「新旧岩淵水門」を見学しに赤羽岩淵へ。歩き足らず、赤羽散策しながら「🌸赤羽自然観察公園🌸」へ。行った先に期せずして「ROUTE2020トレセン通り」、アスリートが集う施設「国立スポーツ科学センター」や「味の素ナショナルトレーニングセンター」が… 😊 !! “新しい場所の発見”の一日でした。 -2020.03.18-
江戸時代初期の荒川の背替えから昭和初期までは今の隅田川の流路に荒川が流れていた。今の荒川下流域は人や機械が掘って作った人工の荒川放水路。明治43年(1910年)洪水により、荒川流域に大きな浸水被害が発生した。これを契機として、荒川下流改修計画が策定され、人工の川、荒川放水路約22kmがつくられた。~荒川上流河川事務所HPより抜粋転載~
「旧岩淵水門」は、荒川放水路ができたときに、放水路と旧河道(隅田川)との分派点に設けられ、隅田川に荒川の洪水が流入するのを制限していた。その後、施設の老朽化が進行したこと、昭和48年に荒川の基本計画が改訂されたことに伴い、水門の高さの不足が生じたことから、全面改築されることとなり新しい「岩淵水門」がつくられた。「旧岩淵水門」は、今は水門としての役目を終えているが、子供たちの学習の場や、人々の憩いの場として保存されており、平成21年には荒川放水路とともに近代化産業遺産に認定されている。
旧岩淵水門(赤水門)
岩淵水門(青水門)
「旧岩淵水門」
(Old Iwabuchi Water Gate)
■ 旧岩淵水門のあらまし
昔、 荒川 下流部は現在の 隅田川 の部分を流れていましたが、川幅がせまく、堤防も低かったので大雨や台風の洪水被害をたびたび受けていました。そのため、明治44年から昭和5年にかけて新しく河口までの約22kmの区間に人工的に掘られた川( 放水路 )を造り、洪水をこの幅の広い放水路(現在の荒川)から流すことにしました。現在の荒川と隅田川の分かれる地点に、大正5年から大正13年にかけて造られたのがこの旧 岩淵水門 (赤水門)です。その後旧岩淵水門の老朽化などにともない、昭和50年から新しい 水門 (旧岩淵水門の下流に造られた青い水門)の工事が進められ、昭和57年に完成し、旧岩淵水門の役割は新しい岩淵水門(青水門)に引き継がれました。長年、流域の人々を洪水から守り、地元の人たちに親しまれた旧岩淵水門は、現在子どもたちの学習の場や、人々の憩いの場として保存されています。
近代化産業遺産
近代化産業遺産 の価値を顕在化させ、地域活性化に役立てることを目的として 経済産業省 は平成19年度に国や地域の発展において貢献してきた建造物、機械、文書などを対象に「 近代産業遺産群33」を取りまとめました。平成20年度には、その中の「国土の安全を高め都市生活や産業発展の礎となった治水・防砂の歩みを物語る近代化産業遺産群」において「旧岩淵水門及び荒川放水路」が認定されました。このほかにも旧岩淵水門は「 日本の近代土木遺産 」「 東京都選定歴史的建造物 」「 北区景観百景 」に認定されています。 国土交通省 荒川下流河川事務所 ~下記案内板より転載~
「旧岩淵水門」は、土木建築物としての価値が高いと再評価され、1995年(平成7年)には産業考古学会によって「推薦産業遺産」に、1999年(平成11年)には「東京都選定歴史的建造物」に選定された。
「岩淵水門」
増水時に、荒川の水が隅田川へ流入することを防ぎます。「岩淵水門」は、大正13年に完成した「旧岩淵水門」の老朽化、地盤沈下による高さの不足のため、昭和57年に旧水門の下流約300mに建設された。平常時は、水門を開放し船の通行を確保するとともに、隅田川の水質を浄化するために荒川の水を流下させている。増水時には水門をしめて隅田川への流入をくいとめ、首都東京を水害から守る大切な役割を担っている。
●完成年:昭和57(1982)年 ●ゲートの大きさ:高さ16.7m×幅20.0m×3門(たたみ約620畳分)
●ゲートの重さ:214トン(1門あたり) ●ゲート調整時間:約50分 ●場所:東京都北区志茂地先
●操作水位:荒川水位AP+4.00mで隅田川へ流入したとき(荒川平常時水位より約2.7m上昇したとき)
■岩淵水門の役割
【平常時】
●全門開放されていて、荒川の流量の約3割を隅田川に流し、隅田川の水質浄化の効用を果たしている。
●舟運に支障がないように全門開放されている。
【増水時】●水門を閉め、荒川の水を隅田川に流さないようにしている。<国土交通省 荒川下流河川事務所>
左側が「旧岩淵水門」隅田川。 右側が荒川、奥に川口市街。
