熊本・大分・福岡の旅


熊本在住の友人を訪ねて、熊本へ。「熊本城」を見学した後、"大人女子4人旅"スタート。大分県の「湯布院」へ。 美食懐石と露天風呂付き離れ宿「旅籠 香乃蔵 」にゆったり2泊し、「湯の坪街道」「金鱗湖」を散策。2泊後、湯布院と阿蘇を結ぶ絶景ドライブルート「やまなみハイウェイ」を通って「阿蘇」の観光スポットへ。その後、熊本空港で3人と別れ、せっかく九州へ来たので、"福岡への1人旅" -2023.07.14~07.16- 翌日、博多から行きたかった世界遺産「宗像大社」と"光の道"で有名な「宮地嶽神社」へ。 -2023.07.17-

羽田空港 → ✈ → 阿蘇くまもと空港 → 🚙 → 熊本城 -2023.07.14-

熊本城(熊本市中央区本丸)


◆加藤清正とその時代

加藤清正が茶臼山と呼ばれた台地に当時の最先端技術と労力を投じて、名城熊本城を完成させる。本丸が完成した慶長12年(1607)に現在の「熊本城」の表記に改め、「銀杏城」の別名でも親しまれている。「武者返し」と呼ばれる反りのある高石垣や巧みな縄張といった築城技術が特徴で、その見事なつくりから"日本三名城の一つ"に数えられている。

◆細川忠利とその時代

寛永9年(1632)、加藤家が改易され、細川忠利が隈本藩主になり熊本城の修理を行い、城下の整備、拡張を進めた。また、藩校「時習館」を二の丸に開校するなど、文化・教育が花開いた時代に。

◆熊本城と近代

明治10年(1877)に起きた西南戦争開戦直前の火災で天守や本丸御殿などが焼失。西郷隆盛率いる薩摩軍の猛攻にも耐えたことから「難攻不落の堅城」として全国で名を馳せた。

◆熊本城と現代

平成28年(2019)熊本地震では、石垣の崩落や建造物の倒壊、最上階の瓦や鯱瓦の落下、地下室石垣の崩落など、甚大な被害を受けた。震災復興のシンボルとして最優先で復旧作業が進められ、令和元年(2019)に特別公開がスタート、復旧作業は現在も続いている。

~下記パンフレットより抜粋転載~

パンフレット

上記MAP:熊本城HPより転載

特別史跡熊本城跡

熊本城は加藤清正により、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの前には現在の位置に築城され始め、本丸は慶長12年(1607)に完成した。周囲5.3km、総面積約98haにも及ぶ広大な城郭は、大小天守を中心に櫓49、櫓門18、城門29があったと言われている。現在、宇土櫓をはじめ13棟が国の重要文化財建造物に指定され、57.8haが特別史跡に指定されている。~下記案内板より抜粋転載~

特別見学通路(南ルート)


地上6mの高さに設置された通路を通って見学。崩れた石垣の様子や南側から大天守を望む。

特別見学通路

上記写真:熊本城HPより転載

未申櫓


未申櫓(ひつじやぐら)は西出丸の南西角にある三階櫓。江戸時代には方角を干支の動物で表すことがあり、南西を意味する「未申」の名がついている。櫓は明治時代に解体されたが、平成15年(2003)に木造で復元した。堀で囲まれたこの一角には役所機能が集められ「奉行丸」とも呼ばれている。平成28年(2016)の地震では、石垣や塀がいたるところで崩れた。

数寄屋丸


正面には天守南西に位置する数寄屋丸の石垣が見える。「数寄屋」という名称から、茶会などが催されていたとみられる。平成元年(1989)に木造で復元された数寄屋丸二階御広間の西には数寄屋丸五階櫓台石垣がある。熊本地震では五階櫓台石垣や二階御広間などの石垣などが崩壊した。~下記案内板より抜粋転載~

天守と本丸御殿


正面には築城年代が異なる石垣が重なる「二様の石垣」と、復元された「本丸御殿大広間」が位置する。飯田丸から天守方面への通路には地蔵櫓門と呼ばれる三階建ての櫓門があった。門を抜けて石段を上がると、正面には宇土櫓がある平左衛門丸、左手に数寄屋丸、右手には天守がそびえていた。~下記案内板より抜粋転載~

