北品川から大森まで約4.5㎞、旧東海道を歩く「東海七福神」。
「東海七福神」:品川は平安の昔よりその地名があり、鎌倉・室町時代には江戸湾の重要な港として、栄えてきました。太田道灌も品川に居た時代がありました。徳川家康が江戸に入り慶長6年(1601)に東海道五十三次を定め、品川は第ーの宿場町となりました。沿道には由緒ある社寺が多く、古くから七福神が祀られ、「七難即滅七福即生」の故事により参詣も多く、昭和7年に品川が大東京に編入された記念として東海七福神初詣を定め、今に至っております。~東京十社・東海七福神HPより転載~
「山手七福神巡り」に続き、"七社寺お巡り用色紙"を持って「東海七福神」を巡ってきました。-2023.01.05-
東海七福神おめぐり図
東京十社・東海七福神HPより転載
弁財天(べんざいてん)
式内社と呼ばれる古い格式をもつ神社。『三代実録』によれば貞観元年(859)「武蔵国従五位磐井神社官社に列す」とあり、この神社を武蔵国の八幡社の総社に定めたといわれ、また平安時代(十世紀)に編纂された『延喜式』の神名帳に記載されている。別名、鈴森八幡宮とも呼ばれ、当社の由緒書によれば、江戸時代には、徳川家の将軍も参詣したことが記されている。昭和7年から始まった東海七福神の弁財天となっている。
社殿
昭和20年(1945年)の戦災で焼失し、現在の社殿は昭和29年(1954年)に再建された。社殿には『日本三代実録』の中で、貞観元年(859年)に武蔵国の八幡社の総社に定められた伝承から「武蔵國八幡總社」の扁額が掛かっている。
笠嶋弁天社
天社殿の左、弁天橋を渡った先にある。ここに琵琶を持つ弁財天が祀られている。『万葉集』の「草陰の荒蘭の崎の笠島を見つつか君が山路越ゆらむ」の笠島は笠嶋弁財天の事と伝わる古社で、『江戸名所図会』にも現在地と同じ場所に弁天池と弁天社を見ることができる。
弁財天
海豊稲荷神社
神楽殿
新春写真撮影スポット
福禄寿(ふくろくじゅ)
浜川町と元芝の鎮守の氏神様として仰ぎ親しまれる天祖・諏訪神社。古くは神明宮、諏訪社と称し、かつては両社とも東京湾に面し、立会川を挟んで並び祀られていた。天祖神社の創建は、建久年間の大井郷之図や来福寺の記録から西暦1100年から1190年頃に遡るとも思われ、諏訪神社は松平土佐守の下屋敷の海岸寄りにあり、江戸時代初期の寛永8年(1631年)以前の創建と思われる。両社は昭和40年に合祀され、天祖・諏訪神社と称されるようになった。東海七福神の福禄寿を祀っている。
拝殿
狛犬
嚴島神社
世界文化遺産でも有名な広島県宮島の嚴島神社のご分霊を祀り、水の神・海上安全を司る神としても崇敬されている。
弁天池の鯉
福禄寿は南極星の化身とされ中国の道教に由来する。人望をあらわし、その向上を祈れば霊験が得られるという。背丈が低く頭がきわめて長く、髪が多く白髪童顔で年齢は数千歳ともいわれている。普段は本殿内にお祀りしているこちらの御神像は、東海七福神初詣期間のみ直接ご参拝の方にお触れ頂けるよう、社務所脇に拝み処を設けお祀りをしている。
マスクしてます
毘沙門天(びしゃもんてん)
海照山普門院 品川寺(ほんせんじ)は、真言宗醍醐派の別格本山で大同年間(806~10)開創と伝えられる品川区で最も古いお寺。本尊は水月観音(非公開)。東海七福神の毘沙門天を祀っている。
上記写真:品川観光協会HPより転載
宝篋印塔 <指定文化財>
台石が亀趺(きふ)
亀趺:「趺 (ふ)」とは石碑の台のことで、それが亀型である「亀趺」は、中国では1500年以上前から用いられており、日本では、江戸時代に伝わったといわれている。
銅造地蔵菩薩坐像 <東京都指定重宝>
入口にある大きな座像は「江戸六地蔵」の一つで、宝永五年(1708年)建立。深川の地蔵坊正元の発願による。神田の鋳物師 太田駿河守正義の作。地蔵菩薩は3m近くあり、1300年間、 旅人と町の人々を見守っている。
