板橋区散策 赤塚エリアⅠ


初めての板橋区。自然と歴史の文化の里・武蔵野の香りが今なお残るエリア"赤塚エリア"を散策。東武東上線「東武練馬駅」から「徳丸北野神社」「旧粕谷家住宅」「安楽寺」「水車公園・徳水亭」「松月院」「浄蓮寺」「赤塚諏訪神社」「竹の子公園」「板橋区立郷土資料館」「赤塚溜池公園」「赤塚城跡」「赤塚氷川神社」を巡り「成増駅」へ。色々な史跡スポットを訪ね歩く盛りだくさんの一日でした♬  -2024.04.19-

上記パンフレット:板橋区くらしと観光課

徳丸北野神社(板橋区徳丸)


【由緒】当社が所蔵する社宝『天神宮紀』によれば、一條院正暦年中(990~994)に、この地に疫病が流行し、里人等大勢の者がこの病により暴死した。この時、里人の一人徳麿(とくまろ)の夢に大神様が現れ、当地にある梅の古木に祈願するようお告げがあった。お告げの通り梅下により、疫病の癒えん事を謹拝して去った所、奇妙な効果(霊験)が得られ疫病はことごとく去って行った。そこで、梅はまさしく聖廟天神の珍愛されたことから、山城国(京都)北野天満宮より御分霊を戴き、当地に祠を設けて、天満宮と号した。第66代一條院長徳元年乙羊(995)正月11日御幣帛を捧げ、大前に田夫の業を以て俳優(わざおぎ)となし、神威を安んじ奉った。この田夫の業とは、今の国重要無形民俗文化財「田遊び神事」の事で創建以来一年も休まず続けられている。以降、1,000年以上この地に鎮座し徳丸郷の氏神(徳丸・高島平、新河岸地区)として、合格学問成就・邪気祓・病気平癒の守護神として広く崇敬を集めている。また、当地の「徳丸」という名称は、古老曰く、「里人の一人、徳麿(とくまろ)から戴いたものである。」と伝わっている。古くは天神社、天満宮の社号であったが、明治6年から北野神社と改号された。なお、当社の国重要無形民俗文化財「田遊び神事」は、近年板橋区と区民が制定した「板橋十景」にも指定されている。

 

「一の鳥居」

「天王社」

北野神社ご由緒

【御祭神】正一位太政大臣 菅原朝臣道真公【御鎮座】長徳元年乙未(995年)正月十一日

【例祭日】2月11日【特殊神事】2月11日:国重要無形民俗文化財 田遊び神事、5月5日:区指定無形民俗文化財 獅子舞祭

【御由緒】当社所蔵の「武蔵國豊嶋郡徳丸郷天神宮記 」によれば「當社は天満天神 なり 往昔 此の処ろに古木の霊梅あり

一條院正暦年中(990年~994年)に里人等大勢の者が疫病の為に暴死した。此の時里人の或る者が 梅下に寄って疫癘の癒えんことを祈斜し謹拝して去った。將に其の効しを得るなり 斯く祈ることにより奇妙な効果が得られたことは 即ち是の誠の美精に徹する所ろ 鬼神の物に感ずる所以にして奇怪と言うに非ず。およそ 梅は聖廟天神の珍愛するところなり これを以て念いを山州葛野郡に通わし 當里に祠を設けて天満宮と号す。人皇第六十六代一條院長徳 元年乙未(995年)正月十一日御幣帛を捧げ 大前に田夫の業を以て俳優となし 神威を安んじ奉る。今の田阿留美の祭り 是れなり」とある。江戸時代には 天神社又は天満宮の社号であったが 明治六年から北野神社と改称された。~下記案内板より抜粋転載~

「二の鳥居」

北野神社 と無形民俗文化財 「田遊び 」

北野神社に伝わる縁起「武蔵國豊嶋郡徳丸郷天神宮記 」によると、長徳元年(995)京都北野天満宮から分離し、徳丸地に勧請されて当社が造立された。祭神の菅原道真は平安朝時代の学者で右大臣に任ぜられ重用された人物。のち藤原時平の策略にあって九州の太宰府に流されその地で亡くなった。没後は天神とあがめられ、学問、能筆の守り神として庶民から信仰を集めている。当社で行われる無形民俗文化財「田遊び」は、毎年二月十一日(旧暦正月十一日)の夜、その年の五穀豊穣や子孫繁栄を祈願して行なわれる予祝の祭事。当社を造立したときにその奉祝行事として「田阿曽美之祭」を行ったのが始まりとされている。創始の長徳年間から一千年にわたって休むことなく行われてきたとされ、土地の神を招き、稲作の一年間の行事を所作と唄で表す古い形を残した祭りである。唄や所作、言葉は口伝えで継承されており、全国的に見ても稀有なことから国の重要無形民俗文化財に指定されている。また、毎年五月には獅子舞が行なわれ、悪疫の退散と子供の無事生長が祈願される。板橋区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「手水舎」

