岩槻散策 Ⅰ


"城下町と人形のまち岩槻"を散策してきました。岩槻駅を出発し、城下町として栄えた岩槻の文化財や史跡などのスポットを巡る。見どころがたくさんあり、魅力あふれる岩槻を満喫できました。 -2024.11.01-

さいたま市岩槻駅周辺観光マップ

上記MAP:さいたま市岩槻区観光経済課

東玉大正館(岩槻区本町)<国登録有形文化財(建物)>


中井銀行岩槻支店として大正後期に建築された、煉瓦造2階建ての洋館建築。建物正面を3分割し、上部を半円アーチ型で飾る入口を中心に、左右に窓を対象に配置する大正時代の中小規模銀行の典型的な事例。壁面は腰壁を石貼りとし、その上を煉瓦タイルとモルタルで仕上げ、1階の背面には、金庫室が張り出している。また、屋根は寄棟の瓦葺で、内部は三角形の骨組を基本とするトラスの小屋組みとなっている。~さいたま市HPより抜粋転載~

願生寺(岩槻区本町)


【略縁起】当寺は御成街道沿い岩附久保宿(現本町)の中心に位置し、開基は延文二酉年(1357)七月、鎌倉幕府崩壊の後、朝廷が南北2つに割れ正統性を争った頃、南朝の中院定本朝臣に仕えていた久保右近が本国に下り蟄居・剃髪し庵を結んだと伝わる。(一説には弟とも)開山については大永二午年(1522)との説があったが、浄土宗に伝わる書物『檀林瓜連常福寺誌』の中に浄土宗第三祖良忠上人の門流として「武州岩槻願生寺開山」として「門入上人」の名が記載されており延文年間説が有力となった。~願生寺(がんしょうじ)HPより転載~

「阿弥陀三尊図像月待供養板碑」

(あみださんぞんずぞう つきまちくよう いたび)

さいたま市指定有形文化財(考古資料)

板碑は鎌倉時代から室町時代にかけて墓塔、供養塔などとして建てられたもので、板石塔婆、青石塔婆ともいわれる。秩父に産する録泥片岩など、石材に恵まれている埼玉県付近には特に多く見られる。現存高70cm、幅33cm。線彫りした阿弥陀如来像しか残っていませんが、欠損した下部の一部に月輪が見えることから、観音菩薩と勢至菩薩を従えた阿弥陀三尊像を図像で表現したことがうかがえる。また、残っている銘文から室町時代から盛んに行われるようになった「月待供養」の板碑であったと考えられる。月待供養とは、二十三日などの月の出を待つ民間信仰で、月宮殿におわす月天子を拝み無病息災を願ったもので、さいたま市は、県内でも月待信仰が盛んな地域であったといわれており、この板碑も、当時の民間信仰を知る上で貴重な資料です。

宗教法人 願生寺 さいたま市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

街路灯が「人形のまち」らしいデザイン

長谷川家住宅旧店蔵及び主屋(岩槻区本町)<国登録有形文化財(建物)>


岩槻は、近世以降、木綿の集散地として栄え、長谷川家も明治30年頃まで白木綿問屋を営んでいた。棟札等から明治初期の建造とみられる。旧店蔵は、通りに面した土蔵造2階建で、背面側には木造平屋建の主屋が続く。白木綿を想起させる鮮やかな白漆喰塗の大壁、塗り込められた出桁造の軒、影盛を施した大振りな鬼瓦などが特徴。店蔵正面には、上下に開閉する摺揚戸が残り、関東地方の商家の特徴を良く示した貴重な建造物。~さいたま市HPより抜粋転載~

愛宕神社(岩槻区本町)


