杉並区史跡散策 Ⅲ ①


西荻窪駅から地蔵坂、「東京女子大学」の前庭を見学し「善福寺公園」、「善福寺」、「井草八幡宮」へ。その後、「観泉寺」、「荻窪八幡神社」へ。一駅電車に乗って高円寺駅へ向かい「高円寺氷川神社」「気象神社」を参拝してきました。 -2024.11.29-

 

杉並区史跡散策は、2023年12月に訪問。

  杉並区史跡散策Ⅰ(Dec.2023)  杉並区史跡散策Ⅱ(Dec.2023)  へ。

地蔵坂(杉並区善福寺)


この坂道は、別名「御立場坂(おたてばざか)」「寺分坂(てらぶざか)」とも呼ばれているが、一般的には地蔵坂と呼ばれている。名称の由来としては、かつて坂の途中に地蔵堂があり、地蔵菩薩や庚申塔(こうしんとう)、馬頭観音(ばとうかんのん)などが祀られていたことにあるようです。~現地案内板より抜粋転載~

「縁結び童子」

彫刻家薮内佐斗司 作「童子像」のひとつ。杉並区の女子大通り地蔵坂の坂途中にある。"今は知らないあなたとあなた  ぼくが繋いであげようか  ご縁のいとの両端を結べばできるえにしのわ"

東京女子大学(杉並区善福寺)


東京女子大学は、1918年に北米のプロテスタント諸教派の援助のもと、新宿角筈の仮校舎でその一歩を踏み出した。初代学長 新渡戸稲造、初代学監 安井てつ、そして初代常務理事には1915年から設立に参画していたA.K.ライシャワーが就任。日本では女性が高等教育を受けることが一般的ではなかった時代に、女性に門戸を開き、キリスト教の精神に基づいたリベラルアーツ教育を開始。1924年、角筈の仮校舎を出て、大学は活動の場を井荻(善福寺)の地へ移した。新進気鋭の建築家A・レーモンドに設計を依頼し、何もない土地に一つ一つ必要な建物を立て、理想のキャンパスを造り上げていった。本館やチャペル・講堂など文化庁登録有形文化財でもある建造物群は、全てこの時期に造られたもの。学問の府ともいえる本館(図書館)の正面、仰ぎ見る壁面には、新約聖書「フィリピの信徒への手紙」からの一節がラテン語で「QUAECUNQUE SUNT VERA」と刻まれた。「すべて真実なこと」。真理探究という学問の真髄が掲げられたのです。~東京女子大学HPより抜粋転載~

 

正門守衛室で記帳して、目の前に広がる芝生のVERA広場から出ないこと&建物には入らない規則の説明を受け、外観のみの見学をしました。

「本館」(図書館)

正門をくぐるとまず目に入るのが本館。緑の芝生に映える白亜の本館は、美しいキャンパスのシンボル。"QUAECUNQUE SUNT VERA"(すべて真実なこと)※の標語が白亜の壁に刻まれている。建築年:1931(昭和6)年 平成4年度BELCA賞(ロングライフ・ビルディング部門)受賞 平成10年度文化庁登録有形文化財登録 ~東京女子大学HPより抜粋転載~

「チャペル・講堂」

ステンドグラスが美しいチャペルでは、毎朝礼拝を行っている。また、パイプオルガンによるチャペルコンサートを開催し、学外の人々からも親しまれている。講堂では、入学式、卒業式、講演会などが行われ、秋には大学祭(VERA祭)の会場にも。

建築年:1938(昭和13)年 平成4年度BELCA賞(ロングライフ・ビルディング部門)受賞 平成10年度文化庁登録有形文化財登録 ~東京女子大学HPより抜粋転載~

善福寺公園(杉並区善福寺)


善福寺池を中心にした公園。池の水は、かつては神田上水の補助水源として利用されたほど澄んでおり、湧水量も多く、武蔵野三大湧水池のひとつとして知られていた。池の名称は、昔、この付近にあった寺の名からとったと伝えられている。

開園年月日:昭和36年6月16日 開園面積:80,264.47平方メートル(令和2年1月1日現在)

善福寺公園園内マップ

上記マップ:東京都公園協会HPより転載

「善福寺池 下の池」入口

善福寺川

善福寺川は善福寺池を水源とし、杉並区の中央を南東に蛇行して流れ、中野区に入って神田川に合流する区内最長の川で、区内での延長は約10.5 ㎞。この川の流域には、区内における最大級の遺跡として知られる松ノ木遺跡を始めとして、光明院南遺跡・川南遺跡・谷戸遺跡・大宮遺跡・済美台遺跡などがあり、こうした遺跡の所在は、水量豊かな善福寺川の流れを古くから人々が活用していたことをうかがわせる。徳川家康は、天正18(1590)に江戸へ入ると、ただちに善福寺川・神田川・妙正寺川を給水源とした最初の上水といわれる小石川上水(のちの神田上水)をつくり、江戸に給水した。明治34(1901)の東京市上水道の完成に伴い、飲料水の給水を廃止するまで、善福寺川は東京における最古の水道の一つとして地域を潤してきた。かんがい用水としてもひろく利用された善福寺川は、流域の農村の人々にとって、農耕・生活上重要な役割を担っていた。昭和初期から終戦後に、川の一部で改修がおこなわれたが、市街地化が進んだことで昭和20 年代に浸水被害が多発した。そのため、昭和25(1950)から再び改修がなされ、現在も護岸の整備や調節池の増設など治水事業がおこなわれている。昭和5(1930)には、水源である善福寺池の周辺地域が、また昭和10(1935)には中流域の和田堀地域が、都市における自然景観の保護を図る風致地区に指定されている。風致地区内にある都立善福寺公園をはじめ、川沿いの都立善福寺川緑地・和田堀公園は、武蔵野の面影を伝える豊かな緑が残り、私たちの目を楽しませてくれる。杉並区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「善福寺池 上の池」入口

