杉並区史跡散策 Ⅲ ②


西荻窪駅から地蔵坂、「東京女子大学」の前庭を見学し「善福寺公園」、「善福寺」、「井草八幡宮」へ。その後、「観泉寺」、「荻窪八幡神社」へ。一駅電車に乗って高円寺駅へ向かい「高円寺氷川神社」「気象神社」を参拝してきました。 -2024.11.29-

 

杉並区史跡散策は、2023年12月に訪問。

  杉並区史跡散策Ⅰ(Dec.2023)  杉並区史跡散策Ⅱ(Dec.2023)  へ。

観泉寺(杉並区今川)


「観泉寺」

当寺は、宝珠山観泉寺という曹洞宗の寺院。本尊は木造釈迦如来坐像で、戦国時代の名門今川氏ゆかりの寺として広く知られている。寺伝によれば、慶長2年(1597年)、鉄叟雄鷟(てつそうゆうさく)大和尚によって、今の下井草二丁目付近に開祖され、観音寺と称した。正保2年(1645年)、今川氏13代直房は、将軍家光の命をうけて京に上り、東照大権現の宮号宣下の使者を務めた。その功により井草村など三ヶ村500石の加増を受けた。それを機に当寺を菩提寺とし、現在地に移して寺名を観泉寺と改めた。信仰厚く伽藍建立に寄与した姉(観泉寺殿簾室慶公大姉)を中興とし、万昌院(現中野区)から祖父氏真(うじざね)の墓所を当寺に改葬、勧請開基。ここに眠る開基の今川氏真は、今川氏が敗れた永禄3年(1560年)5月19日の「桶狭間の戦」で父義元を失い、家督を継ぐが、領国であった駿河は北条氏・武田氏が、遠江は松平元康(徳川家康)が支配することになった。今川氏没落後の氏真は、北条氏や松平氏の下に身を寄せ、文化人として多くの和歌を詠んでいます。徳川幕府が成立したのち、今川氏は幕府高家として召し抱えられ存続した。~下記案内板より抜粋転載~

東京都指定旧跡の「今川氏累代墓」がある

「山門」

扁額:寶殊山

「本堂」

扁額:観泉禅寺


「閻魔堂」と銀杏

日本庭園

「鐘楼」

今川氏累代墓

<東京都指定旧跡>

戦国時代、桶狭間の戦いで、織田信長に敗れた今川義元の子孫は、江戸時代には高家として幕府に仕えました。今川家は知行所として上・下井草、鷺宮、中村などを給され、幕府の儀式典礼を司り、将軍の名代として京都への使者や、日光、伊勢などの代参を勤めました。義元から三代目となる直房はこの観泉寺を今川家の菩提所とし、今川氏始祖国氏や義元など今川一族の供養を行うようになりました。墓碑が残るのは義元の子氏眞以降の当主や一族出身の女性や子供など多岐にわたっています。また、観泉寺は今川氏の所領支配の中心でもあり、年貢の徴収や裁判の拠点となっていました。この周辺の今川という地名も今川家と観泉寺とのかかわりに因むものです。東京都教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

右手側ある孟宗竹の竹林

秋には紅葉ライトアップも開催


荻窪八幡神社(杉並区上荻)


「荻窪八幡神社」

当社は旧上荻窪村の鎮守で、今から約1,100 年前の寛平年間(889年~898年)に、応神天皇を祭神として創立されたと伝えられている。永承6年(1051年)、源頼義が奥州の安倍貞任征伐の途中、ここに宿陣して戦勝を祈願し、のち康平5年(1062年)の凱旋の時、神恩に感謝して当社を厚く祭ったといわれている。また、文明9年(1477年)4 月、江戸城主太田道灌は、上杉定正の命をうけ石神井城主豊島泰経を攻めるにあたり、源氏の故事にならってこの神社に武運を祈願し、この時、槇(コウヤマキ)の樹1株を植えたと伝わる。この樹は「道灌槇」とも呼ばれ、500 年以上の歳月が経過した現在も御神木として大切に保護されている。昭和61年(1986年)には、杉並区の天然記念物に指定された。なお、当社には、永仁2年(1294年)、嘉慶2年(1388年)、応永29年(1422年)銘の板碑や狛犬等石造物、社宝の勝海舟の大幟(おおのぼり)などがある。勝海舟の大幟は、平成28年(2016年)に杉並区の有形文化財に指定されている。杉並区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