「愛宕神社」

愛宕神社の祭神は迦具土命(かぐつちのみこと)であり、境内には松尾神社(祭神:大山咋命・伊弉諾命・伊弉冉命・徳川家康)、稲荷神社(祭神:倉稲魂命)、天神社 (祭神:菅原道真)がある。迦具土命は、火防、盗難除、安産の神、子育ての神として知られ、近年は進学・就職の神として信仰を集めている。神社の創建は明らかではないが、江戸時代初期の 「武州岩槻城図」に愛宕神社が記されている。言い伝えによると、長禄元年 (1457)に太田資清 (すけきよ、一説には道灌)が岩槻城を築くにあたり城郭として外堀と土塁 (土居) を造った。するとその傍らに小さな祠一社があり、風雨に曝された小板にかすかに迦具土命という字が見えた。これは火防の神 (愛宕大神) であるので土塁上に移し祀った。その日が現在の七月二十四日であるので、今でも祭礼日として祭典を行っている。埼玉県 岩槻市 ~下記案内板より抜粋転載~

「拝殿」

狛犬


「稲荷神社」

岩槻城大構 (おおがまえ) 

<岩槻市指定文化財 記念物(史跡)>

戦国時代の末から江戸時代の岩槻城下町は、その周囲を土塁と堀が囲んでいた。この土塁と堀を大構(外構・惣構・土居) という。城下町側に土塁、その外側に堀が巡り、長さは約8kmに及んだという。この大構は、天正年間 (1580年代頃)、小田原の後北条氏が豊臣政権との緊張が高まる中、岩槻城外の町場を城郭と一体化するため築いたとされ、城の防御力の強化を図ったほか、城下の町場の保護にも大きな役割を果した。廃城後は、次第にその姿を消し、現在は一部が残っているにすぎず、愛宕神社が鎮座するこの土塁は、大構の姿を今にとどめる貴重な遺構となっている。~下記案内板より抜粋転載~

愛宕神社 「大雛壇飾り」

本殿に続く27段の石段を利用して、ひな人形を飾る「大雛壇飾り」が3月に公開。2017年から岩槻中心市街地まちづくり協議会主催で始まった。展示されているお雛様は地元自治会の回覧で募って寄せられたもので雛段には約300体が飾られる。公開日は関係者やボランティアの方が朝に出して飾り、夕方にはしまうとのこと。

上記写真:号外NET さいたま市見沼区・岩槻区HPより転載

大龍寺(岩槻区本町)


曹洞宗のお寺で、雲居山大龍寺といい、釈迦如来を本尊としている。寺の創立は元和6年(1620)岩槻藩主青山忠俊により開基された。昭和29年(1954)本堂が火災により焼失したが、平成17年(2005)に再建。山門や本堂には立派な龍が彫刻されている。境内には、岩槻人形の中興の祖と言われている橋本重兵衛の墓がある。また、本堂裏には樹齢約400年の大きなスダジイがある。 ~Mapion観光マップ埼玉県さいたま市岩槻区より抜粋転載~

「山門」

「山門」の龍彫刻

「本堂」

扁額

龍が巻き付く向拝柱


「道元禅師御尊像」

県道に面した参道右手に「六地蔵」

龍門寺(岩槻区日の出町)


参道

龍門寺の文化財

戦国時代の天文19年(1550)、小田原後北条氏の重臣佐枝若狭守が自らの館内に開創したのが龍門寺です。そのため、境内の西側と北側に残る土塁は佐枝氏の館の名残と言われており、山号の玉峰山もこの若狭守の法号に因みます。江戸時代には、幕府の祖・徳川家康を祀った日光東照宮に将軍が参詣する日光御成道に面するようになり、岩槻藩主大岡忠光の菩提寺としての歴史を刻んできた。

【 国指定重要文化財(工芸品)刀 無銘 伝助真一ロ 】

長さ70cmあまり。銘は失われていますが、備前国(岡山県)の福岡一文字派の名エ助真の作と伝えられている。豪壮華麗で、鎌倉時代中期の特徴を持っている。岩槻藩主大岡忠光の遺品で、現在は埼玉県立歴史と民俗の博物館に寄託。

