杉並区史跡散策 Ⅳ ① -荻外荘-


2024年12月に一般観覧を開始した「荻外荘」へ行ってきました。まずは、「杉並区立郷土博物館」の分館へ"国指定史跡復原整備完成記念 企画展「荻外荘」と近衞文麿"を観賞。事前知識を得て、「荻外荘」へ。企画展と戦争を巡る昭和史の舞台となった「荻外荘」の見学から文麿氏と昭和史の一部を垣間見ることができました。-2025.01.21-

荻外荘公園(杉並区荻窪)


杉並区荻窪に所在する区立公園。近衛文麿の邸宅であった「荻外荘」を近文麿居住当時の姿に復原整備し、区立公園「荻外荘公園」として公開。2024年12月9日(月) から一般観覧開始。

荻外荘(近衞文麿旧宅) <国指定史跡>


「荻外荘」は、昭和戦前期に総理大臣を3度務めた政治家近衞文麿の邸宅。当初は昭和2(1927)年に、大正天皇の侍医頭を務めた医師の入澤達吉が、義弟で建築家の伊藤忠太に設計を依頼して建てた邸宅(「楓荻荘」)であった。昭和12(1937)年に近衛文麿が入澤から邸宅を譲り受け、その後、西園寺公望が「荻外荘」と命名した。近はここで政治会談や第二次・第三次近内閣の組閣を行うなど、荻外荘は、近衛の主要な政治の場となった。特に昭和15(1940)年の「荻窪会談」は、第二次近衛内閣の基本方針が確認された会談として有名。戦後、昭和20(1945)年12月16日に近は邸内の書斎で自決した。平成28(2016)年3月1日、昭和の政治の転換点となる重要な会議が行われた場所として、国の史跡に指定された。~下記案内板より抜粋転載~

「荻外荘」正門入口

表札は「近

"衛"の字は旧字の近衞

「車寄せ」

平面図

上記:「荻外荘」パンフレットより転載

「来客用手洗」

当時としては珍しかった温冷水の洗面台と洋式トイレは衛生陶器の初期型を復原したもの。~荻窪三庭園HPより抜粋転載~

「玄関」

第二次近内閣組閣時の昭和15年(1940年)7月19日、玄関の外には和太鼓が置かれ、記者発表の際に打ち鳴らされた。その様子は「日本ニュース 第7号」(太平洋戦争直前から戦後にかけて映画館で放映されたニュース映画。第7号は昭和15年7月23日に放映された)でも見ることができる。玄関を入ったところには、荻外荘の名付け親となった最後の元老西園寺公望の筆跡による「荻外荘」の扁額が掛けられている。~杉並区公式HPより抜粋転載~

「尚武太鼓」(しょうぶたいこ)

この太鼓は、第二次近内閣の基本方針を決定した「荻窪会議」(昭和15年7月19日)当日の正午に、日本太鼓工業会から近衛文麿に贈られたもの。(参考:朝日新聞夕刊、昭和15年7月20日付)後日行われた新大臣発表では荻外荘に集まっている報道人を集めるために、それまで使用されていた拍子木に代わり、玄関車寄せに置かれたこの太鼓が打ち鳴らされた。同年10月には、当時の警察署長による署員の士気高揚の願いを受け、杉並警察署に譲り渡された。胴部の「尚武 文麿」の文字は、その後、筆で書かれた文麿直筆の文字を写し取り、刻んだもの。太鼓名はこの文字が由来となっている。~現地案内板より抜粋転載~

「応接室」

中国風の意匠でまとめられた部屋で、床には龍の敷瓦、天井には書画家・王一亭が描いた龍の天井画が4枚貼られている。設計者である伊東忠太は、日本の建築も時代に合わせ進化するべきであるとする「建築進化論」を提唱した人物で、創建時の居住者である入澤達吉は、漢詩を趣味とした。この部屋には、両者の意向が反映されていると考えられる。この部屋は近居住期になっても、大きな改変をされずに使用された。天井画を描いた王一亭は上海出身の書画家で、入澤の日記には上海在住の知人を通し、王に龍画の揮毫依頼をしたことが記されている。また、近衞も王と交流を持ち、荻外荘には王から送られた掛軸が多数残されていた。中央に置かれている螺鈿家具の彫刻部分は、古写真や同時代の螺鈿家具の類例を参考に、梅とカササギの透かし彫り、牡丹彫刻とした。~杉並区公式HPより抜粋転載~

螺鈿細工(らでんざいく)

家具に施された螺鈿の意匠は古写真から復原された。家具本体は着色摺漆(木地に漆を摺り込む技法)、螺鈿は厚みのある貝を木地に装着する厚貝(あつがい)によるもの。~下記案内板より抜粋転載~

