福生散策 Ⅰ 和文化と水辺を楽しむコース


福生といえば「福生ベースサイドストリート」が有名。一度訪れてみたいと思っていました。観光ガイドマップ「まっぷる 福生 -Birth to Happiness-」を参考に散策。午前中は福生駅からスタート、酒造や寺社など「和文化と水辺を楽しむコース」を。

午後は横田基地の横(ベース)サイドを走る国道16号沿いの「ベースサイドストリートコース」を歩き、拝島駅へ。酒造や寺社などの「日本伝統エリア」と、横田基地のある16号周辺の「アメリカンエリア」の2つを楽しんできました!!  -2024.06.02-

福生ってこんなまちです

東京都の西部に位置する福生市。在日米軍の横田基地沿いにはアメリカンな雰囲気のあふれるカフェやショップが建ち並び異国情緒を楽しめるほか、玉川上水周辺の自然豊かな水辺の風景も魅力です。

上記 観光ガイドマップ「まっぷる 福生-Birth to Happiness-」:福生市役所HPより転載

和文化と水辺を楽しむコース


福生駅から西側にある地域の観光スポットを巡る。創業200周年を迎えた「田村酒蔵場」や国の登録有形文化財に登録されている「旧ヤマジュウ田村家住宅」、臨済宗建長寺派の「長徳寺」や地元の氏神様である「福生神明社」のほか、新堀橋付近の玉川上水沿いを巡るコース。~福生市HPより抜粋転載~

上記 観光ガイドマップ「まっぷる 福生-Birth to Happiness-」:福生市役所HPより転載

福生駅からのマンホール


「七夕祭り」がデザインされた電線共同溝の蓋

天の川と織姫彦星に七夕飾りが描かれている


宿場通り


宿場通りは、玉川上水にかかる宿橋を渡る通り。宿橋の東側に行くと福生駅方面へ、西側へ進むと、永田地区を通って多摩川の永田橋へ至る。宿場通りの歴史は古く、江戸時代の福生村の絵図には下江戸街道を経て日光街道に通じる道として記載されている。明治時代に青梅鉄道が開通すると、宿場通りは五日市方面から多摩川を福生の渡し場で渡って福生駅に向かう道筋となり、渡し場と駅を結ぶ重要な通りとして発展した。昭和10年代には、さまざまな商店や郵便局、銀行、消防組の詰所など主要な施設が集まる街の中心地となり、多くの人びとが行き交うにぎやかな通りとして発展した。しかし、福生の渡しの廃止や、福生駅と永田橋を結ぶ新道が開通したことにより、町の中心地は次第に駅に近い地域へと移っていき、宿場通りは住宅地へと変化していった。~下記案内板より抜粋転載~

旧ヤマジュウ田村家住宅(福生市福生)


この住宅の旧所有者である田村家は、明治35年(1902)に田村酒造を営む田村家の分家として起こり、三代にわたりこの地で生活をしてきた。屋号は仐(ヤマジュウ)。田村家では、明治44年(1911)に旧福生郵便局を住宅の向かいに開設。その後、旧福生郵便局内で大正7年(1918)に電報電話業務を、大正10年(1921)には電話交換業務を始めるなど、旧福生村の発展に尽くした。この住宅は、明治35年(1902)に建てられたことが屋根裏につけられた棟札から判明している。また残された記録から大正5年(1916)に改築されたことがわかっている。建物は平屋建てで、間取りは正面向かって右側に土間がある六間取り。周囲を廊下がめぐっていることをはじめ、風呂場やお手洗いが建物内に設置されているほか、収納スペースが機能的に配置されていることなどが特徴。江戸時代以来の伝統に近代的な要素を加えた建物で、改築等はみられるものの、明治期の様子を今に伝える貴重な建物。平成26年12月19日、主屋ならびに二棟の土蔵の文化財的価値が認められ、国の有形登録文化財(建造物)に登録されている。~福生市郷土資料室HPより抜粋転載~

旧ヤマジュウ田村家住宅

西土蔵・東土蔵

西土蔵は明治37年(1904)に、東土蔵は明治44年(1911)に建てられたことが棟札から判明している。ともに2階建てだが、屋根の組み方が異なるほか、西土蔵は2階南側にのみ窓があるのに対し、東土蔵は2階南側、北側、1階北側にも窓が設けられているなどの違いがみられる。西土蔵には、結婚式などの際に使うお膳やお椀などの什器類がまとまって収納されていたほか、新年に若水を汲むために使う干支の名前の入った桶など、生活に関連する道具類が収納されていた。東土蔵は、旧福生郵便局の開設後に建設されていることもあり、郵便局で使われた道具類などが収納されていた。※現在、東土蔵の1階をギャラリーに改修し、展示を行っている。主屋の屋根裏と西土蔵、東土蔵の2階へは上がることができない。~福生郷土資料室HPより抜粋転載~


旧福生郵便局(福生市福生)


今は教会として活用されている。明治44年(1911)に田村家が開設。十字架の下の鬼瓦に郵便マークがついている。

玉川上水に架かる「宿橋」。右手に田村酒造場。

宿橋からの眺め

田村酒造場(福生市福生)


