低山縦走ハイキングコース「弘法山公園・吾妻山コース(※)」を歩いてきました。コースの始まりは急な傾斜でびっくりしたものの、それ以降は、階段や砂利引きの道。自然道に入ってからはなだらかなアップダウンだったのでそれ以降は楽しめました。お天気が良く、富士山や丹沢山系もくっきりで素晴らしい景色に魅了されました♬ -2024.05.17-
※「弘法山公園・吾妻山コース」とは、小田急線の秦野駅から鶴巻温泉へと続くコース。桜のスポットとして有名な弘法山公園を通り、緑豊かな林の多い道を進み、吾妻山を経由して鶴巻温泉へと下る。コース上のスポット「弘法山公園」には展望台があり、晴れた日に360°のパノラマを楽しめる。~秦野市観光協会HPより抜粋転載~
秦野ハイキングガイド
弘法山公園・吾妻山コース
上記ガイド:秦市観光協会HPより転載
秦野駅北口「まほろば大橋」
水無川に架かる「まほろば大橋」。平成元年に旧橋の老朽化により、架け替えられた。「かながわの橋100選」に選定されている。橋の中央部分には、高さ10mのからくり時計台がそびえており、「まほろば大橋」のシンボルとなっている。
「まほろば大橋」からの眺め
秦野市内には、湧水が多く見られ、その水は古代から人々の暮らしに利用されてきた。1985年(昭和60)には、秦野盆地湧水群(ゆうすいぐん)が環境庁より「全国名水百選」に選定された。湧水群の中で特に有名なのが、伝説の残るこの「弘法の清水」である。昔、一人の旅の僧がある農家に立ち寄り水を求めた。しかし、あいにくその農家では水を切らしていて、その家の娘が手桶を下げて水を汲みに行った。僧が待ちわびていると、重そうに手桶を下げて娘が帰ってきた。のどを潤した僧は、何事かを唱え、庭に杖を突き立てた。するとその杖の先から清水がこんこんと湧き出した。後に旅の僧が弘法大師と分かり、以来この清水は「弘法の清水」と呼ばれるようになったという。また、井戸の形が臼に似ているので、臼井戸と呼び小字名にもなっている。~秦野市役所HPより抜粋転載~
弘法の清水(臼井戸)の由来
地元では臼井戸と呼び、湧水地主の代々の言い伝えは次のとおりです。
夏の暑い日盛りに、一人の法師が立ち寄られ水を所望された。妻女は水がめを見たが一滴の水もありません。「ただいま汲んでまいりますのでしばらくお待ち下さい」と、寺の地まで水を汲みにいって立ち返った。法師は恐縮し、その親切と労に感謝をし、錫杖を地面に突き刺し穴をあけ、「三日たったら、底をくり抜いた臼ををここに据え置きなさい。必ず水が出るであろう」と立ち去られた。法師の言ったとおりにしたところ臼の中から清水が湧き出てきた。臼の中から湧き出る水、臼井戸と呼ばれ、古来この地の地名となり、後に、子々孫々へ語り継がれる中で弘法大師の伝説と結びつき、立派な民話となった。この天然の清水は、深い地層の洪積層から湧き出ており、どんな日照りの年でも水が枯れることはなく、水量が日量130tと安定している。
地元管理者臼井戸水上講 秦野市観光協会 ~現地案内板より転載~
「参道」
「鬼子母神」
「六地蔵」
天台宗
【総本山】比叡山 延暦寺【高祖】天台大師 智顗【宗祖】伝教大師 最澄【立教開宗】桓武天皇 延暦25年(平安時代の初期)
【本尊】法華経に説かれている久遠実成の釈迦如来とすべての諸佛・諸菩薩等は同類一体である。よって、それぞれの縁に随って奉安敬信する。【教義】法華経に述べられている一乗真実の教説を根本として密教・禅法・念佛等をその実践門とする。
【経典】法華経に示されている諸法実相の立場を基本としてひろく大乗経典を讚迎・読誦する。【当山本尊】不動明王
本堂の御本尊さまに先ず合掌 ~下記案内板より抜粋転載~
「命徳寺山門」
<秦野市指定重要文化財>
【所在地】秦野市河原町1-5【形式】薬医門【規模】桁行2.4m、梁行1.53m【年代】17世紀初期