この場所から見る「大天守」

二様の石垣


隅部の返り(勾配)や積み方が著しく異なっている姿が同時に観れることから「二様の石垣(にようのいしがき)」と云われている。古い石垣(写真右:加藤清正の時代)、隅部の勾配が穏やかな石垣に、勾配が急になっている新しい石垣(写真左:加藤清正の息子忠正の時代)が2つの時代の石垣が同時に観れる。古い時代の石垣は、下部がなだらかで一見登りやすそうだが、上部は直立、反りの角度が急になり、城に侵入してきた敵の武者を返してしまうことから、"武者返し"と呼ばれている。隅部の石の形や積み方にも違いが観られ、不揃いの石を使っている古い時代の積み方(乱れ積み)と、比較的同じ大きさに加工した石を使い整然と積み上げる(布積み)との違いも観ることができる。

右が加藤清正時代、左が加藤忠広時代の石垣

上記写真:熊本城HPより転載

飯田丸


飯田丸は、南に竹の丸、西に南坂(現在の行幸坂)を望み、本丸の南西を防衛する曲輪。平成28年(2013)熊本地震で、飯田丸五階櫓石垣の南面と東面の一部が崩落した。その結果、南東部隅石のみで櫓を支えた状態になったので、「一本石垣」と呼ばれた。現在、飯田丸五階櫓や石垣は調査・解体され、復旧に向けて大切に保管されている。~下記案内板より抜粋転載~

飯田丸五階櫓


熊本城の本丸の曲輪は小さな城のように独立したつくりであることも特徴。この飯田丸で重要な役割を果たすのが、飯田丸の南西隅にある「飯田丸五階櫓」。平成17年(2005)に木造で復元された。平成28年(2016)熊本地震では、石垣の一部が崩落し、隅石で櫓を支えていたことから「奇跡の一本石垣」と呼ばれていた。~熊本城HPより抜粋転載~

上記写真:熊本城HPより転載

連続枡形


南に見える竹の丸から飯田丸への通路は、西竹の丸五階櫓を中心に6回折れ曲がり、通路途中で元礼櫓門と礼櫓門の2つの櫓門によって遮られる構造となっていた。通路まわりの石垣上には、五階櫓や櫓門のほかに三階櫓や塀があり、攻め手にとって突破は困難な構造だった。~下記案内板より抜粋転載~

竹の丸からの連続枡形。

地震の被害により、

通路は石垣によって塞がれている。

東竹の丸の櫓群


東竹の丸は、本丸の東側を囲む南北に長い平坦地で、国指定重要文化財建造物13棟のうち10棟が集中している。中でも南東部分には5棟が連続していて、北側から源之進櫓、少し空いて四間櫓、十四間櫓、七間櫓、田子櫓と並び、連続する櫓として本丸南東方面を防衛していた。~下記案内板より抜粋転載~

本丸御殿


本丸の最上段に建てられた「本丸御殿」は、儀礼や藩主の政務などが行われた建物。石垣と石垣をまたぐ建物で床下には「闇り通路」と呼ばれる地下通路があった。本丸御殿の南東部分にあたる「大御台所」のすぐ外には井戸があり、使い勝手の良さがわかる。~下記案内板より抜粋転載~

本丸御殿大広間は、かつて藩主の会見や儀式を行う場所路して使用。大広間の北側は、藩主の私的空間である居間や台所などがあった。明治10年(1877)の焼失を経て、現在は井戸や大イチョウだけが残っている。平成20年(2008)本丸御殿大広間、台所棟、数寄屋棟を木造で復元。平成28年(2016)熊本地震で被災し、現在は非公開。~下記案内板より抜粋転載~

「本丸御殿」の下を通り抜けて

「本丸大天守」前へ

闇り通路


本丸御殿は2つの石垣を跨ぐように建っているため、地下通路を有する特異な構造となっている。その地下通路は昼間でも暗いことから、闇り通路(くらがりつうろ)と呼ばれている。闇り通路の入口は闇り御門と呼ばれ、その上部の屋根は唐破風となっている。~下記案内板より抜粋転載~

