岩槻散策 Ⅱ


"城下町と人形のまち岩槻"を散策してきました。岩槻駅を出発し、城下町として栄えた岩槻の文化財や史跡などのスポットを巡る。見どころがたくさんあり、魅力あふれる岩槻を満喫できました。 -2024.11.01-

さいたま市岩槻駅周辺観光マップ

上記MAP:さいたま市岩槻区観光経済課

時の鐘(岩槻区本町)


「時の鐘」

<さいたま市指定有形文化財(工芸品)>

岩槻城下の時の鐘は、寛文11年(1671)、城主阿部正春の命令で鋳造されました。渋江口に設置された鐘の音は、城内や城下の人々に時を知らせていた。約50年後の享保5年(1720)、鐘にひびが入ったため、時の城主永井直信が改鋳したものが現在の鐘。鐘は一日三回撞かれたとも言われているが、江戸時代後期には、一日十二回撞かれていたようです(『新編武蔵国風土記稿』他)。鐘楼は、嘉永6年(1853)に岩槻藩により改建されており(棟札銘)、方13.1m、高さ2.1mの塚の上に建っている。

さいたま市教育委員会  ~下記案内板より抜粋転載~


城下町岩槻

鎌倉時代から室町時代頃の岩槻は、奥大道と呼ばれる幹線道が元荒川(当時は荒川の本流)を渡る地点にあたっていた。幹線道と水上交通路でもある大河が交差する岩槻の地には、城下町の成立以前に町場が形成されていた可能性がある。

戦国時代になると、交通の要衝でもある岩槻には岩槻城が築城され、城を中心とする都市形成が本格化。この頃には久保宿・富士宿・渋江宿などが文献史料に現れ、市町などの町場の形成が進んでいた。城下町岩槻の成立です。そして、戦国時代の末、天正15年(1587)頃には、城下町の周囲に大構と呼ばれる土塁と堀が築かれ、岩槻城と一体化した形で城下町が確立した。

江戸時代を迎えると、近世の身分秩序に基づき城下町が再編され、岩槻城大手門外の一帯を中心に武家地(武家屋敷ゾーン)、街道沿いには町家(商工業ゾーン)が配置された。また、旧来の街道は日光御成道として整備され、城下町はその宿場ともなった。武家地内は諏訪小路、裏小路などの街路名で呼ばれ、生垣や板塀で区画された広壮な武家住宅が形成。大構の出入り口と、武家地・町家の出入り口は「口」と呼ばれ、門・木戸が設けられていた。渋江口には、寛文11年(1671)、岩槻城主阿部正春が、時の鐘を設置。現在の鐘は享保5年(1720)、鐘にひびが入ったため、当時の城主永井直信が改鋳したもの。

町家では、「うなぎの寝床」などといわれる細長い区画に区分され、さまざまな業種の商家などが通りに面して店を構えていた。町家の中心である市宿町では、戦国時代以来の六斎市(毎月六回開かれる定期市。市宿では一と六の付く日に開かれた)も開かれ、特産の岩槻木綿の取引などでにぎわった。さいたま市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

岩槻城址公園(岩槻区太田)


岩槻城の城跡を整備して作られた約18万㎡の広大な公園。自然林に囲まれた起伏の多い公園で、岩槻城の土塁が今も現存、園内の菖蒲池には朱塗りの八ツ橋がかけられており、公園の彩りがなお一層引き立つ。桜と睡蓮の名所として知られ、四季を通じて数々の賑やかな催し物が開催される。春の季節には、桜まつり、流しびなが行なわれ、秋には人形供養祭が行なわれる。