この山門は、「薬医門」と言われる形式で、二本の本柱とその背後の二本の控え柱の、計四本の柱でできている。正面2.4m、側面1.53mで、寺院の門としては比較的小規模。屋根は茅葺で棟の両側の二つの傾斜面が山形に合わさった「切妻造」となっている。茅葺がそのまま残された門は珍しく、たいへん貴重。また小規模ではあっても細部の構造はなかなか複雑で、大きく反りあがった太い垂木とともに繊細でありながら力強い表現がこの門の特徴。主要な部材は欅で、当初の部材が多く残されている。建立年時を確定する資料は残されていないが、細部の様式などから十七世紀初期ごろの建築と推定され、市内で最古の山門。秦野市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「本堂」を背に眺めた山門
「本堂」
本堂は、1651年(慶安4年)頃に再建されたという記録はあるが、当初のものは内陣まわりに残っているだけということ。
扁額
弘法山公園は、浅間山(せんげんやま、標高196m)、権現山(ごんげんやま、標高243m)、弘法山(こうぼうやま、標高235m)の3つの山一帯を指し、神奈川県立自然公園にも指定されている。権現山山頂の展望台からは市街地と富士山が一望でき、市内屈指のビューポイントとなっているほか、春には1,400本以上の桜が公園を彩る。また、次のとおり、花や探鳥の名所などにも選定されている。●関東の富士見百景:平成17年(2005)。対象は、権現山山頂にある展望台からの眺め●かながわの花の名所100選:平成6年(1994)●かながわの探鳥地50選:平成3年(1991)●かながわの景勝50選:昭和54年(1979)●県立丹沢大山自然公園(特別地域):昭和35年(1960) ~秦野市HPより抜粋転載~
弘法山公園入口看板
富士山と丹沢、秦野市街地が良く見える♬
権現山の歴史
通常弘法山と言えばこの権現山を含んでのことであり、又の名を千畳敷と呼ぶ。権現山は元々その名の由来とする権現堂があったために名付けられたものである。龍法寺の伝えに依れば権現山には白山妙理権現が祀られ、その本地仏として現在龍法寺に安置されている十一面観音菩薩が字観音山に祭られていたという。また、明治の末頃までは堂の位置を示す土壇も認められたという。最近の城郭調査によると山頂の西北端には二段の腰廓、東端近くの西南側にも細長い腰廓が取り巻き大小十四箇所もの平場がある。いずれも西北を向いていることから権現山からみて西(秦野方面)に対する備えを目的としているようである。築造の時代は室町期の城郭址との報告もだされているが、権現堂との関りは不明である。この山頂では毎年八月十四、十五両日の弘法山の百八灯明として親しまれている民俗行事の採火が行われる。当日の夕方になると東麓の瓜生野部落の人々が2m前後の麦藁を束ねた松明を担ぎ登ってくる。午後七時過ぎ、辺りが暗くなるのを見計らって大きく積み上げた麦藁に点火する。そして銘銘がその火から自分の松明に点火し、年少者から順次麓に向かって下山する。麓では、女性を中心に今や遅しと待ち受け、一年の無病息災を祈って火の粉をかぶる慣わしがある。秦野市 ~下記案内板より抜粋転載~
弘法山公園展望台
権現山(標高243.5m)の山頂は、別名「千畳敷」と言われるような広場となっており、富士山や丹沢の眺望と桜の名所として、市民、県民の憩いの場として親しまれている。展望台は、昭和25年に弘法山公園が、「神奈川県新八景」に選ばれた際に建設した見晴台が老朽化したことに伴い、2001年に建て替えられた。展望台の二階からは、360度の雄大な視野が開け、秦野盆地を眼下にした富士山の姿は美しく、丹沢山塊や相模湾、三浦半島まで遠望できる。
「関東の富士見百景」選定地
展望台2階からの眺め
展望台を後にして
馬場道
権現山と弘法山を結ぶ尾根道の馬場道。その名は昔周辺の農民が草競馬を楽しんだことに由来するとのこと。馬場道を暫く進むと弘法山の駐車場があり、弘法山への登り口になる。
弘法山への登り口
「弘法山公園」案内板
弘法山への登り口
左へ5分「弘法の乳の水」の石碑
弘法山の歴史(こうぼうやま)
弘法山の名前は弘法大師(774~835)がこの山頂で修業したことから名付けられたとの伝承があり、権現山(千畳敷)を含んで呼ぶこともある、弘法山は麓の龍法寺と深い関りを持ち、戦国期に真言宗から曹洞宗に変えた。鐘楼の下に続く沢を真言沢と呼び、その名残りがある。