北参道「一之鳥居」前

参道の「狛犬」


「神楽殿」

昭和8年新築・昭和43年増築・平成18年屋根替

「二之鳥居」右手に「祓門」

「手水舎」

昭和28年。木造銅板葺き。狛犬の口が吐水口となっている。

「神門」

昭和42年。木造、総檜造、銅板葺

拝殿前の「狛犬」


「拝殿」

扁額

「道灌槇」

関東官領であり、武蔵の領主であった、上杉定政に対し、家臣の長尾景春が武蔵を侵さんとして石神井城主・豊島泰経及びその甥の平塚城主・豊島泰明と款を通じて反逆した。之を激怒した上杉定政は江戸城主太田道灌に出陣を命じた。道灌は文明9年4月13日平塚城を攻撃し四囲より火を放った。この急報に豊島泰経は道灌軍の背後を突き、江戸城へ進撃せんとして江古田、沼袋の線で石神井城へ進撃する道灌勢と遭遇し後世「江古田の合戦」と伝えられる戦斗を開いたが豊島軍利あらず、道灌軍は騎虎の勢をもって石神井城に迫った。文明9年4月16日、道灌軍は東及南より石神井城を攻撃するに当って、道灌は当社に詣で戦捷を祈願して軍神祭を行ない、槇樹一株を献植した。これが今当社に伝わる道灌槇で、一根二幹であったが昭和9年の暴風雨で一幹折損し一幹となり、樹齢500年を経た今なお、「千年の社・百尺の高野槇」と称えられている。昭和61年3月、杉並区・天然記念物(植物)に指定された。荻窪八幡神社社務所 ~下記案内板より転載~

「猿田彦神社」

【ご祭神猿田彦大神ご利益導きの神、交通の神

末社(五社宮)

「稲荷神社」【ご祭神保食神ご利益商売繁盛・五穀豊穣「祓戸神社」【ご祭神瀬織津姫神・速開津姫神ご利益厄災消除「須賀神社」【ご祭神須佐之男命ご利益縁結び・病気平癒「琴平神社」【ご祭神大物主神ご利益旅行安全・事業繁栄「御嶽神社」【ご祭神太詔戸神ご利益開運

東参道「一之鳥居」

高円寺氷川神社(杉並区高円寺南)


「高円寺氷川神社」

この神社の祭神は素盞鳴命(すさのをのみこと)。社伝によれば、源頼朝が奥州征伐の際にこの地に着き、安達藤九郎盛長に命じて社殿を建立させたとも、家臣の村田兵部某が高円寺村にとどまり農民となった時、大宮の氷川神社をまつって社殿を建立したのが起源ともいわれている。言い伝えによれば、天文年間(1532年~1555年)、村内にある髙円寺(曹洞宗寺院)と同じ頃の創建といわれる。しかし、詳細なことは定かではない。当社は「新編武蔵風土記稿」多摩郡高円寺村氷川社の条に、「除地四段三畝十歩 外ニ供免一段五畝 小名原ニアリ 是モ鎮守ナリ 本社三尺四方南向 上屋二間ニ三間 木ノ鳥居ヲタツ 村内高円寺ノ持」と記されており、江戸時代には高円寺村小名原の鎮守様として農民の信仰を集め、髙円寺が別当職を務めていたとわかる。明治7年(1874年)に、村社となった。境内には、3社の末社がまつられているが、なかでも気象神社(祭神・八意思兼命(やごころおもいかねのみこと))は、全国で唯一の非常に珍しい神社。この社は、戦時中、旧馬橋4丁目(現・高円寺北4丁目)にあった陸軍気象部内にまつられたものだが、戦後、関係者の要請で当神社の境内に移された。杉並区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「手水舎」

花手水♪

狛犬


「拝殿」

氷川神社 末社「稲荷大明神」

気象神社(氷川神社末社)


「気象神社」

【御祭神】八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)(智恵の神) 【例大祭】六月一日(気象記念日)

由緒この気象神社は、旧陸軍気象部の構内(旧馬橋4丁目、現在高円寺北4丁目)に昭和19年4月10日造営、奉祀され、途中空襲に因る焼失、再建されたが太平洋戦争の終戦に依り気象部隊解散に伴い旧気象部隊関係者によって払い下げを受け当高円寺氷川神社に昭和23年9月18日遷宮祭を執行し、移設されたものである。以来気象部隊関係者を始め多くの方々のご参拝、奉仕を受けて参りましたが月日の経過と共に社殿の腐食が甚だしく遷宮55年を記念して新しい社殿の御造営に着手し、平成15年6月1日の気象記念日に竣工式を挙行した。氷川神社宮司 山本雅道 ~下記案内板より転載~

「鳥居」

狛犬


「社殿」

下駄絵馬

照々みくじ


上記:気象神社HPより転載

照々みくじ

照々みくじには御祈願された8色のかわいい「てる坊」が出てきて、かつお天気のおみくじがも出てくるとのこと。