<公園施設>岩槻城 黒門・裏門・空堀(土塁)跡、菖蒲池・八ツ橋、じゃぶじゃぶ池(噴水)、からくり時計など

「岩槻城」

岩槻城は室町時代末に築かれた城郭。築城者については太田道灌とする説、父の道真とする説、そして後に忍(現行田市)城主となる成田氏とする説など様々です。16世紀の前半には太田氏が城主となっていたが、永禄10年(1567)三舟山合戦(現千葉県富津市)で太田氏資が戦死すると小田原城の北条氏が直接支配するところとなった。北条氏は天下統一を目指して関東への進出を図っていた豊臣秀吉と対立。やがて天正18年(1590)5月20日からの豊臣方の総攻撃を受けた岩槻城は2日後の22日に落城。同年、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと徳川家康が江戸に入り、岩槻城も徳川の家臣高力清長が城主となった。江戸時代になると岩槻城は江戸北方の要として重要視され、幕府要職の譜代大名の居城となる。室町時代から江戸時代まで続いた岩槻城であったが、明治維新後に廃城となった。城の建物は各地に移され土地は払い下げられて、およそ400年の永きにわたって続いた岩槻城は終焉の時を迎える。

岩槻城が築かれた場所は現在の市街地の東側で、元荒川の後背湿地に半島上に突き出た台地の上に、本丸、二の丸、三の丸などの主要部が、沼地をはさんで北側に新勝寺曲輪が、沼地をはさんだ南側に新曲輪がありました。主要部の西側は堀によって区切られ、更にその西側には武家屋敷や城下町が広がっていた。また城と城下町を囲むように大構えが造られた。城というと、一般的には石垣や天守閣がイメージされるが、岩槻城の場合、石垣は造られず、土を掘って堀を造り、土を盛り上げて土塁を造るという、関東では一般的な城郭であった。現在では城趾のなかでも南端の新曲輪・鍛冶曲輪跡(現在の岩槻公園)が県史跡に指定されている。どちらの曲輪も戦国時代末に北条氏によって造られた出丸で、土塁・空堀・馬出など中世城郭の遺構が良好に残されており、近年の発掘調査では北条氏が得意とした築城術である障子堀が見つかっている。 ~下記案内板より抜粋転載~

「岩槻城城門」

<岩槻市指定文化財 有形文化財(建造物)>

 この門は岩槻城の城門と伝えられる門である。岩槻城内での位置は明らかではないが、木材部分が黒く塗られていることから「黒門」の名で親しまれている。裏門と伝えられるが、門扉の両側に小部屋を付属させた長屋門形式の門で桁行(幅)約13m、梁間(奥行)約3.7mである。屋根は寄棟造で瓦葺き。廃藩置県に伴う岩槻城廃止により城内より撤去されたが、昭和45年(1970)城跡のこの地に移築された。この間、浦和の埼玉県庁や県知事公舎の正門、岩槻市役所の正門などとして、移転・利用された。修理・改修の跡が著しいが、柱や組材、飾り金具などに重厚な城郭建築の面影を伝えている。岩槻城関係の数少ない現存遺構として貴重なものである。さいたま市教育委員会文化財保護課 ~下記案内板より抜粋転載~

「岩槻城裏門」

<岩槻市指定文化財 有形文化財(建造物)>

この門は岩槻城の城門である。岩槻城の裏門と伝えられるが、城内での位置は明らかではない。現状では、門扉を付けた本柱と後方の控柱で屋根を支える薬医門形式となっている。間口約3m、奥行約2mであり、向かって左側袖塀に門扉左に潜戸を付属している。屋根は切妻造で瓦葺き。左右の本柱のホゾに記された墨書銘により、江戸時代後期の明和7年(1770)に当時の岩槻城主大岡氏の家臣武藤弥太夫らを奉行として修造され、文政6年(1823)に板谷官治らを奉行として修理されたことが知られる。数少ない岩槻城関係の現存遺構の中でも、建築年代の明確な遺構として貴重なものである。

廃藩置県に伴う岩槻城廃止後、民間に払い下げられたが、明治42年(1909)以降、この門を大切に保存して来られた市内飯塚の有山氏から岩槻市に寄贈され、昭和55年(1980)岩槻城跡のこの地に移築された。なお、門扉右の袖塀はこの時付け加えられたものである。さいたま市教育委員会文化財保護課 ~下記案内板より抜粋転載~

