景行天皇の御代(71-130)、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐の為に上野忍ヶ岡を御通行の際、薬祖二柱に御加護をいただいた事に感謝し、茲に両神をお祀りなされましたのがご創祀。(約1900年前)旧社格は村社で、幾度かの遷座を経て現在は「上野公園」内に鎮座。病気平癒・健康祈願の医薬祖神を祀る神社であり、菅原道真公を起源にもたない天神さま。現在は菅原道真公を相殿として祀り、江戸三大天神や東都七天神の一社に数えられる。同じ境内に「花園稲荷神社」が隣接しており、それぞれ独立した神社(当社の兼務社)という形になっている。 -2020.07.21-
「上野公園」内に鎮座、
「不忍池」側から忍坂へ入る道が表参道
「鳥居」
大正15年(1926)に奉納
「狛犬」
大正15年(1926)に奉納
「手水舎」
屋根が方形、柱は八角堂と珍しい形
丸い蓮の花の形になっているのが特徴的
屋根の上には“鳳凰”
「社殿」
昭和3年(1928)に遷座した時のものが現存
「社殿」前にも一対の青銅の「狛犬」
「神楽殿」
御創始の年月は不詳。古くから此の地に鎮座し、「忍岡稲荷」が正しい名称、石窟の上にあった事から俗称「穴稲荷」とも云われていた。承応3(1654)年、天海大僧正の弟子、本覚院の住僧晃海僧正が霊夢に感じ廃絶していたお社を再建し上野の山の守護の神とした。幕末、彰義隊の戦いでは最後の激戦地(穴稲荷門の戦)として知られている。後、明治6(1873)年に岩堀数馬、伊藤伊兵衛等の篤志家によって再興され、「花園稲荷」と改名、「五條天神社」が現地に御遷座になるに及び、「社殿」も南面して造営され神苑も一新された。縁結びのご利益のあるパワースポットとしても知られる。-2020.07.21-
「裏参道」
上野公園側の参道。石碑には「花園稲荷神社・五條天神社」参道と書かれている。
朱色の鳥居をくぐって、
「稲荷坂」を降りていく
「手水舎」
「社殿」
昭和3年(1928)に再建した時のものが現存
「穴稲荷」
「穴稲荷」と呼ばれていた頃の名残であり、当社の聖地。江戸時代の頃の「社殿」はこちらに鎮座していて、現在は「穴稲荷」として整備。なお、「穴稲荷」の中は撮影禁止🚫ですが、柵の奥に進んで参拝できます。