江戸六地蔵第1番
(品川寺地蔵菩薩)
本堂
上記写真:品川観光協会HPより転載
本尊の水月観音・聖観音、東海七福神の毘沙門天(江戸期作)、薬師三尊の薬師如来・日光・月光菩薩、不動明王、弘法大師坐像などたくさんの仏像が安置されている。
毘沙門天(びしゃもんてん)
<指定文化財>
江戸期作
写真:品川寺HPより転載
大梵鐘 <国指定重要美術品>
明暦3年(1657年)9月18日、京都三条大西五郎左衛門尉藤原村長に命じ鋳造。周囲に徳川三将軍の号(東照宮、台徳院殿、台献院殿)と六観音(聖・千手・十一面・准胝・如意輪・馬頭)を陽刻し、普門品一巻を陰刻する。なお、この大梵鐘は「洋行帰りの鐘」と呼ばれている。慶応3年(1867)パリ万国博覧会出品後に行方不明となったが、スイス・ジュネーヴで発見され、60余年を経て昭和5年(1930)に里帰りを果たした。そして、品川区とスイス・ジュネーブ市の友好関係を結ぶきっかけとなり、駅前通りが「ジュネーブ平和通り」と名付けられた由縁となっている。
薬師堂
稲荷堂 <指定文化財>
弁天堂 <指定文化財>
弁才天が祀られている
弘法大師修行像 <指定文化財>
十三重塔
七福神石造(弁財天像)
<指定文化財>
イチョウの木
<品川区認定天然記念物>
幹囲5m、35㎝、樹高25mで樹齢は約600年
しながわ百景 31 品川寺 32 品川寺の江戸六地蔵 33 品川寺の梵鐘
恵比寿神(えびすしん)
創立は和銅2年(709)、古くは貴船社・天王社・貴布禰大明神・品川大明神と呼ばれていた。現在の社殿は弘化元年(1844年)に完成したもの。祈雨と止雨の守護神とされる高龗神(たかおかみのかみ)をはじめ、天照大御神や須佐之男命などを祀っており、品川の龍神さまとして多くの信仰を集めてきた。神殿に掲げる荏原神社の扁額は内大臣三条実美公、貴布禰大明神の扁額は徳川譜代大名源昌高のお染筆。東海七福神の恵比寿神も祀っている。
目黒川にかかる鎮守橋
鳥居
鳥居をくぐると左側に
恵比寿神(えびすしん)さまがお出迎え
狛犬
明治二十九年(1896)奉納
拝殿
歴史を感じる拝殿。建物上部に施された龍の彫刻が素晴らしい。由緒によると、この神社は、古くから品川の龍神さまとして、源氏、徳川、上杉等、多くの武家の信仰を受けて現在に至っている。現在の拝殿は1844年に建てられたもので、平成2年で164年を迎えたそうです。
彫刻がみごとです
神殿に掲げる荏原神社の扁額は、内大臣三条実美公のお染筆。
神楽殿
しながわ百景 7 鎮守橋から新緑の荏原神社を望む 8 荏原神社の天皇祭り<6月>
寿老人(じゅろうじん)
一心寺之由来
安政二年(西暦1854年)日本開国之機運高まり国運の境目に接面し時、大老職にある井伊直弼公が縁起により江戸台場の沿革東海道第一の品川宿にて鎮護日本、開国条約、宿場町民の繁栄、安泰の願えとの霊験を悟り開山され、時の町民代表一同に倣って建立されたと伝えられております。当山は昭和の御代になり中興の祖とも云うべき僧正弘道大和尚に依り、豊盛山延命院一心寺と云う寺號を拝受し成田山分身の不動明王を本尊とし延命、商売の護りとして今日に続いております。
昭和六十一年より東海七福神の寿老人(寿命)の指定寺院に認定されしことは誠に意義深く、また、本堂の造りは京都本願寺の宮大工伊藤氏に依るものと称されており、 内陣には両大師、中国渡来之二仏、無指定の飛鳥仏と称する仏像、光雲作観音像、寿老人等が祀られております。 一心寺 僧正照幸代 ~下記案内板より転載~
山門
本堂
寿老人(じゅろうじん)
布袋尊(ほていそん)