「人形塚」について

昭和46年(1971)当時の岩槻人形連合協会は10月15日を「人形の日」と決め、埼玉百年を記念してこの岩槻城の一角に人形塚と人形の碑を建立。人形塚は、郷土の日本画家、関根將雄画伯のデザインよるもので、製作に当たっては、地元の若き人形職人等の熱き協力がありました。男雛、女雛が仲むつまじく寄りそった姿は「人」を形象し世界の平和と郷土岩槻の限りなき発展を願っている。当地の人形作りの起源は、 江戸時代のはじめ日光東照宮造営の頃(1630年)とされている。その後幾とせ、人形作りに心血を注ぎ、いそしんだ先輩父祖の霊を慰め、また多くの人形師が心をこめて作り上げかつ人々に愛された人形達の冥福を祈り、この人形塚は作られた。埼玉県觀光連盟 岩槻市観光協会 岩槻人形協同組合 ~下記案内板より抜粋転載~

「八ツ橋」と「菖蒲池」

「からくり時計」

「じゃぶじゃぶ池」

岩槻人形博物館(岩槻区本町)


日本有数の人形産地であるさいたま市岩槻区に、日本初の人形専門公立博物館として、2020年2月22日に開館。当館では、近代人形産業の拠点として発展した、岩槻に伝わる人形作りの技を紹介するだけではなく、日本文化の中に息づく人形の美と歴史を大観し、広く発信していくミュージアムを目指します。~岩槻人形博物館HPより抜粋転載~

「常設展」

【展示室1】埼玉の人形作り:岩槻をはじめとした埼玉県は日本最大の日本人形の生産地。この展示室では、人形はどのように作られているのか、伝統的な技法を中心に紹介。人形の製作道具や材料、近隣で作られた人形や文献などの資料を展示するほか、現代の職人による人形作りの様子を映像で鑑賞できる。 

人形作りの様子(面相描き)

上記写真:岩槻人形博物館HPより転載

埼玉で生まれた人形

鈴木 賢一 作 "天まで上がれ"

上記写真:岩槻人形博物館HPより転載

【展示室2】コレクション展示:日本の人形:当館の所蔵品は、日本画家で人形玩具研究家として知られる西澤笛畝の著名な日本人形のコレクションが柱。この展示室では、笛畝コレクションをはじめとした所蔵品の日本人形を、常時観賞できる。

子供の成長を祝う -節句人形

"雛人形 古今雛"

上記写真:岩槻人形博物館HPより転載

見て遊んで楽しむ -古典人形

"御所人形 鶏合"

上記写真:岩槻人形博物館HPより転載

個性はふれる魅力 -創作人形 

平田郷陽(ひらた ごうよう)作 "矢の根

平田郷陽(1903-1981)は重要無形文化財保持者(人間国宝)にも認定された、昭和期を代表する人形作家。

上記写真:岩槻人形博物館HPより転載

"餅"

平田郷陽(ひらた ごうよう) 

昭和14年(1939)

冬の日に、童子が火鉢に網をかけて餅を焼いている様子。火吹き竹に口を付けて頬を膨らませ、眉根を上げた一生懸命な顔の表情がかわいらしい。箱蓋裏の墨書から、制作年がはっきりしている作品としても貴重。奥主泰司コレクション。~説明版より転載~

"ゆび"

平田郷陽(ひらた ごうよう) 

昭和32年(1957)

やや内股で、下駄を履いた足のかかとを壁にすり上げながら、自分の指先をじっと見つめる子供の姿。おかっぱに切り揃えられた髪型もかわいらしい。同形の作品が複数あり、くり返し作られた形とわかる。奥住泰司コレクション。~説明版より転載~

人々の暮らしに根ざす -郷土玩具

"相良土人形"

上記写真:岩槻人形博物館HPより転載

「特別企画展」

"忘れたくない、大切なもの -高橋まゆみ人形展- "

"おむすび"(2003)

上記写真:岩槻人形博物館HPより転載


岩槻城と城下

江戸時代の岩槻城は、城郭・士族屋敷・城下町から成り立っていた。城郭は、本丸、二の丸、三の丸を中心に幾多の曲輪があった。士族屋敷は、江戸時代初期と後期では異なっていたが、小路と呼ばれる道の両側に屋敷を構えていた。城下町は、九町四か新田からなり、その一つが写真にある横町(栄町)です。この写真は、昭和27年8月7日の七夕のときに撮影されたもので、家並みや竹の七夕飾りなど当時の風情がよくわかる。さいたま市 ~下記案内板より抜粋転載~