遅野井(おそのい)の由来

今滝は往時の湧水の湧き出し口遅野井を滝の形で復元したものであるが、遅野井については、次のような伝説がある。その昔、源頼朝が奥州征討のため、この地に軍を率いて当宿った。氏神八幡宮に誓願し無事遠征を終え、この地に戻った際、折からの干ばつで軍勢は渇きに苦しんだ。頼朝は弁財天に祈り、自ら弓で地面を7か所掘った。軍勢は渇きのあまり水が湧き出るのが遅い、遅の井と言った。その時、忽然として7か所に水が湧きだし、軍勢は渇きを癒した。その後江ノ島弁財天をこの地に勧請して善福寺弁財天を創建したと言う。~下記案内板より抜粋転載~

「遅野井湧水の碑」

善福寺(杉並区善福寺)


善福寺

当寺院は、福寿山と号する曹洞宗の寺院で、本尊は木造阿弥陀如来立像(杉並区登録有形文化財)です。開創は明らかではありませんが、開山は御堂阿闍梨と伝えられ、中興開山は月山機法です。古くは、無量山福寿庵と称する浄土宗系の小庵でしたが、宝永6(1709)に観泉寺持になったといわれ、観泉寺末となってからは善通坊とも呼ばれた。伝来する経机に「文化十二年………無量山善福寺福寿庵」と記されていることから、昭和17(1942)に寺名を「善福寺」に改めた。文政11(1828)に成立した「新編武蔵風土記稿」には、"当地にはかつて善福寺、万福寺という寺があったが、いつの間にか廃絶してしまい跡も残っていない。善福寺は地震によって池水が溢れ、堂宇(建物)が破壊されてしまい、遂に復興もされず善福寺の名は池の名称として残るのみである。"との記載があり、古くから池畔には「善福寺」という寺院があった事が分かるが、この「善福寺」と当寺院との直接の関係については明らかではない。本尊の木造阿弥陀如来立像は鎌倉時代末期の作といわれ、流れるような衣文が美しい優雅な像。その他、境内には浄土宗系寺院であった時代の歴代住職の墓石や、建武元(1334)年銘板碑、享保12(1727)年銘地蔵石像などがある。杉並区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「本堂」

井草八幡宮(杉並区善福寺)


「井草八幡宮」

当社は旧上、下井草村の鎮守。祭神は八幡大神で、明治時代までこの付近の古い地名から、遅野井(おそのい)八幡宮とも呼ばれていた。当社は900余年の歴史をもつと伝えられ、社前には建久4(1193)、源頼朝による奥州平定を報賽して手植寄進したという大きな松があったが、昭和48(1973)に枯れてしった。江戸時代の慶安2(1649)には、徳川家光が社殿を造営させ、朱印領6石を寄進している。3年ごとに神幸祭(神輿の渡御)、5年ごとに鎌倉の昔をしのぶ珍しい流鏑馬の神事が行われている。境内東側付近からは縄文時代中期(約4,000年前)の住居跡が発見され、多くの土器が発見された。その中の顔面把手付釣手形土器は、国の重要文化財に指定されている。このように当社周辺は太古の昔から、人々が住居を構えた、生活に適した地であったことが窺える。杉並区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「大鳥居」

昭和33年建立。高さ約9mで青梅街道に面している。

「楼門」

鉄筋コンクリート造りで昭和46年に作られ、随神が一対納められている。また左右両側は各町会の神輿庫になっている。

手水舎

狛犬


「神門」

「本殿」

建築様式は権現造り。昭和49年築のコンクリート造りの殿内には寛文4年(1664)に今川氏堯が改築した一間四方の朱塗の本殿がある。杉並区最古の木造建築物。

扁額


「神楽殿」

平成7年、源頼朝公祈請800年記念・皇太子殿下御結婚奉祝事業として従来の舞台だけのものから橋掛かりのあるものへと改築された。里神楽や井草囃子、狂言または薪能などが行われる。

「文華殿」

「招神殿」

文化10年(1813)に造られた元拝殿。現在は祖霊舎として戦争で亡くなった方を中心にお祀りしています。

頼朝公御手植の松

鎌倉時代初頭の文治5年(1189)、源頼朝公は奥州藤原氏の征伐に向かう途次、当神社に戦勝祈願に立ち寄った。その後、無事

奥州平定に成功した頼朝公は、その報賓として建久4年(1193)、社頭に雌雄二本の松を自らの手で植え奉献された。

雌松(赤松)は明治時代に枯れてしまったが、雄松(黒松)は約800年の間、井草地域の標徴として仰ぎ見られていた。東京都の天然記念物に指定され、高さ約40m、周囲約5m、大人3人でやっと抱えられる程の威容を誇っていた。しかしながら、昭和47年(1956)7月、強風によって二股に分かれた大幹の一方が折れ落ちて以来、急速に衰え終には枯れてしまった。現在、神門内側にある衝立は、その根を輪切りにしたもの。現在の松はその大松の末流にあたり、二代目の御手植の松として大事に育てられている。~下記案内板より抜粋転載~

摂社・末社

祓戸神社(祓戸大神・須佐之男命)

三宮神社(天照大御神・春日大神・天満天神)


三谷稲荷神社(宇迦之御霊神)

新町稲荷神社(宇迦之御霊神)


「三峯神社」(伊邪那岐命・伊邪那美命)

相殿に新町御嶽神社と三谷御嶽神社を祀る

「力石」