正安元年(1299)創建の(山号)明鏡山善行院・天台宗のお寺。虚空蔵菩薩を本尊とし、4月と11月の第2土・日の大祭時にご開帳される。『木造不動三尊像』『銅造阿弥陀如来立像』は、品川区指定文化財。虚空蔵尊は、丑年・寅年生まれの守り本尊として信仰を集めるとともに、「十三詣り」と結びつき、子供が13~15歳までにお参りすると、福・徳・智慧が授かると言われている。虚空蔵尊春季・秋季大祭では多くの参詣者が訪れ、虚空蔵尊のお縁日として周辺商店街では露店や物産市、大道芸などが出て終日賑わう。東海七福神の布袋尊を祀っている。
堂内
布袋尊(ほていそん)さまは
ガラス越しでした😢
大黒天(だいこくてん)
今からおよそ800年程前の平安時代末期の文治3年(1187)に、源頼朝公が安房国の洲崎明神(現・千葉県館山市鎮座 洲崎神社)の天比理乃咩命を当地にお迎えして海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とする。やがて、鎌倉時代末期の元応元年(1319)に二階堂道蘊公が「宇賀之売命(お稲荷様)」を、さらに室町時代中期の文明10年(1478)に太田道灌公が「素盞嗚尊(天王様)」をそれぞれお祀りした。慶長5年(1600)、徳川家康公が関ヶ原の戦いへ出陣の際に当社へ参拝し戦勝を祈願され、その後、祈願成就の御礼として仮面(天下一嘗の面)・神輿(葵神輿)などを奉納された。また、寛永14年(1637)三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され当社がその鎮守と定められ、「御修覆所(神社の建物の再建・修復などは全て幕府が賄う)」となり、元禄7年(1694)・嘉永3年(1850)の二度の社殿の焼失の際には時の将軍の命により再建が行われる等、徳川将軍家の庇護を受けた。時代は明治に移り、同元年(1868)11月には明治天皇様が新都・東京の安寧と国家の繁栄を御祈願されるために、当社を含んだ都内の十の神社を「准勅祭神社」と定められ、御勅使が御参拝になられ御祈願をされた。大東亜戦争の折は、当社は幸いにして戦火を免れたが、社殿の老朽化が進み、昭和39年(1964)氏子各位の御協力により現在の社殿が再建された。東海七福神の大黒天を祀っている。
大黒天(だいこくてん)さまがお出迎え
一の鳥居
双龍鳥居
大正十四年(1925年)建造。都内では品川神社の他に阿佐ヶ谷の「黒橋稲荷神社」と高円寺の「稲荷神社」の2社しかない貴重なもので「東京三鳥居」といわれている。
左の柱:昇り龍
右の柱:降り龍
拝殿
上記写真:東京十社会HPより転載
「神楽殿」
祖霊社
拝殿の右奥に阿那稲荷神社(あないなりじんじゃ)の鳥居。
阿那稲荷神社 上社
参道を下る途中に
阿那稲荷神社 下社
一粒萬倍の御紳水
『万物は「天・地・水」の恵みを受けて生成化育し、米は一粒の種より萬倍の稲穂となる。当稲荷神社は「上社」が「天の恵みの霊」を「下社」が「地の恵みの霊」と「御神水」をお祀りする。家門・家業の繁栄を祈り、印鑑・銭にこの水をそそぐが吉。また、持ち帰りて家・店の入口・四隅にそそぎ、清く明るき心を持って暮らし・商売するが吉。そそぎし銭の一部は門前・北品川の商家にて使用するが吉。』~下記案内板より転載~
上記写真:品川観光協会HPより転載
参道の石段をあがる途中、左手にある登山道の入り口。
品川富士(富士塚)
<品川区指定有形民俗文化財>
富士塚は、富士信仰の集団、富士講の人々が、富士山の遥拝場所として、あるいは実際の登山に代わる山として造った築山である。品川神社の富士塚は、明治2年(1869)、北品川宿の丸嘉講社の講中三百人によって造られた。神仏分離政策で一時破壊されたが、明治5年に再築し、大正11年(1922)第一京浜国道建設の時現在地に移築された。江戸後期に盛んだった浅間信仰を知る上で、たいせつな文化財である。品川区教育委員会 ~案内板より転載~
反対側に富士登山道
浅間神社
狛犬の台座に富士山!!
御嶽神社
しながわ百景 9 品川神社 10 品川神社の例大祭り<6月> 11 品川神社の太太神楽
七社寺お巡り用色紙
参拝記念に色紙に印をいただきました!!