文政5年(1822)創業。「嘉泉(かせん)」の銘柄で知られる。代表銘柄の「嘉泉」は、酒造りに適した水が湧く井戸を敷地内で掘り当てた喜びに由来するという。八角形の煉瓦れんが煙突をシンボルとする土蔵建築の酒造蔵など、国の登録有形文化財になった建物も多い。

右の小道へ入ると、蔵元宅前庭がお出迎え。

「旧水車小屋」及び「脇蔵」

1830(文政13)年頃

水車小屋と脇蔵は敷地の東側、田村分水のほとりにある。水車小屋は切妻造・波形鉄板葺屋根で建築され、裏手に水門がある。水車は酒造に欠かせない精米や発電に使われていた。隣接する脇蔵は切妻造・桟瓦葺(置屋根)の土蔵建築で、水車小屋より一段高い屋根を有している。この脇蔵は隣の水車小屋で精米した米の貯蔵庫と考えられている。これらの建築物は明治前半の建築と考えられている。~田村酒造場HPより抜粋転載~

「前蔵」

1830(文政13)年築。切妻造・桟瓦葺の2階建て土蔵建築で、現在はお酒を展示販売するギャラリーとして使用されている。

上記写真:田村酒造場HPより転載

「酒造蔵」

<登録有形文化財(建造物)>

1822(文政五)年頃/1918(大正7)年改築。

本蔵・中蔵・新蔵が連なって構成する酒造蔵は切妻造・黒釉薬塗り桟瓦で葺いた土蔵建築。本蔵は慶応年間以前のおそらく文政5年の創業時あたりに、移築建築されたと推測されている。梁行14尺の上屋両脇に8尺幅の下屋を設け、さらに各17尺幅の又下屋を吹き下ろしている。そして皮むき杉丸太の上屋・下屋柱を立て、指物を架して中2階の床を設けている。帯鉄で囲い、補強を施した煉瓦煙突は今はシンボルとして蔵の風景に欠かせないもの。~田村酒造場HPより抜粋転載~

「中蔵」、「新蔵」は大正7年にそれぞれ改築された。3棟の出入り口は同じ柱位置に連絡して設け、内部の貯蔵空間は連続している。一部に改変を加えながらも、基本的な建築構成は当初の様子をよく伝えており、酒造蔵の拡張過程が伺える建築物となっている。~田村酒造場HPより抜粋転載~

主力銘柄の嘉泉の由来にもなった井戸

長徳寺(福生市福生)


長徳寺は、長徳年間(鎌倉時代・995~999年)に創建した臨済宗建長寺派のお寺。寺号は玉雲山。本尊は十一面観音菩薩と脇立像(不動明王・多聞天王)であり、本寺広徳寺(あきる野市)の末寺(十九ケ寺)の一つ。

「本堂」

「仏足石」

「客殿」

「芙蓉閣」

「福生観音」

「鐘楼」

「福壽庭園」

「六角堂」

シモツケ(下野):バラ科シモツケ属

和名は下野(しもつけ)の国(現在の栃木県)にちなむ

玉川上水


多摩川八景 玉川上水

●玉川上水は、羽村から新宿区の四谷大木戸まで約43kmにわたり、多摩川台地を掘り進んで作られた人工の水路。

●江戸時代の初期、承応3年(1654)に玉川清右衛門、庄右衛門の兄弟が、いろいろな困難とたたかいながら完成させた。

●江戸の水不足を解消したこの上水は、現在でも都民の水道の一部に利用されている。

●水路の両岸にはたくさんの木が植えられ、美しいグリーンベルトを形作っている。特に取水堰そばの羽村堰下公園は桜の名所として有名。新堀橋そばの福生加美上水公園には自然林が茂り、花、新緑、紅葉と四季を問わず美しい眺めを楽しめる。

~下記案内板より抜粋転載~

「加美上水橋」

「金毘羅大権現」

「新堀橋」


「田村家穀箱」

<福生市指定有形民俗文化財>

穀箱は江戸時代に飢饉に備えて、粟や稗といった穀物を備蓄したの貯蔵庫のこと。多摩地方の各地に作られていた穀箱も、現在では数少ない建物となっている。田村家の穀箱は木造建築で、落とし板による中仕切りを利用して構成した三室に穀物を貯蔵する仕組みとなっている。落とし板には数多くの墨書がみられる。そのなかには「天保十一年庚子夏五月吉祥日」と建築年代が記されているものもある。また、光明真言や梵字なども多く記されており、当時の人々の祈りや信仰が感じられる。この穀箱は改変や腐食も少なく、建築当初の姿が遺されており、江戸時代の福生における農民社会や生活を知る上で貴重な文化財。~下記案内板より抜粋転載~

福生神明社(福生市福生)


明治7年(1874)当時各町会に祀られていた五柱の神々とともに七祭神を合祀し、福生村の村社として創建。現在の社殿は昭和47年(1972)造営。

「表参道」

西側の神明通り側が表参道

「二の鳥居」

「拝殿」

狛犬


扁額

「手水舎」

新奥多摩街道側(東側)の鳥居と社号標

「稲荷社」長澤稲荷大明神


「神輿庫」

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