旧秋葉邸 裏小路公園(岩槻区本町)


【岩槻の歴史】

岩槻城は室町時代に関八州の北の砦として築城されて以来、城下町としての岩槻の歴史が始まる。江戸時代を迎えると、岩槻は江戸近郊の城下町として栄えるようになる。岩槻城大手門外の一帯を中心に武家屋敷、街道沿いには町家が配置された。また旧来の街道は将軍の日光参拝路でもある日光御成道として整備され、城下町はその宿場町としても賑った。現在地である裏小路公園周辺には、遷喬館や時の鐘など由緒ある史跡が多く、東へ足を延ばせば、当時の面影を残す岩槻城址公園がある。

裏小路について

岩槻藩士の居住地の道は小路と呼ばれ、町人の住む城下町とは区分されて、両者の境には木戸が設けられていた。ここ裏小路は、大手門につながる小路の一つ。

旧秋葉邸 裏小路公園について

地元自治会では、さいたま市との合併以前から「景観形成勉強会」を立ち上げ、この地域の歴史と景観について勉強し、拠点となる公園の実現に向けた活動を行っていた。この公園は、この地が公園予定地となったことを契機に、城下町・人形文化を取り入れた公園計画を自治会・住民・市が協働して立案し、建設されたもの。 ~下記案内板より抜粋転載~

岩槻藩遷喬館(岩槻区本町)


岩槻藩遷喬館

遷喬館は、江戸時代後期の寛政11年(1799)に岩槻藩の学者児玉南柯が青少年の教育のために創立した家塾で、後に藩校となりった。最盛期には梅林を伴った広大な敷地の中に、武芸稽古所、菅原道真を祀る菅神廟(天神社)、南柯の自宅「梅亭」、築山・池泉、展望台などが設けられていた。現存する建物は、遷喬館の学舎(校舎)として使用されていたもので、十五畳と九畳からなる二間続きの教場を備えている。江戸時代には全国に多くの藩校があったが、県内において保存されている藩校は、遷喬館が唯一のもので、昭和14年(1939)3月31日に埼玉県指定文化財(史跡)に指定された。さいたま市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

鈴木酒造 酒蔵資料館(岩槻区本町)


明治4年創業からの伝統の酒づくりを今に伝えるさまざまな歴史的資料・道具を展示。他にビデオコーナーや試飲コーナーをはじめ地酒全商品を扱う直売店も併設。(入場無料・要予約)

岩槻郷土資料館(岩槻区本町)


岩槻郷土資料館は、岩槻城城下町の大通りだった市宿町の中ほどにある。昭和初期に建てられた旧岩槻警察署の建物を使い、昭和57年5月1日に開館。「岩槻のあゆみ」、「大昔のくらし」、「くらしの道具」の三つのテーマで展示を行っている。戦国時代の関東地方で大きな役割を果たした岩槻城に関する資料、考古学史上著名な国指定史跡真福寺貝塚の出土品などは、当館ならではの展示品。~さいたま市HPより抜粋転載~

 

建物は、昭和5年(1930)に建てられた岩槻警察署旧庁舎。天井の梁や窓にみられるアーチ状の造形やアールデコ調の装飾が随所に施され、警察署庁舎としての機能性と装飾性を兼ね備えた建物のデザインがみられる。平成28年(2016)には国の有形文化財に登録された。

上記写真:さいたま市公式観光サイトHPより転載

岩槻駅(岩槻区本町)


「巌(いわお)をもって築けるがごとき城」という意味から起こり、古くは「岩付」や「岩築」の文字が用いられた。「岩槻」となったのは宝暦明和の頃からで、また一説によると、当地には「久伊豆神社」があるところから、神を祭った土地の意味ともいわれている。昭和4年に「岩槻町駅」として開設、昭和14年から「岩槻」の駅名になった。~東武鉄道HPより抜粋転載~

駅前には"人形のまち岩槻"をイメージして平成8年(1996)に作られた高さ8mのからくり時計がある。

岩槻駅東口階段のラッピング装飾。岩槻らしい人形のデザインは、市民アンケートにより決定したもの。

上記写真:さいたま市HPより転載

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