2014年(平成26)『まちおこし』として、町会・自治会、商店会が中心となり「多摩川七福神」が設置された。矢口・下丸子地域には、新田義興にまつわる様々な逸話や史跡が残っており、関連の神社・仏閣を巡るコースとなっている。東急多摩川線武蔵新田駅出発 → 新田神社 → 頓兵衛地蔵 → 矢口中稲荷神社 → 氷川神社 → 延命寺 → 東八幡神社 → 十寄神社。-2005.01.05-
多摩川七福神パワースポット巡り
上記:大田区HPより転載
御祭神:新田義興公(にったよしおきこう)
新田義興公は新田義貞公の第2子で、足利尊氏が謀反を起こしてより、父亡き後、新田一族を率いて武蔵野合戦等を始め各地に奮戦され、吉野町(南朝)の恢復に尽力された。そして、終始一貫その忠義を尽くしたが、正平13年(1358年)10月10日、謀略により、多摩川の「矢口の渡」で壮烈なる最後を遂げた。その後、義興公の怨霊が現れたり、夜々「光り物」が矢口付近に現れて往来の人々をも悩ますようになり、そこで義興公の御霊を鎮める為に、義興公の墳墓の前に社殿が建てられ『新田大明神』として広く崇め奉られた。~東京都神社庁HPより抜粋転載~ 御神木の欅(ケヤキ)は樹齢約700年、雷や戦火に遭い真っ二つに裂けるもいまだ葉が生い茂り、パワースポットとして多くの人が訪れる。破魔矢の発祥の地としても有名。
新田神社境内図
上記境内図:新田神社HPより転載
御祭神:贈従三位左兵衛佐源朝臣
新田義興公
「鳥居」
「手水舎」
狛犬
「社殿」
上記写真:大田観光協会
「末社 稲荷神社」
御神木(欅)
この樹齢約700年に及ぶ欅は過去に落雷や戦火によって、幹が大きく裂けているが、毎年新緑の季節には青々とした葉を繁らせる。また、古木上部には、とても珍しい「宿り木(植物)」が寄生しており、早春、淡黄色の小花も咲く。このために、この御神木に触れると「健康長寿」「病気平癒」「若返り」の霊験があるという古老の言い伝えがある。この御神木の御加護をいただくには、左側の鳥居より中に入り、できるだけ長く御神木に触れて、霊気を感じ取って下さい。尚、鳥居への出入りの際には御一礼下さい。~下記案内板より抜粋転載~
「破魔矢オブジェクト」
破魔矢の元祖:社殿・御塚の後には、昔から決して神域を越えることがなく、雷が鳴るとこの竹がピチピチと割れたという伝説の「旗竹」がある。この新田大明神は古来より「運を守り、幸せに導く神様」として信仰されており、江戸時代には、エレキテルを製作した平賀源内がこの竹と五色の和紙で「厄除開運・邪気退散」の魔除けの「矢守」を作り、広く御祭神の御神徳を広めることをすすめた。これが現在、全国の社寺で初詣などで授与している「破魔矢の元祖」となる。~現地案内板より抜粋転載~
「LOVE 神社」
2008年に日本を代表するアートディレクター浅葉克己氏より「LOVE 神社」のオブジェが奉納され、恋愛成就のご利益があるとして若い女性やカップルに人気が高い。
「御塚」
社殿後部の塚は、祭神新田義興公の御遺体を埋葬した所で、直径約15mの円墳である。この中に入ると必ず祟りがあるというところから「荒山」「迷い塚」などともいう。また、この御塚後部には昔から決して神域を越えることがない不思議な篠竹が生えており、 江戸時代に平賀源内がこの篠竹で、厄除開運・邪気退散の破魔矢「矢守」を作り、 広く御祭神の御神徳を仰がしめることを勧めた。爾来、毎年正月初詣の人々に社頭で授与している。~下記案内板より抜粋転載~
「矢口新田神君之碑」
<大田区文化財>
延享3年(1746)に石城国(福島県)守山藩主松平頼寛が造立した碑で、新田神社の祭神新田義興公の事績と神社創建と由来を記している。篆額の字は、頼寛の自筆で、撰文は儒者服部南郭、書は松下烏石(葛辰)である。本区に数少ない江戸期の記念碑として注目される。 大田区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「新田大明神道標」
これは現在の第二京浜国道沿いに建てられていたもので、 文化14年(1817年)4月に麻布日下窪講中によって再建された新田神社への道しるべである。~下記案内板より抜粋転載~
「力石」
「新田大明神大鳥居由来記」
此処に保有する石材は、かつて武蔵新田駅前通りに新田神社一之鳥居として屹立せるものにして、昭和45年に下水工事の際、過りて笠木部を折損、倒壊の危険を生じたるにより、やむなく解体し、此処に保存するものなり。~下記案内板より抜粋転載~
「神輿庫」
「恵比寿」
七福神の中で唯一日本出身の神様。左手に鯛を抱え、右手に釣竿を持つ。満面の笑顔は"恵比須顔"といわれる。古くは「漁業」や「水難除け」の神とされたが、時代と共に「商売繁盛」「五穀豊穣」を願う神として親しまれるようになった。
「宝物殿」
新田神社周辺マップ
「地蔵菩薩立像」(俗称頓兵衛地蔵)
<大田区文化財>