床の龍の敷瓦

敷瓦 型

復原レプリカ 敷瓦


書画家 王一亭が描いた龍の天井画

広縁」

広縁と外部を仕切るガラス戸には、伊東忠太の特徴的な意匠がほどこされている。広縁や廊下の照明は、奇跡的に1つ残っていたものから復原した。~杉並区公式HPより抜粋転載~ 屋敷の南側には日当たりのよい芝生広場が広がる。

「食堂」

創建時の居住者である入澤達吉は、この邸宅を、客人を招くための場所にしたいと考え、食堂には、来客をもてなすための大きなテーブルと多くの椅子が置かれた。床は寄木張りとなっている。邸宅を譲り受けた近文麿は、荻窪会談〔昭和15年(1940年)7月19日〕を客間で行った後、この場所で出席者をもてなした。葡萄とリスの意匠があしらわれた食堂キャビネットは、古写真を参考に復原。壁紙の色や文様も古写真のカラー化分析から推定し、腰壁壁紙文様は双鳳文様、長押上壁紙文様は鶏頭文様とした。~杉並区公式HPより抜粋転載~

文麿肖像画

床は寄木張り

「客間」

第二次近内閣組閣時の昭和15年(1940年)7月19日に行われた「荻窪会談」をはじめ、戦前期の重要な会談が行われた部屋。荻窪会談の様子は、報道写真やニュース映画で伝えられた。楓荻荘(ふうてきそう)を入手した近文麿は、この部屋を創建時の姿のまま使用した。客間には、当時としては珍しい冷暖房器具が備え付けられていた。壁紙や絨毯の色、文様は古写真のカラー化分析から推定して復原。腰壁壁紙の文様は、葡萄唐草、スイカズラ、インド更紗などを組み合わせた文様とし、長押上壁紙は、連続する動物文様とした。連続する動物文様は中国山東省の漢代石墓の意匠によく見られる。~杉並区公式HPより抜粋転載~

「荻窪会談」

左から近文麿次期総理、松岡洋右次期外相、

吉田善吾海相、東條英機次期陸相。

上記写真:杉並区公式HPより転載(提供:朝日新聞社)

椅子やテーブル、棚に飾られた人形など

当時の部屋の様子を忠実に再現。

テーブルクロス


「書斎」

創建当初は天井の高い洋室でしたが、近衞文麿が首相を退いた後に和室へ改修された。GHQより戦犯容疑で出頭命令を受けた近は、出頭期限である昭和20年(1945年)12月16日早朝、この部屋で自決した。近家の人々はこの部屋を「とのさまのへや」と呼んで大切にし、現在まで大きく改変されることなく、当時の姿を今にとどめている。書斎中央に置かれたケヤキ製の座卓(杉並区指定有形文化財)は、近の貴族院議長就任時〔昭和8年(1933年)6月〕に政治家・河原田稼吉から贈られたもの。~杉並区公式HPより抜粋転載~

「茶の間」

「居間」

「蔵」

文麿が住み始めた後の昭和13年(1938年)に建築された2階建ての蔵で、痕跡調査の結果、近居住期から現在までほとんど改変されていないことが分かった。近家で使用されていた生活用具をはじめ、漆工品、書画、長持などが保存されていた。近家の日記には、近家本宅であった永田町邸から、荻外荘に長持や桐箪笥を運んだことが記されている。入澤居住期〔昭和2年(1927年)~昭和12年(1937年)〕、この場所には鉄筋コンクリート造の倉庫があったが、昭和12年の近への楓荻荘譲渡に際し、倉庫は入澤の引っ越し先に曳家された。~杉並区公式HPより抜粋転載~

「別棟」

文麿が住み始めた後の昭和13年(1938年)に増築された。近の長男・文隆の書斎(10畳)や妻・千代子の部屋(6畳)があり、屋根裏に残されていた棟札には、「当主 近衞文隆」と記されている。近文隆は昭和15年(1940年)に出征し、終戦後はシベリアに抑留され同地で死去。シベリアから家族に宛てた手紙には、帰国後は荻外荘に戻りたい旨が書かれていた。~杉並区公式HPより抜粋転載~ 現在はミュージアムショップやカフェに使用されている。

「芝生広場」

荻外荘の南側は芝生広場の公園になっており、近が暮らしていた時代の樹木も残っている。広場内の井戸は現在も使用可能。~杉並区公式HPより抜粋転載~ 2024(令和6)12月末頃から2025(令和7)年6月頃まで芝生養生中のため入れない。

芝生広場から見た「車寄せ」

杉並区立郷土博物館 分館(杉並区天沼)


