浦賀散策Ⅲ 観音崎公園


縁起や名前から「お参りしたら願いが"叶(かな)"う」と言われている「叶神社」。浦賀港を挟んで向かい合う「西叶神社」と「東叶神社」を参拝しにペリー来航の地として有名な神奈川県横須賀市の浦賀へ行ってきました。下記「浦賀駅コース」を参考に2つの「叶神社」やいろいろな歴史スポットを散策。「浦賀駅コース」を散策後、鴨居を通って観音崎の岬の上に広がる「観音崎公園」まで足を延ばしてみました。歴史を学び浦賀港の海風を感じ、とてもよい一日でした♬

鴨居と観音崎を結ぶ「観音崎大橋」

「たたら浜」

たたら浜は自然の砂浜と磯が残り東京湾も中でも外洋と内湾の両方の要素をもつたいへん貴重な場所。豊かな照葉樹の森から流れた栄養分を含んだわき水が海草を育てアマモ場が形成されている。 この周辺は豊富な魚介類の生息地でクサフグの産卵地としても知られる自然の宝庫。山側には7~8世紀に作られた20基の横穴墳墓がある。観音崎一帯は東京湾要塞地帯の最前線として明治14年から 太平洋戦争終了(1945)まで一般人の立ち入りが禁止されていた。この海岸では陸海軍の演習も行われていた。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ ~下記案内板より抜粋転載~

三浦半島では数少ない、白砂の浜辺。たたら浜では、昭和29年、初代ゴジラがこの浜辺に上陸したことで知られ、現在では、その足跡がマイルストーンの近くに残されている。 浦賀水道に出入する世界の船と対岸の房総半島の眺望がはすばらしい。

上記写真:神奈川県観光協会HPより転載

観音崎公園(横須賀市鴨居)


三浦半島の東端に位置する岬。付近は県立観音崎公園として整備されており、日本最初の洋式灯台である観音埼灯台がある。江戸末期からは、首都圏防衛の要塞としても活用され、砲台遺跡、旧火薬庫などが多数存在する。海岸沿いの遊歩道からは、変化に富んだ自然美あふれる岩礁を眺めたり、海水浴、磯遊びができる砂浜へアクセスできる。園内の随所から東京湾の海景色が広がり、浦賀水道を行き交う世界の船や、対岸の房総半島を一望できる。

観音崎公園MAP

「展望園地」

海に面した小高い丘の上にある園地。眼前の浦賀水道航路を行き交う船を眺めることができる。

丸い個所から海を見てみた!

「観音崎の地形」

観音崎と対岸の房総半島冨津の間の海は東京湾で最も幅がせまく6kmしかなく浦賀水道と呼ばれている。明治以降さらに海堡※(かいほう)が3つ設けられ、いっそうせまくしている。ここは内湾と外洋を連結する通路になっている。このため潮流は大きく干満の時期には141ノット-26kmにも達している。~下記案内板より抜粋転載~  ※海堡(かいほう):海岸防備のために、要港の入り口や海中に築造した砲台やとりで。

地層観察ポイント ④ 池子層

池子層は、淡い茶褐色の凝灰質の砂岩か、黒っぽい凝灰岩の層が主体で、泥岩層を挟む場合と挟まない場合がある。逗子層と比較すると、全体的に硬い感じがある。池子層は素掘りのトンネル内で観察できる。~下記案内板より抜粋転載~

「素掘りのトンネル」

幕末に掘られた、横須賀最古の隧道(ずいどう=トンネル)

「観音崎沖のめずらしい現象」

観音崎沖は流出する湾内の水と流入する黒潮とが接する所。湾内の水と黒潮の接する所には美しいしま模様が出来る。その形は山状に、オワン状に、線状に刻々と変わる。青い海面いっぱいに描かれる美しいしま模様は灯台や展望台などから眺めることが出来る。~下記案内板より抜粋転載~

横須賀市指定市民文化資產

「観音埼灯台」「観音埼灯台點燈の碑」

「観音埼灯台」は日本最初の洋式灯台として、明治元年明治元年11月1日に起工され、この日が日本の灯台記念日になっている。「観音埼灯台點燈の碑」は灯台敷地の北側にあり、灯台が点灯された日を示す当時の碑である。

「観音埼灯台」

市制施行七十周年記念 横須賀風物百選

 明治維新を2年後にひかえた慶応2年(1866)5月、幕府はイギリス、フランス、アメリカ、オランダとの間に改税約定を締結。その第十一条に、灯明台を備えなければならないことがうたっている。また、各国が提出した灯明台箇所書には、相模国三浦郡三崎及び観音埼が示されていた。幕府が倒れ、明治元年(1868)となり、9月17日に灯台の建設が始められた。横須賀製鉄所首長であったフランス人技師、フランソワ・レオンス・ヴェルニーが建設を担当することになった。横須賀製鉄所で作られたレンガと石灰を使い四角形白塗装の建物とフランス製レンズを備えた灯台が、12月29日に完成。そして、翌明治2年1月1日に我が国最初の洋式灯台が光を発した。大正12年(1923)6月26日に光源として白熱電燈が用いられるまでは、菜種や落花生の油、パラフィン、石油などが燃料に用いられてきた。その初代灯台は、大正11年(1922)4月26日の地震により大亀裂を生じた。翌年3月5日に二代目の灯台が改築されたが、五か月を経た九月一日の関東大震災で崩壊してしまった。現在の灯台は、大正14年6月1日に完成した三代目のもの。構内の左手に並ぶ句碑が、灯台守の厳しい生活と出船に対する情愛の深さを味わわせてくれる。