弘法山の鐘は、享保頃(1716~36)に龍法寺5世無外梅禅と行者の直心全国が発願し、弘法山周辺の村々の有志や念仏講中の人々の寄進により宝暦7年(1757)12月に完成させた。明和3年(1766)に山火事でひび割れ、再び周辺村々の有志や江戸隅田の成林庵主で下大槻伊奈家出身の松操智貞尼の尽力により徳川御三家や諸大名などから「多額の喜捨」を得て享和元年(1801)年5月に完成した。鐘は当初から「時の鐘」として親しまれ、災害の発生も知らせながら昭和31年まで撞き続けた。現在の鐘楼は慶応3年(1867)に再建したものである。
乳の井戸:山頂に白色の水の湧く古井戸がある。これで粥を炊き食すれば乳がでるという信仰から「乳の水」と称して昭和30年代初めまで授乳期の母親や妊婦が遠方からも水を求めてきた。かつてはこの井戸の脇に二つの池があり、夏には太い柳の下で蛙が鳴き、金魚の紅い色が水面に映じて美しく静かな時が流れていたが、関東大震災の後に水涸れが起こり一つを埋めてそこに桜を植えた。秦野市 ~下記案内板より転載~
「鐘楼」
弘法の乳の水
この井戸は、昔から「弘法の乳の水」と呼ばれています。この井戸から湧き出た水は、白くにごり、いつも乳の香りがしていたそうです。いつごろからか「真夜中に、誰にも知られずに山に登り、乳の水を飲むと、乳がどくどくと出るようになる」と伝えられ、この水をいただきに山に登る人が後を断たなかったと言われています。いつの世も、子を持つ親の心は変わりません。乳の出ない辛さにワラをもつかむ気持ちだったのでしょう。その救いの神がこの白い井戸水でした。なぜこんな山頂に不思議な白い水が……。それは弘法さまのお力だと伝えられています。岩田達治著秦野の伝説より)秦野ライオンズクラブ 二十五周年記念 ~下記案内板より転載~
釈迦堂(しゃかんどう)
山頂には弘法大師の旧跡であることから、古くより福泉庵という堂があった。江戸時代の中頃に龍法寺の僧馨岳永芳はこの荒廃を嘆き新たに堂を建て釈迦如来像と弘法大師像を祭って釈迦堂としたが、明和3年の火災で釈迦像が消失し、石造であった弘法大師像この時から露座となった。堂の再建後は弘法大師の木像のみを安置していたが、関東大震災や昭和7年の台風被害を被った。長く仮堂であったが、昭和39年に現在の釈迦堂が完成した。
【経 塚】釈迦堂の後部には鎌倉時代後期の経塚があった。経塚は経典を書写したものを埋納した仏教上の施設で、末法思想から生まれた。日本では平安時代末期に出現し、藤原道長が金峰山に般若心経一巻他を埋納した事が知られている。弘法山の経塚は昭和7年に神奈川県により調査され当時は大甕の口縁部が露出した状態で、経石も散乱していた。
【甕】 口縁部が楕円形をし、長径68cm、深さ75cm、腹部から急に細くなっている。
【経 石】 「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」の一字一石経、経題のみ大型石に記載されていた。
【経 筒】 鋳銅製経筒の一部と見られる破片が出土、推定直径12cm。
その他陶製の灯明皿が出土している。 秦野市 ~下記案内板より抜粋転載~
関東ふれあいの道
関東ふれあいの道は、一都六県を巡る自然遊歩道。
⑨弘法大師と桜のみち:このみちは県内17コースのうち9番目のコースで、秦野市南平橋から桜の名所権現山・弘法山へ。旧矢倉沢街道を経て伊勢原市国道246号坪ノ内バス停までの全長904kmの道。なお、途中から鶴巻温泉や善波峠を経て高取山、浅間山へも行くことができる。環省・神奈川県 ~下記案内板より抜粋転載~
「関東ふれあいの道」の道標
吾妻山
日本武尊は、東国征伐に三浦半島の走水から、船で房総に向かう途中静かだった海が急に荒れだし難渋していた。そこで妻の弟橘比亮は、「私が行って海神の御心をお慰めいたしましょう」と言われ海に身を投じた。ふしぎに海は静まり無事房総に渡ることが出来た。征伐後、帰る途中相模湾・三浦半島が望めるところに立ち今はなき弟橘比亮を偲ばれ「あずま・はや」と読まれた場所がこの吾妻山だと伝えられている。環境庁・神奈川県 ~下記案内板より抜粋転載~
鶴巻温泉方面へ
鶴巻温泉側登山口
「鶴巻温泉駅」