2007(平成19)年、「天沼弁天池公園」と同時にオープンした「杉並区立郷土博物館」の分館。杉並区の歴史や地理にまつわる資料を展示する本館とは趣向が異なり、1階展示室では、区民の参画による展示を継続的に実施し、2階では企画展や本館との巡回企画展を開催している。

国指定史跡復原整備完成記念 企画展

「荻外荘」と近衞文麿

荻窪の閑静な住宅街にある「荻外荘」は、大正天皇の侍医頭を務めた医学者・入澤達吉の別邸として昭和2年に建てられ、政治家・近文麿が昭和12年の第一次内閣期から昭和20年12月に自決するまで過ごした。政治の転換点となる重要な会議が数多く行われた場所であることから、平成28年3月、国の史跡に指定された。今年12月から、近文麿居住当時の状態へ復原整備された「荻外荘」を一般公開する。この企画展では、復原整備の完成を記念して、「荻外荘」創建時の資料や近家旧蔵資料を中心に展示し、昭和前期の歴史をたどる。~杉並区公式HPより抜粋転載~ ※「荻外荘」見学前に訪問。


「郷土博物館 東棟」

1階は、公園の休憩所となっている

「天沼弁天池公園」

かつて、この公園の南側広場あたりにはこんこんと水の湧き出る"天沼弁天池"と呼ばれる池があった。池は、広さ約300坪(直径35m程度)の円形で、約5坪(直径4~5m)の中ノ島には弁天様が祀られていて、大正の半ば頃までは、日照りが続くと大勢の農民が集まって弁天様へ雨乞いの行事も行なわれていた。この池は、桃園川の水源のひとつでもあり、天沼の地名の起こりになったともいわれている。こうした由緒ある土地の由来を将来に伝承するために「天沼弁天池公園」と名づけた。~杉並区公式HPより抜粋転載~

近衞文麿の足跡


国指定史跡復原整備完成記念 "企画展「荻外荘」と近文麿"の展示に、近衛文麿書の「荻窪白山神社」の社号碑が奉献されているとのことで参拝してきました。

荻窪白山神社(杉並区上荻)


当社は旧下荻窪村の鎮守で、祭神は伊邪那美命(いざなみのみこと)。当社の起源は社伝によると、文明年間(1469~1487)関東管領上杉頭定の家臣中田加賀守が、屋敷内に五社権現社を奉斎したのにはじまり、後に中田一族が栄え、ここに社殿を建てたと伝えられている。社は地域の氏神様としてだけではなく歯の神様としても知られている。伝えられるところによると、ある時、中田加賀守の弟兵庫が教しい歯痛に悩んでいると、白山の神様が夢に現れ「境内の萩を箸として食事をするように」という御神託をなさいました。兵庫が御神託のとおりに境内の萩で食事をすると不思議に歯の痛みが止まったといいます。この事情を聞いた近隣の人々は、歯痛の治る神様としても信仰し、参拝者も多くなったといわれている。明治42(1909)年の古記録に、神前に供えられた萩の箸が山となっている様子が記されているほか、昭和42(1967) 年の環状8号線の拡張にともない、社殿の造営をおこなった折には、古い社殿の長押から納められた萩の箸が山のように出てきて人々を驚かせた。この社殿の造営の際に新調された大太鼓(直径149㎝)は、当時、府中の大國魂神社の太鼓に次ぐ都内第二の大きさであった。杉並区教育委員会  ~下記案内板より抜粋転載~

「一の鳥居」

「社号碑」

「公爵 近文麿」と刻まれており、右側面には「皇紀二千六百年記念」とある。神社の記録によると、1940(昭和15)年 氏子総代が荻外荘を訪ねて、文麿に揮毫をお願いしたとのこと。~LIVINGむさしのHPより抜粋転載~


「参道」

「参道」途中に道路が横切る。

「二の鳥居」

「手水舎」


狛犬


「社殿」

扁額

「神楽殿」

「神輿庫」

境内末社

「三峯神社」

「和み猫」

神社の方位を守護する十二支の瓦が奉納されたが、そんな中猫好きの神職さんが十二支に猫がいないのは可愛そうということでのんびりと眠る猫の石像「和み猫」を置いて仲間に入れたあげたとのこと。2011年の東日本大震災の地震が発生し、社務所の瓦はすべて落ちてしまい、残念ながら十二支の瓦もすべて破損してしまった。 しかし、地面に近い位置に居た石の猫は何事もなかったようにのんびりとお昼寝をしている姿を参拝者に見せ、震災で心を痛めた人たちの心を大いに癒し、和ませた。それから一つずつ石の猫は増えていった。

「正一位稲荷神社」

「田守稲荷神社」


絵馬