【 市指定有形文化財(歴史資料) 龍門寺所蔵資料一括 】

宝暦10年(1760)に死去した岩槻藩主大岡忠光の墓誌のために、子の忠喜が、後に幕府を批判した思想書『柳子新論』を著した医師兼儒官・岩槻藩士山縣大弐に作成させた「大岡忠光行状記」や大岡忠光公関係甲冑その他や龍門寺の開基佐枝家関係資料、龍門寺経営資料など龍門寺に伝来した資料。現在は埼玉県立歴史と民俗の博物館、埼玉県立文書館に寄託。

【 市指定有形文化財 (建造物)龍門寺山門一棟 

一間一戸で、柱が四本からなる薬医門形式。桁行約3.5n、梁間約1.4mを測る。本柱は断面長方形の材の長辺を正面に据え、

重厚な外観を創出している。建立年代は明確でないが、建築部材の絵様は江戸時代前半の特徴を示している。なお、解体修理の際に、東側の破風登裏甲上面で寛政10年(1798)の墨書銘が発見された。

 【 市指定史跡 大岡家の墓 】市指定史跡 大岡家の墓

江戸幕府側用人で、岩槻藩主大岡忠光(1760年没)の墓。石組の基壇上に巨大な五輪塔を据え、他にも忠光の墓碑や石灯籠を配している。境内南側(山門入って左側)にある。 さいたま市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「山門」

【 市指定有形文化財 (建造物)龍門寺山門一棟 一間一戸で、柱が四本からなる薬医門形式。桁行約3.5n、梁間約1.4mを測る。本柱は断面長方形の材の長辺を正面に据え、重厚な外観を創出している。建立年代は明確でないが、建築部材の絵様は江戸時代前半の特徴を示している。なお、解体修理の際に、東側の破風登裏甲上面で寛政10年(1798)の墨書銘が発見された。

「開基堂」

「中門」

「本堂」

扁額

「七福神」と「鐘楼」

「鐘楼」

「水子地蔵尊」

「聖観世音菩薩立像」

「大岡家の墓」

<さいたま市指定史跡>

江戸幕府側用人で、岩槻藩主大岡出雲守忠光(1760年没)の墓。扉に大岡家の家紋を配した瑞垣の中、石組の基壇上に上から空、風、火、水、地を表す巨大な五輪塔を据え、地輪の正面には「得祥院殿義山天忠大居士」、右側面には「武州岩槻城主従四品前雲州太守大岡氏藤原忠光之墓」と刻まれている。他にも明和事件の中心人物となる山縣大弐が関係した忠光の墓碑や石灯籠が残されている。大岡家は三河以来の徳川家の譜代の幕臣で、一族の中からは名奉行として知られる大岡越前守忠相を輩出した。

忠光は三〇〇石の旗本の家の生まれでしたが、その才能を発揮して、御側衆・御用御取次・若年寄(奥勤兼帯)、さらに側近として最高職の側用人まで出世し、第九代将軍徳川家重近くに仕えて厚い信任を得、幕府政治を長い間動かしてきた。宝暦元年(1751)には勝浦(千葉県)一万石の大名となり、その後加増が続き、宝暦6年には二万石の岩槻藩主となった。岩槻藩主としての忠光の在任期間は四年間と短く、幕政の中心人物として多忙を極めた。宝暦10年4月に亡くなり、後の側用人田沼意次ほか幕閣要人や諸大名が関与する中、僧侶五十人余による盛大な葬儀が当山で行われている。明治維新まで続く岩槻藩主大岡家八代の基礎を作った名君で、幕藩体制の維持に尽力した忠臣でもあった。さいたま市教育委員会  ~下記案内板より抜粋転載~

久伊豆神社(岩槻区宮町)


参道

岩槻市総鎮守 久伊豆神社由緒

【御祭神】大国主命(大己貴命)【御例祭】四月十九日、十月十九日

久伊豆神社は、今を去る千三百年前、欽明天皇の御代出雲の土師連の創建したものと伝えられる。その後相州鎌倉扇ヶ谷上杉定正が家老太田氏に命じ、岩槻に築城の際、城の鎮守として現在地に奉鎮したといわれている。江戸時代歴代城主の崇敬厚く、

