平安時代の天長元年(824年)に弘法大師によって開山された。鎌倉時代に当寺を親鸞聖人が訪れ、迎えた了海上人は、親鸞の高徳に傾倒し、一山をあげて浄土真宗に改宗。幕末に初代アメリカ公使館となり日米友好の絆を深めた当寺には、近代日本の礎を創った福澤諭吉や益田孝といった多くの偉人たちが足繁く訪れている。~麻布山善福寺HPより抜粋転載~
参道
開山弘法大師創立
親鸞聖人御舊蹟地
初代米國公使館趾
「柳の井戸」
自然に地下から湧き出る清水である。東京の市街地ではこのような泉が比較的少ないためか、古くから有名で、弘法大師が鹿島の神に析願をこめ、手に持っていた錫杖を地面に突きたてたところ、たちまち噴出したものだとか、ある聖人が柳の枝を用いて掘ったものであるとか、信仰的な伝説が語りつがれてきた。とくに現在のわれわれとしては、大正12年の関東大震災や昭和20年の空襲による大火災の際に、この良質な水がどれほど一般区民の困苦を救ったかを心にとどめ、保存と利用にいっそうの関心をはらうべきものと思われる。昭和49年1月(平成26年12月建替)港区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
麻布山 善福寺 「勅使門」
当山の中門は古くから勅使門と呼ばれ、伝承によれば、文永の役(1274)で亀山天皇の勅使寺となったとき以来の命名とされている。寺院の門として最も重要な位置にあり、幕末のアンベール著の絵入り日本誌等に、その形が描写されていた。当時の火災は免れたものの、昭和2年5月25日戦災を受けて焼失し、昭和55年11月5日の再建によって現在の形を再び現した。~下記案内板より抜粋転載~
「勅使門」を振り返る
「麻布山善福寺案内図」
【境内の史跡】・本堂(港区指定有形文化財)・秩父宮妃の碑(妃殿下お手植えの松)・柳の井戸(表参道にあり)・開山堂(国の重要文化財了海上人安置)・逆さいちょう(国の天然記念物)・親鸞上人像・ハリス記念碑(初代アメリカ合衆国公使館跡)・福沢諭吉翁の墓(慶應義塾の創始者)・越路吹雪、岩谷時子の歌碑
「善福寺本堂」
<港区指定有形文化財(建造物)>
善福寺本堂は、当初東本願寺八尾別院大信寺の本堂として建設された建物を移築して、昭和36年に現在地で組上げたもの。大信寺は慶長年間の創建で、移築された本堂は明和4年(1767)に再建されたもの。再建の際に創建当初の柱など建築部材を一部利用したと思われる。正面幅約28m、奥行約34m、入母屋屋根、桟瓦葺。広い外陣と装飾性豊かな内陣、内陣の正面を華やかな欄間彫刻で飾り、金、極彩色で仕上げ、浄土真宗特有の形式をとる。組物は尾垂木付の二手先です。天明の大火[天明8年(1788)]で京都の東本願寺が焼失したので、同年から寛政10年(1798)まで東本願寺へ移築されて御影堂として使用されたが、翌年八尾別院に再建された。本建築は江戸時代の大規模な浄土真宗の本堂の構成を良く示す都内有数のものであり、また三度の移築を経るなど特殊な履歴も含めて、大変に貴重な建築です。港区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
扁額:麻布山
木鼻「獏」
「本堂」を側面から
「本堂」前の燈籠
「最初のアメリカ公使宿館跡」
<東京都指定旧跡>
安政5年(1858)6月に締結された日米修好通商条約により、それまで下田にいた総領事ハリスを公使に昇格させ、安政6年(1859)善福寺をアメリカ公使館として8月に赴任。当時の宿館としては、奥書院や客殿の一部を使用していたが、文久3年(1863)の水戸浪士の焼き討ちで書院などを焼失したため、本堂、開山堂なども使用した。明治8年(1875)に築地の外国人居留地へ移転。当時の建物は戦災で焼失している。寺には「亜墨利加ミニストル旅宿記」(港区指定文化財)が残されており、外国公使館に使用された寺の実態がよく伝えられている。東京都教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「ハリス記念碑」
墓地入口
「親鸞聖人」像
「親鸞聖人」像とイチョウ
「鐘楼」
善福寺「開山堂」
開山堂ははじめ真言宗の蔵王権現として開かれたもので、古く麻布郷の鎮守であったと伝える。親鸞聖人のお立寄りによって浄土真宗に改宗した中興開山了海上人は、蔵王権現の申し子として大井(現、品川区)に生まれ、この像が堂内に安置されることになった。かつては堂前でさまざまな行事も行われていたが、戦災焼失後再建されて、今は東京都の有形文化財となった。像とともに港区の有形文化財である、秀吉朱印状他の貴重な寺歴を物語る古文書等が収蔵されている。~下記案内板より転載~
「善福寺のイチョウ」
<国指定天然記念物>
イチョウ(銀杏・公孫樹)は、中国原産のイチョウ科の落葉高木である。雌雄異株で神社や寺院の境内樹・公園樹・庭園樹・街路樹として広く植栽されている。四月に開花し、雌株は十月に種子(イチョウの実)が成熱して独特の臭気を放ち、黄葉する。
この木は雄株で、幹の上部が既に損なわれているが、幹周りは10.4mあり、都内のイチョウの中で最大の巨樹である。樹令は750年以上と推定される。善福寺は、昭和20年の東京大空襲によって本堂が全焼した際、このイチョウの木にもかなり被害があったが、いまなお往時の偉観をうかがうことができる。根がせり上がって、枝先が下にのびているところから『逆さイチョウ』ともいわれ、また、親鸞聖人が地に差した技から成長したとの伝説から『杖イチョウ』の別名もある。東京都教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
枝からは気根が垂れ下がっている
「逆さ銀杏」といわれている所以
空襲で焼けて空洞が黒くすすけてる
「福澤諭吉・妻 阿錦 之墓」
「越路吹雪の碑」
代表曲"愛の讃歌"の歌詞が刻まれている
「越路吹雪・岩谷時子の歌碑」
こちらは"ラストダンスは私に"の歌詞が刻まれている。レリーフの似顔絵は、左:越路吹雪、右:越路吹雪のマネージャーであり作詞家の岩谷時子。