港区(赤坂)・千代田区(永田町他)散策


国立競技場見学の後、港区(赤坂)・千代田区(永田町他)から皇居まで散策。歩きました!!💦 都会の傍らに息づく歴史と文化を感じる散策になりました。-2024.10.13-

高橋是清翁記念公園(港区赤坂)


この公園は、日本の金融界の重鎮であり、大正から昭和初めにかけて首相、蔵相などをつとめた政治家、『高橋是清』翁(1854~1936)の邸宅跡。翁は、昭和11年(1936)2.26事件によりこの地において83歳で世を去った。翁の没後、昭和13年(1938)10月、高橋是清翁記念事業会がこの地を当時の東京市に寄附し、昭和16年(1941)6月東京市が公園として開園。昭和50年(1975)に港区に移管された。第二次世界大戦の空襲により翁にゆかりのある建物は焼失したが、母家は故人の眠る多磨霊園へ移築されていたため難を免れ、現在は都立小金井公園にある「江戸東京たてもの園」に移されている。

戦時中撤去されていた翁の銅像も昭和30年(1955)に再建された。現在の面積は5,320㎡で、国道246号線の拡幅等により開園当初よりやや減っているが、和風庭園はほぼ当時の姿のままで残されている。園内は池を中心として石像や石燈籠が配置され、樹木はかえで、もっこく、うらじろがし、くすのきなどたくさんの種類があり落ち着いた雰囲気をかもしだしている。港区

~下記案内板より抜粋転載~

「高橋是清翁像」

赤坂門跡(千代田区紀尾井町)


赤坂門は1636年(寛永13年)に、筑前福岡藩(現在の福岡県)の藩主である黒田忠之により築造された。門の名称は、外側の赤坂を監視することから名づけられた。この門は脇往還のひとつ矢倉沢往還(大山街道)の出発点となっており、大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)や大雄山最乗寺(神奈川県南足柄市)を参詣する江戸の人々で賑わった。櫓などの建築部分は1871年(明治4年)に撤去され、石垣も明治30年代に撤去された。赤坂見附から牛込橋にいたる堀や土手の遺構は、1956年(昭和31年)3月26日に、江戸城外堀跡として国指定史跡に、文化財指定されている。~下記案内板より抜粋転載~

史跡 江戸城外堀跡 赤坂御門

正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門 の一部で、この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されている。江戸城の門は、敵の侵入を発見する施設であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっている。赤坂御門はその面影をほとんど残していませんが、現在でも旧江戸城の田安門や桜田門 には同じ形式の門を見ることができる。赤坂御門は、寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成した。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でも有った。明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も図のように大部分が撤去されたが、平成3年の地下鉄南北線建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見された。現在、この右手の石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されている。千代田区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

三宅坂小公園(千代田区隼町)


国道246号線の起点である三宅坂の交差点目の前にある公園。背後に最高裁判所、交差点の反対側には皇居。公園内には「渡辺崋山誕生地」の碑や、「平和の群像」と題された像がある。

「平和の群像」

1951年、皇居濠端の三河田原藩上屋敷跡、三宅坂小公園に建立された。「平和の群像」の正式名称は「広告人顕頌碑」。広告人顕頌碑は電通(当時の正式名称は日本電報通信社)が建設し、東京都に寄贈された広告功労者顕彰のための記念碑で、台座の上には東京藝術大学彫刻学科教授・菊池一雄が「愛情」「理性」「意欲」をテーマとして原型を制作した三体の裸婦彫刻「平和の群像」が据えられた。~artscapeHPより抜粋転載~

広告がわが国仁平和産業と産業文化の発展に貢献した事績は極めて大きい。わが社は昭和25年(1950)7月1日その創立50年を自祝し過去半世紀を回顧してこれを記念するに当り、平和を象徴する広告記念像を建設して東京都民に贈り、広告先覚者の芳名を記録してその功労を永久に偲ぶこととした。西暦1950年 株式会社 日本電報通信社 建設者:株式会社日本電報通信社 社長 吉田秀雄 制作者:菊池一雄 鋳造者:伊藤忠雄 施工者:松井建設株式会社  ~下記案内板より抜粋転載~

