「寛永寺」の境内地は、最盛期には現在の上野公園を中心に約三十万五千坪に及び、さらにその他に大名並みの約一万二千石の寺領を有した。そして現在の上野公園の中央部分、噴水広場にあたる竹の台には、 間口45m、 奥行42m、高さ32mという壮大な「根本中堂」が建立され、「本寺」(現東京国立博物館)には、小堀遠州による名園が作庭された。さらに「清水観音堂」、「不忍池辯天堂」、「五重塔」、「開山堂」、「大仏殿」などの伽藍が競い立ち、子院も各大名の寄進により三十六坊を数えた。やがて徳川将軍家の菩提寺も兼ねて歴代将軍の霊廟も造営され、格式、規模において我国最大級の寺院としてその偉容を誇った。ところが幕末の戊辰戦争では、境内地に彰義隊がたてこもって戦場と化し、官軍の放った火によって、全山の伽藍の大部分が灰燼に帰した。さらに明治政府によって境内地は没収されるなど、「寛永寺」は壊滅的な打撃を受けた。しかし明治12年(1879)、ようやく「寛永寺」の復興が認められ、現在地(旧子院大慈院跡)に川越喜多院より本地堂を移築、山内本地堂の用材も加えて、「根本中堂」として再建された。また明治18年(1885)には、輪王寺門跡の門室号が下賜され、天台宗の高僧を輪王寺門跡門主として「寛永寺」に迎え、再出発した。
現在の境内地は約三万坪、天台宗別格大本山の格式を有し、根本中堂のある本寺をはじめ、「開山堂」、「辯天堂」、「上野大仏(パゴダ)」、「徳川霊廟」、「輪王殿」、「子院十九坊」などが上野の杜に広がっている。戊辰戦争で焼失を免れた「清水観音堂」、「輪王寺門跡御本坊表門」、「徳川将軍霊廟勅額門」などが重要文化財に指定され、往時の雰囲気をしのぶことができる。 ~寛永寺HPより抜粋転載~
上記:東叡山 寛永寺HPより転載
「上野東照宮」、「五重塔」は、2024年11月19日に参拝。上野東照宮(Nov.2024)へ。
「清水観音堂」、「不忍池辯天堂」、「上野大仏(パゴダ)」は、2020年7月に参拝。上野恩賜公園散策(July.2020)へ。
東叡山(とうえいざん)寛永寺
縁起-江戸開府400年記念
元和8年(1622)、徳川幕府二代将軍秀忠が、上野の地を天台宗の僧天海に寄進したことから、寛永寺の歴史は始まる。本坊は寛永2年(1625)に竣工。根本中堂の完成は元禄11年(1698)のことです。江戸末期までの寛永寺は、いまの上野公園をはじめ、その周辺にも堂塔伽藍や子院が建ち並ぶ文字通りの巨刹であり、徳川将軍家ゆかりの寺にふさわしい威容を誇っていた。明治維新の際の上野戦争で大半が炎上し、その後明治政府の命令で境内も大幅に縮小され(約3万坪、江戸時代の10分の1ほど)現在に至っている。江戸開府400年を記念し、往時の寛永寺を描いた錦絵などで、江戸と現代を比較しつつここに寛永寺の歴史を紹介する。~下記案内板より抜粋転載~
青銅の灯籠
笠の龍が舌を巻いているようなモチーフは「蜃(しん)」という想像上の動物。口から気を吐き蜃気楼を作るといわれている。
火袋の天女の装飾
「寛永寺本堂」(根本中堂)
旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水池あたりにあったが、慶応4年(1868)彰義隊の兵火で焼失した。そのため明治9年(1876)から12年にかけて、埼玉県川越市の喜多院の本地堂が移築され、寛永寺の本堂となったのである。寛永15年(1638)の建造といわれる。間口・奥行ともに七間(17.4m)。全面に三間の向拝と五段の木階、背面には一間の向拝がある。周囲には勾欄付廻縁をまぐらしており、背面の廻縁には木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。桟唐戸(正面中央など)、蔀戸(正面左右など)、板壁など、すべて素木のままである。屋根は入母屋造、本瓦葺、二重棰とし、細部の様式は和様を主とする。内部は、内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇が設けられている。須弥壇の上に本尊その他の仏像を安置する。内陣を土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のものである。現在は仮の床が張られ、内外陣ともにすべて畳敷になっている。台東区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
扁額:瑠璃殿
本堂の屋根の獅子
「銅 鐘」 <台東区有形文化財>
本鐘の大きさは、総高177.2㎝、口径91.8㎝。厳有院殿(四代将軍家綱)の一周忌にあたる、延宝9年(1681)5月8日に厳有院殿廟前の鐘楼に奉献された。明治維新以降に、寛永寺根本中堂の鐘として、当所に移されたと伝えられる。現在は、除夜の鐘や重要な法要の際に使用されている。作者の椎名伊予守吉寛は、江戸時代前期(17世紀後半)に活躍した江戸の鋳物師で、神田鍋町に住した。延宝元年(1673)から貞亨3年(1686)にかけて、銅鐘を中心に17例の作例が知られている。その中には増上寺や寛永寺などに関わるものも含まれており、幕府との関係の深さが窺える。本鐘は、将軍家霊廟の儀式鐘で、近世初期の鋳物師の活動や鋳物技術を知る上でも貴重な遺品のひとつである。平成18年(2006)に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。台東区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
旧本坊表門・根本中堂 鬼瓦