・霧いかに深くとも嵐強くとも 高浜虚子 ・汽笛吹けば霧笛答ふる別れかな 初代海上保安庁長官 大久保武雄

~下記案内板より抜粋転載~


地層観察ポイント ⑤ 池子層と逆断層

淡い茶褐色の凝灰質の砂岩か黒っぽい凝灰岩の層が主体とする池子層が観察できる。~下記案内板より抜粋転載~

左右から圧縮する力を受けて生じた

「逆断層」が観察できる。

海岸に露出している岩の地層

【行基上人による観音像の建立と観音崎のいわれ】

観音像及び観音崎については、次のように言われている。

天平13年(741年)の春、行基上人がこの地を訪れた。当時、この海蝕洞窟には白い大蛇が住んでおり、山一帯に住む鵜とともに、沖へ行く船に危害を加えていた。行基上人は、泣き悲しむ村人のために、大蛇と鵜を退治するとともに、観音像を彫り、これを洞窟のそばに納めたところ、海は平穏になり、以後、漁師たちは安全に漁ができるようになった。村人達はこれを観音様のご利益と考え、お堂を建設し観音像を祀るようになった。観音像は地元の村人や漁師だけでなく、浦賀水道を行き交う全ての船舶乗組員にも愛され、いつしか人々は、この地を観音像に守られた岬「観音崎」と呼ぶようになり、その名前は現在まで続いている。

【行基上人の功績】

行基上人の功績については、次のように言われている。

観音像を彫り、観音崎の由来を作った行基上人は、その一方、律令制の下、重い租税や飢饉で苦しむ多くの民衆のために、布施屋と呼ばれる福祉施設を建て、食事や宿泊を提供し、民衆の救済を図る傍ら、豪族からの資金提供のもと、農業用の池や溝を掘り、道を拓き、橋を架けるなど、民衆を率いて土木工事を進めた。朝廷は、民衆の支持を得た行基上人の活動を認め、これまで公有であった土地制度を改め、土地を開墾した場合、一定の期間の私有を認めたので、以後、自発的な開墾が促進されるなど、土地制度改革が大きく進んだ。また、行基上人は、聖武天皇から奈良の大仏建立という一大公共事業の責任者に任じられるなど、行基上人の社会活動は、我が国のインフラ整備の面で大きな功績を残した。神奈川県 横須賀土木部事務所)~下記案内板より抜粋転載~

海蝕洞窟

【観音崎にまつわる神話】「古事記」と「日本書紀」にある日本武尊(倭建命)の東征伝説において、相模国(神奈川県)から上総国(千葉県)に渡ったとされる場所がこの前に広がる海。尊が上総の出航して間もなく暴風雨が船団を襲いました。これを海神の怒りと悟った尊の妃・弟橘姫は「私が海に入り海神の怒りを沈めましょう」と言い残し入水したところ、それまでの暴風雨が嘘のように鎮まり、尊一行は上総国に無事にわたる事が叶い、尊は東征の使命を果たすことができた。

【二度消えた観音像】神話の時代から幾百年、天平13年(741年)に行基上人によって彫られ、人々に愛されていた観音崎の観音像は、鎌倉時代、和田義盛氏と北条氏の合戦「和田義盛の乱(健保元年・1213年)の渦中、忽然と姿を消し、村人の必死の探索にも関わらず発見できず、百年の時が流れた。鎌倉時代末期、ある漁師が夜の観音崎の沖から光が漏れていることに気がつき、翌朝、海底を探したところ、百年前に紛失した観音像が発見された。江戸時代になると、観音像を納めたお堂の前に、船の安全を守る灯篭が築かれ、また、観音寺が建立されると、幕府から朱印地を与えられるなど、観音崎は大変賑わいました。明治13年、明治政府は、帝都防衛の要として観音崎に陸軍砲台建造を決定、観音寺と観音像は鴨居の亀崎に移転されましたが、人々はかわらず観音像を大切にし、明治、大正、昭和の時代を観音像と共に過ごしてきた。ところが、昭和61年11月、観音像を納めた鴨居の観音寺が火事となり、観音像もまた完全に焼失して、観音崎は「無」観音崎となってしまった。

【観音像復元プロジェクト】平成30年、観音像を復元すべしと有志が立ち上がり、多くの海を愛する人達の協力、神奈川県の観音崎文化に対する深い理解を得て、市民活動として、観音崎観音像復元プロジェクトが発足した。令和元年、ここの観音像の歴史的復元をなし得たことは、千二百年以上にわたり観音崎に想いを寄せてこられた全ての人々に熱意の結実である事をここに記す。 観音崎プロジェクトの会 ~下記案内板より抜粋転載~

観音崎園地からみた

「東京湾海上交通センター」

東京湾海上交通センター】山の高さ36m、その上に二階建の鉄筋コンクリート造りの建物と塔がある。塔の高さは海抜83.5mで、よく観音埼灯台とまちがえられる。この塔にはレーダーがあり、東京湾内を航行する船の大きさ、位置、針路、速力などの情報を他の船に知らせ、船の交通整理を行う。東京湾は、船の出入りが年間35万隻(1990年前後)あるうえ、第一、第二、第三海堡があり、航路は狭く、漁船やレジャーボートなども走り、世界一過密と言われる大変危険な水路。そのため、このセンタ-は昭和52年(1977)に完成し、海上保安庁の職員が、24時間交代で、監視・誘導している。~横須賀市HPより転載抜粋~