大イチョウ


加藤清正お手植えと伝わるイチョウは、明治10年(1877)の火災により、天守や本丸御殿などとともに焼失した。その後イチョウの根元から新芽が出て成長し、現在は大イチョウとして親しまれている。焼けたイチョウは大イチョウの脇に残り、火災の激しさを物語っている。銀杏を非常食にしたとも言われているが、雄の木で実はならない。~下記案内板より抜粋転載~

天守閣


大天守と小天守が並び建つ、熊本城。明治10(1877)年に西南戦争開戦直前の火災により大小天守ともに焼失したが、昭和35(1960)年、鉄筋鉄骨コンクリート造りで再建された。熊本城の天守閣の特徴は、四面に配した千鳥破風(ちどりはふ)と最上階の南北につくられた唐破風(からはふ)と呼ばれる建築様式。「御鉄砲御間」や「御具足之御間」、「御矢之御間」など戦いの道具にちなんだ部屋名がつけられており、江戸時代には武具などが納められていた。小天守の石垣の上には忍び返し(しのびがえし)と呼ばれる敵の侵入を防ぐ鉄串が設置されるなど、細かなところに戦に備えた仕掛けがあった。

天守閣の被災

2016年の熊本地震で大天守最上階の鯱や瓦が落下。天守内部では大天守6階の柱の損傷や小天守1階の床の沈下のほか、建物全体で壁や床のコンクリートにひび割れが生じた。また、小天守内側の石垣はほとんどが崩落し、外面も崩落・変形が多く生じたが外面に大きな変形はありませんでした。~下記案内板より抜粋転載~

天守閣(地震後)

上記写真:熊本城HPより転載

天守閣入口の暖簾

左:九曜紋(細川家)右:蛇の目紋(加藤家)

復旧の際に設置したX字の制震ダンパー

天守閣前のベンチに鯱瓦

大天守閣 小天守閣


◆大天守閣

石垣の上から高さ約29.5m外観3層、内部6階地下1階鯱の大きさ約1.2m。

◆小天守閣

石垣の上から高さ19m外観2層、内部4階地下1階鯱の大きさ約0.9m。現在の大小天守閣は古写真などをもとに昭和35年(1960)に再建されたもの。

◆井戸

加藤清正は、朝鮮出兵のとき蔚山城(うるさんじょう)での籠城戦の経験から、城内に120余りの井戸を掘ったと云われている。この井戸もその中の一つで水面までの深さが36mある。このほかにも城内には17の井戸が現存している。

◆古写真

「数寄屋丸から見た大小天守閣」(富重写真所 蔵)明治10年(1877)西南戦争の際に天守閣が焼失する以前、明治8年(1875)頃に撮影されたもの。

~下記案内板より抜粋転載~

平左衛門丸


天守の西側に位置する曲輪は、加藤清正の重臣加藤平左衛門の屋敷があったことから、平左衛門丸と呼ばれている。北西隅には唯一現存する五階櫓の宇土櫓(その南側は続櫓)があり、国の重要文化財に指定されている。平成28年(2016)熊本地震では五階櫓の床や壁などが破損し、続櫓が全て倒壊した。~下記案内板より抜粋転載~

宇土櫓


本丸の西北側にある「宇土櫓」(うとやぐら)は、築城当時の姿を保っている唯一の多重櫓。3重5階地下1階のつくりで天守に匹敵する規模と構造のため、「第三の天守」とも呼ばれる。明治のはじめ頃までは、他にも4棟の五階櫓(ごかいやぐら)があったが、現在は宇土櫓だけが残っている。宇土櫓という名は、宇土城主だった小西行長(こにしゆきなが・1555年-1600年)の旧家臣をこの櫓の近くに置いたことにより、名づけられたという説があるが定かでない。平成28年(2016)熊本地震では、宇土櫓南側の続櫓(つづきやぐら)が倒壊する被害に。~熊本城HPより抜粋転載~

国指定重要文化財の「宇土櫓」

桜の馬場「城彩苑」


「城彩苑」は、"肥後54万石の歴史と伝統、熊本の豊かな食文化について熊本城から発信して、お城と城下町の魅力を高めたい"をコンセプトに誕生した観光施設。熊本城のふもと「桜の馬場」に立地している。

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