠は家康公36回忌である慶安4年(1651年)4月17日に奉納された。尾張・紀伊・水戸の「徳川御三家」より2基ずつ納されたもので、すべて重要文化財に指定されている。笠の龍が舌を巻いているようなモチーフは「蜃(しん)」という想像上の動物で、口から気を吐き蜃気楼を作るといわれている。火袋の天女の装飾が美しく精巧である。
灯籠の奉納者は唐門より順に以下のように並んでいる。
・紀伊 従二位大納言 徳川頼宣 (家康の十男)
・水戸 正三位権中納言 徳川頼房 (家康の十一男)
・尾張 従三位兼右近衛権中将 徳川光義 (家康の孫、家康の九男義直の子)
御三家の中では尾張・紀伊・水戸の序列が一般的なので、通例だと兄弟の順からも九男が興した尾張家が一番唐門側に来るのであるが、奉納の前年に義直が他界し、子の光義(後の光友)が家督を継いたばかりでまた官位もかったため、唐門から最も遠い場所に奉納し、このような順になったと考えられる。調査協力 代田照彦氏 ~下記案内板より抜粋転載~
唐門向かって右側の灯籠
唐門向かって左側の灯籠
左:笠の龍が舌を巻いているようなモチーフは「蜃(しん)」という想像上の動物で、口から気を吐き蜃気楼を作るといわれている。右:火袋の天女の装飾が美しく精巧。
足元には獅子
「親子虎の石彫」
透塀前にある虎の親子の石彫。家康公の生まれ年、壬寅の彫刻と考えられているが詳細は不明。 子供を優しく見守る母虎と母乳を飲む乳虎。 周りには松と竹が彫られている。~上野東照宮HPより抜粋転載~
「神符授与所」
拝観料を払って社殿へ。
「静心所」
街の喧騒から離れ参拝に向かう心を落ち着かせる御神木前の座。~上野東照宮HPより転載~
-中村拓志&MAP建築設計事務所設計-
御神木 「大楠 」(クスノキ科ニッケイ属)
幹周囲約8m、高さ25m、樹齢約600年。東照宮創建以前からこの地を見守り続けている上野の祖木。
四国八百八狸の総師。奉納された大奥で暴れ追放後、大名、旗本、諸家を潰し、大正年間本宮に奉献された悪業狸。他を抜く(たぬき)強運開祖として信仰が厚い。縁起日は五の日。~下記案内板より転載~
栄誉権現(御狸様)
社殿(金色殿)へ向かう参道には透塀と灯籠が続く。
「透塀」(すきべい)
1651年建築。国指定重要文化財。向こう側が透けて見えるのでこの呼び名がある。社殿の東西南北を囲んでおり、上段には野山の生き物と植物、下段には海川の生き物が200枚以上彫られている。獣や鳥、魚の他、蛙や貝、なまず、蝶、かまきりや想像上の動物など珍しい彫刻もあり、生き生きと表現されている。これらの彫刻は造営当時、極彩色であったと考えられているが、その後の修理の際に弁柄漆で上塗りされていた。平成21~25年の保存修理工事では江戸造営当時の姿を蘇らせるために全てのの彫刻に彩色を行った。彫刻の形から動物の種類を推察し、造営当時の彫刻や絵を参考に有識者間での検討を重ねて色を決定し彩色がなされた。絵具は造営当時と同じ岩絵具を使用し、生彩色(いけじしき)を施した。金箔で彫刻を覆った上から絵具で彩色を行う豪華な彩色方法である。~下記案内板より転載~
透塀の彫刻
「金色殿」(社殿)
1651年(慶安4年)造営。国指定重要文化財。1651年(慶安4年)創建された金色殿を徳川家光公の命により日光に準じた金色殿に建て替えられたのが現存する金色殿。文化財保護のため社殿内は非公開。
金色殿と呼ばれており、参道側から拝殿、幣殿(石の間)、本殿の三つの部屋から構成される権現造。豪華な彫刻が施されている。金色殿前面には鷹、周囲には牡丹、側面には動植物の彫刻が見られる。金色殿の角にはそれぞれ阿吽の形(あうんのぎょう)の獅子が彫られている。金色殿、唐門、透塀のすべての彫刻は金箔で覆った上から岩絵の具で彩色を施す生彩色(いけざいしき)とよばれる手法で行われている。文様は膠と胡粉を混ぜて盛り上げた部分に彩色を施す置上彩色(おきあげさいしょく)を施しており、どちらも高い技術と丁寧な作業が見て取れる伝統的で豪華な彩色方法です。拝殿の壁は、蔀戸(しとみど)であり、金の戸に漆の格子。幣殿、本殿は金箔の壁が日に当たるとまばゆいばかりに輝く。~上野東照宮HPより抜粋転載~
向拝柱のグリーンの「獅子木鼻」
唐門を内側から見る
「唐門」(からもん)
1651年造営。国指定重要文化財。正式名称は唐破風造り四脚門(からはふづくりよつあしもん)。柱内外の四額面には、日光東照宮「眠り猫」で有名な左甚五郎(ひだりじんごろう)作の昇り龍・降り龍の彫刻があり、毎夜不忍池の水を飲みに行くという
伝説がある。偉大な人ほど頭を垂れるということから、頭が下を向いている方が昇り龍と呼ばれている。扉には唐草格子、扉の上には亀甲花菱、正面上部には錦鶏鳥・銀鶏鳥の透かし彫りがあり非常に精巧を極めたものである。中央左右の透かし彫りは
諫鼓鳥(かんこどり)という中国の故事に由来し、皇帝が朝廷の門前に太鼓を置き、政治に誤りがある時は人民にそれを打たせ訴えを聞こうとしたが、善政のため打たれることは無く、太鼓の台座は苔生し鶏が住みつくほどであったと言う話に基づいている。天下泰平の願いを込めて彫られたと考えられている。~下記案内板より抜粋転載~
唐門の青い「獅子木鼻」
「本殿」
本殿側の「獅子木鼻」
「お化け燈籠」
佐久間大膳亮勝之が東照宮に寄進した石造の燈籠で、
奉寄進佐久間大膳亮平朝臣勝之
東照大権現御宝前石燈籠
寛永八年辛未孟冬十七日
と刻字し、寄進者・寄進年月を知ることができる。寛永8年(1631)当時、東照宮は創建して間もなく、社頭には、現存の大鳥居・銅燈籠・石燈籠などは、まだわずかしか奉納されていなかった。勝之は他にさきがけて、この燈籠を寄進したのである。
勝之は、織田信長の武将佐久間盛次の四男。母は猛将柴田勝家の姉という。信長・北条氏政・豊臣秀吉、のち徳川家康に仕え、信濃国川中島ほかで一万八千石を領した。燈籠の大きさは、高さ6.06m、笠石の周囲3.63mと巨大で、その大きさゆえに「お化け燈籠」と呼ぶ。同じ勝之の寄進した京都南禅寺・名古屋熱田神宮の大燈籠とともに、日本三大燈籠に数えられる。台東区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~