"花手水"

「拝殿」

境内

石灯籠

鳥居のある「祖霊社」。右:「須賀神社」左:稲荷神社。

右から「石上神社」「天祖神社」 「三峯神社」「稲荷神社」「杵築神社」 

「本殿覆屋」

拝殿の背後の本殿は覆屋内

「神牛」

旧粕谷家住宅(板橋区徳丸)


旧粕谷家住宅

<東京都指定有形文化財(建造物)・板橋区登録有形文化財・景観重要建造物>

旧粕谷家住宅は、江戸中期に徳丸脇村(現在の板橋区徳丸)の名主であった粕谷浅右衛門が隠居に際して建てた住まい。このため、当家は「東の隠居」と呼ばれ、代々「直右衛門」を名乗り「年寄」役を務めていた。当住宅は復元整備工事に伴う調査の結果、柱の見えない部分(柱枘)に享保8年(1723)の墨書が見つかり、建築年代が正確にわかった。当住宅は、建築以降茅葺屋根を残しながら土間に床を張る、間仕切りを設ける、仏壇や神棚を設けるなどの改造を経て、平成に至るまで住み継がれてきた。復元整備工事では、痕跡を細かく調べて、建築当初の姿に戻している。

当住宅は、建築年代が明らかな民家としては都内最古級であり、江戸近郊の上層農家の発達経過や地域的特色を示すものとしての高い歴史的・学術的価値を有しており、平成30年3月15日に東京都指定有形文化財になった。

【構造】木造平屋建て、寄棟造、茅葺 【桁行】13.253m 【梁間】8.181m

粕谷家が名主を務めた徳丸脇村は、17世紀初頭の段階では「徳丸村」の一部であった。寛文10年(1670)頃になり、徳丸村が徳丸本村・徳丸脇村・徳丸四ツ葉村の三つに分村したものと考えられる。元禄15年(1702)の時点では徳丸脇村の村高は314石余でした。 板橋教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

つつじと藤が満開


住宅内部


裏庭に白いたんぽぽ

"シロバナタンポポ"

亀甲竹(きっこうちく)

安楽寺(板橋区徳丸)


安楽寺

御本尊は阿弥陀如来。真言宗智山派に属し、紅梅山来迎院安楽寺と号している。寺伝によると、当寺は応永3年(1396)尊栄によって創建されたと伝えられている。御祭神菅原道真を祀る北野神社とは深い関係があり、寺号安楽寺も九州太宰府天満宮の別当安楽寺に因んだと考えられている。明治7年7月、当寺内に区内最古の私立紅梅学校(現紅梅小学校)が創立され、明治22年になって現在の場所へ移転した。当寺に安置されている聖観音菩薩は、近在にあった旧観音寺の本尊で徳丸観音と呼ばれていたが、明治29年に旧観音寺が安楽寺と合寺した際に当寺へ移されたもの。板橋区教育委員会

「本堂」

扁額


興教大師像

弘法大師修行像


「鐘楼」

「鐘楼」下に甘い香りの白藤



水車公園(板橋区四葉)


板橋区が1985(昭和60)年に開設。2面計約130平方メートルの水田を配置し、水田脇には水力で穀類をつくための水車小屋も再現され、区民による稲作体験が毎年開催されている。水車公園には、古き良き日本の田園風景をとどめる水田エリアと、京都を思わせるような日本庭園エリアがある。

上記案内図:板橋区HPより転載

板橋区立水車公園内 日本庭園

この庭園は、「郷土の森に育まれた清流とその恵」をテーマとし、前谷津川の名残として水景を配して築造されている。大滝や泉、渓流や石などが独特な雰囲気を作り出し深山幽谷の感を深めている。

徳水亭(板橋区四葉)


茶室 「徳水亭」

外観は銅板葺き、木造平屋造りの茶室。浄土形式の茶庭に囲まれ八帖本京間の小間に各々に水屋が付き、玄関、化粧室へと続いている。書院席は庭に面した二方向に障子が開き、茶庭を眺めることができる。正面に床の間、明り取りの丸窓が開き引き分け障子の平書院造りの広間です。草庵席は貴人口、にじり口には深い土ひさしを有し、踏石が置かれている。床柱や北山杉の面付柱・天井を野趣豊かな素材で造り上げている素材なつくりの小間です。~上記案内板より抜粋転載~

上記案内図:板橋区HPより転載