特に家康公は江戸城の鬼門除として祈願せられた。神社境内は城址の一部で、元荒川が東北に流れ、市内でも数少ない貴重な社叢として知られている。明治8年1月11日、火災に遭い、時の城主、町民より寄進された社殿等烏有に帰し、現社殿は、その後氏子崇敬者の誠意により再建されたものである。現在神域は次第に整い、神威はいよいよ高く神徳ますます輝きわたり岩槻市総鎮守として広く人々の崇敬をあつめている。~下記案内板より抜粋転載~

「明戸庚申社」

【御祭神】猿田彦神【御神徳】交通安全 開運除災

天孫降臨の際ニニギノミコトを道案内したことから、道開きの神・人生の道案内の神として有名です。容姿は「赤鼻の天狗」と伝えられています。この庚申社は、廃藩置県に伴い岩槻城の明戸口から移築された物です。~案内板より転載~

「神苑」

此の庭の様式は「枯山水」といって、水を用いず、石組みを主として山水を表す庭である。作庭者:會田常藏氏

「手水舎」

「狛犬」


「拝殿」

「本殿」

久伊豆神社のご祭神、大国主命をお祀りしているお社。4月19日「春季例大祭」には五穀豊穣等のお願いをし、10月19日「秋季例大祭」には収穫の感謝をいたします。この二回のお祭りのときに、本殿の御扉を開き沢山の神饌物を神様に捧げます。~久伊豆神社HPより転載~

「伏見稲荷神社」

御祭神】宇迦之御魂神【御神徳 五穀豊穣 商売繁盛

全国で「お稲荷さん」の名で親しまれ、食物や農業を司る神様として有名。屋敷神としても個人や企業でお祀りされている。

シンボルの「白狐」は、穀物を食い荒らすネズミ等を捕食することや、尻尾の形が稲穂に似ていること等から神様のお使いとされている。~案内板より抜粋転載~

「榛名神社」

御祭神】火産霊神、植山毘売神【御神徳御神徳 火防、五穀豊穣

群馬県高崎市(旧群馬郡榛名町)の榛名神社の御祭神は、それぞれ火の神、土の神として信仰されており、この地が盤石な地となるよう祀られている。~案内板より抜粋転載~

「厄割り石」

厄割り石とは「厄」の文字が逆に彫られた石で、厄が逆さまに落ち、また厄の反意(逆)である「福」を呼び込むといわれています。厄割り石に「厄割の玉」を思い切り投げつけ、心と身体の邪気を祓ってください。~久伊豆神社HPより転載~

「水天宮」(総本宮 久留米より勧請)

【御祭神】天之御中主神 安徳天皇 高倉平中宮 二位の尼(平時子)【御神徳】安産祈願・子授け・水難除け

福岡県久留米に鎮座する全国総本宮 水天宮より御霊をお分かちいただきました。当社では「さいたま水天宮」としてお祀りいたします。水に関する御神徳があり、水が生命を生み育むことから安産や子育て、また水難除けの神様として信仰されています。

1. 水琴窟(すいきんくつ):水琴窟とは日本庭園にみられる技法。地中に造った空洞に水を流すと、その反響で琴のような美しい音を聞くことが出来る。心安らぐ癒しの音を感じてください。2. 夫婦杉くぐり:天高く二本並んでそびえ立つ夫婦杉の間をくぐり抜けると、夫婦円満となり子宝、安産・子育ての願いが叶うといわれています。3. 椿の花めぐり:椿は水天宮と縁があり、神紋にも使われている。一年を通してお楽しみいただけます。 ~下記案内板より抜粋転載~

「水琴窟」

「夫婦杉」

樹齢100年を超える

「北野天満宮」

御祭神】 菅原道真公御神徳 学業成就 合格祈願 技芸上達

道真公(845~903)は類い稀なる才能の持主で文章博士に抜擢され右大臣に上りつめた人物。牛にまつわる縁起が多いことから「撫で牛」も一緒にお祀りされている。牛を撫でると願いが叶うといわれている。~案内板より抜粋転載~

「撫で牛」

「叶い戌(いぬ)」(子育て戌)

岩槻散策 Ⅱ へ続く。