頓兵衛(とんべい)は、この付近で起きた新田義興の謀殺事件をもとに、江戸時代に作られた浄瑠璃「神霊矢口渡」(平賀源内作)の話に、船頭役で登場する人物の名である。この地蔵は、いつしか船頭が謀殺に加担したことを悔いて、その冥福を祈って建てたものと伝えられ、新田義興に関わる伝説のひとつとなった。義興の事件とは、南北朝時代に活躍した南朝方の勇将新田義貞の子義興が、延文3年(北朝)、正平13年(南朝)(1358)、北朝の足利方にねがえった旧臣竹沢右京亮や江戸遠江守らに謀られ、矢口の渡しで舟を沈められて悲惨な最期を遂げたというもので、『太平記』などに記されている。大田区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「頓兵衛地蔵堂」
「地蔵菩薩立像」(俗称頓兵衛地蔵)
像は摩耗がはげしく、溶けたように見えるため「とろけ地蔵」とも呼ばれる。材質が砂岩なので、触るとポロポロと崩れるところから「触るとイボが取れる」という民間伝承が生まれ、顔が触られ、ますます崩れたという話もあるとのこと。
「布袋尊」
中国唐の時代に実在した僧侶の化身。また、弥勒菩薩の化身ともいわれ、聖人として神格化された。大きな布の袋を携え、福々しい顔と太ったお腹という風貌から…「幸福」の象徴とされ「開運」「良縁」「家庭円満」の神として慕われている。
武蔵新田駅のホームに沿って鎮座している小さな神社。今から200年前、大凶作の折、百姓であった金子作衛門が京都伏見の国から、正一位稲荷大明神の御神体を矢口村田町に遷座した。村を挙げて念じたところ例年にない大豊作になったという。昭和10年(1935)、耕地整理のため、今の場所に移築された。~多摩川七福神より~
「福禄寿」
豊かな白髭をたくわえ、長い頭をした中国の神様。寿老人と福禄寿は同一人物とも言われるが、日本では別人として七福神に加えられている。道教で理想とされる「福(幸福)」「禄(高給)」「寿(寿命)」の三つの福徳を授けてくれる。
新田神社からほど近いところに鎮座する氷川神社。御祭神は、嵐や疫病を司り災いから人々を守るとされる素盞鳴尊(すさのおのみこと)。拝殿前には一対の狛犬、すぐ横には柵に囲まれた「三社稲荷」が並ぶ。隔年八月に行われる例大祭では、広い境内が大勢の人々で埋め尽くされる。~多摩川七福神より~
狛犬
「社殿」
「大黒天」
元をたどればインドのシバ神。大きな袋を背負い全国を修行して回る大国主命と重なり、「五穀豊穣」の神として広まった。鳥烏帽子に袴、手には打出の小槌を持ち、米俵に乗った姿は「豊作」「商売繁盛」「出世」の神として人気が高い。
大黒天のお姿が見えず😢…でした。
もともと蓮花寺として1328年に開創したが、正平13年(1358) 新田義興の霊が雷火となったといわれる火災で焼失。その際、聖徳太子が国家安穏衆人救済のために彫ったと言われる地蔵尊だけは難を逃れた。以来、その地蔵は「火雷除子安地蔵尊(延命地蔵)」と名が付き、寺の名も「延命寺」として再建された。当時の行事に、鐘や太鼓を打ち鳴らし、念仏を称える「双盤念仏講」がある。~多摩川七福神より~
「火雷除子安地蔵尊碑」
(ひらいよけこやすじぞうそん)
「山門」
「本堂」
「地蔵堂」
「延命地蔵」と「寿老人」
「寿老人」
天南星または寿星の化身といわれ、白い髭が特徴的な中国の神様。巻物をつけた杖と人々の難を払う団扇を持ち、長寿を司る神の使いとされる玄鹿を連れていたといわれる。「健康」「長寿」「子孫繁栄」の神として信仰されている。
「無縁法界塔」
建長2年(1250)に建立。徳川入府以来、地元の人は「湯坂八幡」と言っていたが、近くの西八幡が合祀し、明治44年(1911)「東八幡神社」となった。祭神は応神天皇。源氏の氏神また、武士の守り神として参拝されていた。
神社は多摩川の堤防沿いにあり、近くにそびえる紅白の鉄塔が目印。鳥居の横に「矢口の渡し」の石碑があり、昔の情景が忍ばれる。~多摩川七福神より~
「矢口の渡し跡」の石碑
「手水舎」
狛犬
大空襲にも耐えた境内で唯一残った
「社殿」
「弁財天」
七福神の中で唯一女性の神様で元々はインドの水上。琵琶を持つ姿が美しく「美」や「芸術」「芸能」の神として特に女性から親しまれてきた。日本では才の字が財と同じ音をすることから「財運」、「商売繁盛」の神としても信仰されている。
新田神社に大変縁の深い神社で「じっきじんじゃ」とも「とよせじんじゃ」ともいう。正平13年(1358)多摩川の矢口の渡で謀殺された新田義興の十人の従者を祀ったのが十寄神社である。十人の名は、世良田右馬助義周、井伊弾正左衛門、大嶋周防守義遠、進藤孫六左衛門、由良兵庫助、由良新左衛門、堺壱岐権守、土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎(十寄神社の由緒書より)といわれるが諸説ある。~多摩川七福神より~
参道手前の狛犬
「社殿」
「社殿」入口の狛犬
「毘沙門天」
元々はヒンドゥー教の神様。甲冑に身を包み右手に槍、左手に多宝塔を持ち厳しい顔をしているため、"勝負事に強い神"として崇められている。また、「勇気」「知恵」を授けてくれたり、「病気や災難」から守ってくれるとされている。
「多摩川七福神巡り」の後、下丸子方面へ。「六社神社」「蓮光院 武家屋敷門」、新田義興にまつわる「妙蓮塚三体地蔵」を巡ってきました。 多摩川七福神巡り <番外編> へ。