この鬼瓦は、現在「黒門」の通称で親しまれている、寛永寺旧本坊表門(国指定重要文化財)に据えられていたもの。旧本坊表門は寛永初年に、寛永寺の開山である天海大僧正自身が建てたものであり、天海自身をはじめ、いわゆる歴代の輪王寺宮が住まわれた場所の門でした。この門は、昭和12年現在の東京国立博物館の地から現地に移築され、平成22年から行われた解体修理によって修復された。このときの調査により、現鬼瓦の制作年代は不明ながら、東側の「阿」形より西側の「吽」形が古いこと、かつては鳥衾(鬼瓦の上に長く反って突き出した円筒状の瓦)を接合する部分が設けられていたが、現存の鬼瓦には鳥衾を取り付けた痕跡がなかったことが分かっている。東側にあった「阿」形は耐用年数を過ぎていたため、修復の折に西側に意匠を合わせて作り替え、新たな息吹を門に与えている。この修復を機会として寛永寺根本中堂の屋根にあった鬼瓦と合わせ、ここに展示。◆旧本坊表門鬼瓦「阿」形:高さ113cm×横幅118cm ◆寛永寺根本中堂鬼瓦:高さ248cm×横幅325cm 寛永寺教化部 ~下記案内板より抜粋転載~
旧本坊表門鬼瓦「阿」形
寛永寺根本中堂鬼瓦
「六地蔵」
「了翁禅師塔碑」 <東京都指定旧跡>
了翁禅師(1630〜1707)は、江戸時代前期の黄檗宗の僧です。俗は鈴木氏。出羽国雄勝郡に生まれ、幼い頃から仏門に入り、
後に隠元禅師に師事します。諸国を巡るうち、霊薬の処方を夢に見て「錦袋円」と命名し、不忍池付近に薬屋を俗甥の大助に営ませます。その利益で難民教済や寛永寺勧学家(図書館)の設置などを行いました。こうした功績により輪王寺宮から勧学院権大僧都法印位を贈られています。宝永四年、七十八歳で没し、万福寺塔頭天真院に葬られました。本碑は了翁禅師の業績をんだ顕彰碑で、生前に作られたものです。元々建てられた場所や、現在の場所に移築された時期などは不明。東京都教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「慈海僧正墓」(都旧跡)
墓石の正面中央に、聖観世音菩薩の像を彫り右側には「当山学頭第四世贈大僧正慈海」左側に「山門西塔執行宝園院住持仙波喜多院第三世」、背面に「元禄六年癸酉二月十六日寂」と刻む。慈海僧正は、学徳をもって知られ、東叡山護国院、目黒不動尊、比叡山西塔宝園院、川越仙波喜多院を経て東叡山凌雲院に入った。東叡山は、寛永寺一山の山号で、一山を統轄、代表する学頭には凌雲院の住職が就任することを慣例としたという。学頭は、また門主・輪王寺宮の名代をつとめうる唯一の有資格者であり、学頭の名のとおり宮や一山の学問上の師でもあった。慈海版として知られる「法華経」「薬師経」の翻刻や「四教義算注」「標指鈔」三十巻の著作がある。寛永元年(1624)目黒で生誕。70歳で没した。没後、公弁法親王の奏請によって大僧正の暗いが贈られた。墓は、初め凌雲院内にあったが、昭和33年(1958)東京文化会館建設のため寛永寺に移った。台東区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「徳川綱吉霊廟勅額門」
<重要文化財>
五代将軍綱吉は、延宝8年(1680)5月に兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永6年(1709)1月10日に63才で没した。法名を常憲院(じょうけんいん)という。綱吉ははじめ、善政を行い「天和の治」と賛えられたが、今日では「生類憐みの令」などを施行した将軍として著名。元禄11年(1698)9月、この綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立された。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀伊国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門である。叉、それに伴って先聖殿(現湯島聖堂)が上野から湯島に移されている。綱吉の霊廟は宝永6年の11月に竣工したが、それは歴代将軍の霊廟を通じてみても、もっとも整ったものの一つであった。ただ、その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失した。この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。台東区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
左:徳川宗家御位牌所
右:徳川御三家の御位牌所
「徳川家綱霊廟勅額門」
<重要文化財>
四代将軍家綱は、慶安4年(1651)4月に父・家光の死に伴って、わずか10才で将軍の座につき、延宝8年(1680)5月8日に39才で没した。法名を厳有院(げんゆういん)という。病気がちであった家綱時代の政務は、主として重臣の手に任されていたが、とくに後半の政治を担当した大老・酒井忠清が有名である。時代は家綱の襲職直後に起こった由比正雪の乱の解決を機に、ようやく安定期に入った。家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したが、この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。なお、このうち水盤舎は延宝8年に家綱のために造立されたものであるが、この勅額門は昭和32年の改修時に発見された墨書銘によって、もと家蜜の上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられる。台東区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
寛永寺第二霊園の内側から
「寛永寺」をあとに「開山堂(両大師)」に向かう途中にスカイツリーがくっきりと♪