荒川水位の観測を始めた昭和2年からの洪水の水位の記録を示している。一番上は昭和22年(1947年)のカスリーン台風時で8.60m(A.P.※ )。次が昭和16年(1941年)の8.27m(A.P.) 。3番目が昭和33年(1958年)狩野川台風時の7.48m (A.P.)となっている。※A.P.とはArakawa Peilの略。東京湾霊岸島量水標零位を基準とする基本水準面。荒川、中川、多摩川等の水位の基準。
「月を射る」作者:青野正
荒川リバーアートコンテスト特賞
荒川流域の人と情報の交流、また北区における河川公園管理の拠点としてこれらの機能を集結させる形で1998(平成10)年3月に開館。訪問日は、残念ながら新型コロナウイルスの感染拡大防止策を講じる観点から当面の間休館でした。
「船堀閘門の頭頂部」
荒川知水資料館入口に保存されている「船堀閘門の頭頂部」。かつて荒川下流の左岸にあり、新川や中川と荒川を繋いでいた。
「岩淵八雲神社」は、岩槻街道の東裏、荒川堤防の南側近くに鎮座。この神社は、江戸時代に徳川将軍が日光東照宮に参詣する際に利用した日光御成道の第一の宿場として栄えた岩淵宿の鎮守社。祭神には須佐之男尊が祀られている。創建年代は不詳。が、江戸時代後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」には、「牛頭天王社、宿ノ鎮守トス、正光寺持」とあり、これが「テンノウサマ」として親しまれていたことがわかる。また神仏分離以前には正光寺が別当寺。明治6年7月に村社に定められ、それ以来、赤羽八幡神社の兼務社となっている。境内には、本殿、幣殿・拝殿、神楽殿、末社水神社が配置。水神社は舟運業者の信仰を集めた神社。祠の右側には「寛政12庚申正月吉日」の年紀が刻まれている。また、勝海舟が荒川で足止めされたときに書いたとされる大幟旗も所蔵。~岩淵八雲神社境内掲示より抜粋転載~
鳥居
元自衛隊十条駐屯地として使用されていた土地の一部に整備された公園。谷状の地形を有し、湧水が存在しており、この湧水の保全・活用をするため、北区では従来タイプの公園づくりではなく、「自然とのふれあい」をテーマに新しい公園づくりを目指しましたとのことです。~東京都北区HPより抜粋転載~
「北区ふるさと農家体験館」
かつて浮間地区に所在し、江戸時代後期に建てられた建物、旧松澤家住宅。赤羽自然観察公園の中に移築復元され、北区の歴史や文化を伝える貴重な文化遺産。館内では、座敷に上がって見学できるほか、年中行事や昔のおもちゃ作りなど古民家体験事業、施設ガイドを行っている。新型コロナウィルスの感染拡大防止のため、3月6日より臨時休館でした。
北区には、日本のトップアスリートが集う「味の素ナショナルトレーニングセンター」や「国立スポーツ科学センター」などがある。北区は、これらの施設と赤羽駅、十条駅を結ぶ道を愛称名「ROUTE2020トレセン通り」と名づけ、この一帯を「トップアスリートのまち・北区」を全国へ発信する拠点エリアと位置づけている。~東京都北区HPより抜粋転載~
ルート図
JISSでは、スポーツ医・科学研究の中枢機関として、充実した最新施設、器具・機材を活用し、各分野の研究者、医師等の専門家集団が連携しあって我が国の国際競技力向上を支援しています。~国立スポーツ科学センターHPより抜粋転載~
味の素ナショナルトレーニングセンター(NTC)は、スポーツ医・科学・情報研究機関であるJISSと一体となった国際競技力向上のための強化活動拠点。スポーツ振興基本計画に基づき、我が国におけるトップレベル競技者の国際競技力の総合的な向上を図るトレーニング施設として、2008(平成20)年1月21日に開所。~味の素ナショナルトレーニングセンターHPより抜粋転載~
「ROUTE2020トレセン通り」の中心付近に位置する稲付西山公園に、アスリートの燃える魂がトレセン通りと北区の未来を明るく照らし続けるようにという願いを込めて、「アスリート手形モニュメント」を2017(平成29)年4月に設置。モニュメントの先端部分は、アスリートの”魂”を具現化した炎の形。その形状は塔型で、高さは全長6.16m。フランスのルノー・ラビレニが保持する、モニュメント設置時における棒高跳び世界記録と同じ高さに設計。高さの設定には、アスリートの記録への挑戦や、アスリートの偉大さを可視化したいという想いを込めた。モニュメント下部の台座にあたる部分には、内輪10枚、外輪16枚の手形を設置することが可能。 ~東京都北区HPより抜粋転載~
体操:内村航平選手の手形!!
小道に河津桜&なぜかオウム
花の蜜?花散らし?