渡辺崋山誕生地」

 渡辺崋山は1793年(寛政5年)にかつてこの場所にあった、田原藩(現在の愛知県)の上屋敷で生まれた。江戸時代後期の政治家として藩政改革や海防政策に業績を残す一方で、画家としても先駆的な功績を遺した。崋山は名を定静(さだやす)、通称を登(のぼり)という。はじめは華山、のちに崋山と号した。1809年(文化6年)、16歳の時に絵師の金子金陵に入門し、後に谷文晁(たにぶんちょう)に学んでいる。崋山の画風は西洋画法を取り入れたもので、真に迫った肖像画や写実的な花鳥画、軽妙な筆による風景画のスケッチなどを得意とした。18歳の時には、儒学者の佐藤一斎に師事し、蘭学を中心とする幅広い分野の学者で結成された「尚歯会(しょうしかい)」にも参加した。1839年(天保10年)に執筆した『慎機論(しんきろん)』で幕府の対外政策を批判したため、蛮社(ばんしゃ)の獄で捕縛され、国許の田原での蟄居(ちっきょ)を命じられる。その2年後、48歳で自決し、生涯を閉じた。~下記案内板より抜粋転載~

国会前庭(千代田区永田町)


国会前庭の名の通り国会議事堂前にある庭園。洋式庭園の北庭と日本庭園の南庭に分かれている。北庭は江戸時代の初めには加藤清正の屋敷があり、後に彦根藩井伊氏の上屋敷となり大老井伊直弼が居住した場所。中心には三権分立を象徴するシンボルとして三面の時計塔が建てられている。「憲政の神様」尾崎行雄の業績を称えて建設された尾崎行雄記念館を前身とする憲政記念館もこちらにある。南庭は大名屋敷や有栖川宮邸を経て霞が関離宮となり戦災で焼失後は現在の回遊式庭園となっている。敷地内には日本の土地の標高を決める基準「日本水準原点」や、江戸の名水として知られた井戸「櫻の井」など重要文化財や旧跡などもある。~千代田区観光協会HPより抜粋転載~

「日本水準原点」

日本水準原点は、わが国土の土地の標高を測定する基準となる点である。明治24年(1891年)5月にこの場所に設置した。

日本水準原点の位置は、この建物の中にある台石に取り付けた水晶板の目盛の零線の中心である。その標高は、明治6年から12年までの東京湾の潮位観測による平均海面から測定したもので、当時24.500メートルと定めた。その後、大正12年(1923年)の関東地震による地殻変動に伴いその標高を24.4140メートルに改正したが、平成23年(2011年)3月11日の東北地方太平洋沖地震による地殻変動に伴い24ミリメートル沈下したため、新たに24.3900メートルに改正した。~下記案内板より転載~

重要文化財【建造物】

「日本水準原点」

所在地:東京都千代田区永田町1-1-2 指定:令和元年12月27日

日本水準原点は、明治24年に創設された我が国の高さの基準になるもので、130年近くにわたり、我が国の測量の歴史を支えている重要な施設。日本水準原点の歴史的及び技術的な価値が認められ、測量分野の建造物としては初となる国の重要文化財に指定された。【日本水準原点日本水準原点の零目盛りは、温度変化の影響を受けにくい水晶板に刻まれており、丈夫な花崗岩台石にはめ込まれ、固い岩盤まで達する約10mの基礎に支えられている。【日本水準原点標庫日本水準原点標庫は、ドーリス式ローマ神殿形式の古典的建築で、日本人建築家により設計された初期の洋風建築として、歴史的、建築学的にも貴重なもの。

令和元年12月 国土地理院 ~下記案内板より抜粋転載~

東京都指定有形文化財(建造物)

日本水準原点標庫

所在地:千代田区永田町一丁目一番 国会前庭洋式庭園内  指定:平成8年3月18日

日本全国の統一された標高決定のための基準として、明治24年(1891)5月に水準原点が創設されたが、この建物はその水準原点標を保護するために建築されたものである。設計者は工部大学校第一期生の佐立七次郎(1856~1922)。建物は石造で平屋建。建築面積は14.93㎡で、軒高3.75m、総高4.3m。正面のプロポーションは柱廊とその上部のエンターブラチュア(帯状部)とペディメント(三角妻壁)のレリーフの装飾で特徴づけられる。日本水準原点標庫は石造による小規模な作品であるが、ローマ風神殿建築に倣い、トスカーナ式オーダー(配列形式)をもつ本格的な模範建築で、明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上基調である。平成9年3月31日建設 東京都教育委員会 ※この日本水準原点標庫は、千代田区特別登録有形文化財(建造物)として、登録されている。~現地案内板より転載~

電子基準点「東京千代田」

この電子基準点は、我が国の準天頂衛星システムや米国のGPSなどの衛星測位システムの信号を常時受信し、地球上の正確な三次元位置を計測・モニタリングする施設である。国土地理院は全国に電子基準点網を構築して、土地の測量や地図の調整に必要な位置の基準を提供するとともに、国土の地殻変動をモニタリングしている。また、受信した信号は高精度なリアルタイム位置情報サービスにも利用されている。電子基準点「東京千代田」は、日本の基準となる日本水準点(明治24年(1891)設置)の近傍にあり、その標高を常時モニタリングする役割も担っている。平成30年3月  国土地理院 ~下記案内板より転載~

測量標であることを示す銘板

「時計塔」

この時計塔は、尾崎記念会館(現 憲政記念館)建設時に、その施設の一環として、塔前面の噴水池・花壇とともに設計され、昭和35年(1960年)7月に完成した。三面塔星型は、立法・行政・司法の三権分立を象徴したものである。また、塔の高さは、「百尺竿頭一歩を進む」ということわざの努力の上にさらに努力して向上するの意味から、百尺(30.3m)より高くした31.5mに設定された。時計は、時間を厳守した尾崎行雄を称えてスイスから贈られたものであったが、現在は国産のものに改修されている。チャイムは10時・13時・17時・22時の4回鳴動する。これは、衆議院、参議院の会議開会時刻と退庁、就寝時を標準としたもので、その音響は静寂時には5km周囲に響き渡った。~現地案内板より抜粋転載~

国会議事堂(千代田区永田町)


昭和11年(1936)11月に建設た。当時は日本一の高さを誇り、永田町の高台に美しいみかげ石で装われた議事堂が「白亜の殿堂」と賞賛された。同年12月24日に召集された第70回帝国議会から使用され、現在に至っている。

外桜田門(千代田区皇居外苑)


「外桜田門」の遠景

外桜田門

国指定重要文化財 1961年(昭和36年)6月7日指定

桜田の名は、この地が古代に桜田郷と呼ばれていたことに由来し、江戸の主要道が通過する場所でした。徳川家康入国直後の絵図には「小田原口」と記載されている。門周辺の石垣は、1614年(慶長19年)真壁藩(現在の茨城県)藩主浅野長重によって築かれ、寛永年間(1624~1644)に門が建築されました。門の周囲には、有力外様大名の屋敷が多くあった。1860年(万延元年)の桜田門外の変は、彦根藩(現在の滋賀県)藩主で大老の井伊直弼が屋敷から登城中に水戸浪士に襲撃された事件。

1923年(大正12年)の関東大震災で門が壊れましたが、再建され現在に至っている。~下記案内板より抜粋転載~

旧江戸城 外桜田門 

<重要文化財 >

現在この門は桜田門と呼ばれるが、正式には外桜田門といい、本丸に近い内桜田門(桔梗門)に対してこの名がつけられた。古くこの辺りを桜田郷と呼んでいたことに由来する。外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造からなり、外枡形という防御性の高い城門で、西の丸防備のため異例の大きさで造られた(320坪)。建築されたのは寛永年間(1624~44)とされ、現存する門は、寛文3年(1663)に再建された門がもとになっている。大正12年(1923)の関東大震災で破損し、復元された。万延元年(1860)3月3日、この門外で大老井伊直弼が水戸藩脱藩士に暗殺された。(桜田門外の変) ~下記案内板より抜粋転載~