蔵の街を散策して見つけた「近龍寺」と栃木のお伊勢さま「神明宮」。蔵の街のs詳細は、蔵の街栃木Ⅰ へ。 -2023.03.14-
◆浄土宗 近龍寺◆
当山は室町時代の応永28年(1421)に、浄土宗僧侶、良懐上人によって宿河原(現 栃木市城内町)に「称念寺」として創建され、その後天正16年(1588)栃木城の建設計画にともない現在地に移され、名を「三級山 天光院 近龍寺」と改めました。その名は中国故事「三級飛龍~鯉は三級(段)の堰を登ると龍に転じて天に昇る」に由来します。本堂は江戸時代の文化年間(約二百年前)建立。境内の三佛堂には、子育安産・学業成就の呑龍上人像、下野三十三ヶ所観音霊場巡り二十四番札所の聖観世音菩薩などが祀られます。また明治の初期、栃木県で最初の小学校および師範学校が当山内に開設され、栃木県出身の文豪・山本有三のお墓もあります。~下記案内板より転載~
山門
本堂
<市指定有形文化財>
文化3年(1806)に建てられた古建築物で、木造平屋建て、入母屋、瓦葺き、平入、桁行7間、正面1間向拝付、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、江戸時代後期の寺院本堂建築の遺構として貴重な事から平成12年(2000)栃木市指定有形文化財に指定。
三佛堂
鐘楼
◆文豪・山本有三先生のお墓◆
山本有三先生は明治20年7月、旧栃木町(現 栃木市)の呉服商の長男・勇造(有三はペンネーム)として生まれ、少年時代に芝居好きの母とよく芝居を見たことが劇作家へのきっかけとなり、後に小説家となった。作品は戯曲、小説を合わせて約40篇、代表作は『路傍の石』『生命の冠』『波』『女の一生』『真実一路』『心に太陽を持て』があり、特に『路傍の石』の一説「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない人生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか」は今も多くの人に感銘を与える。さらには戯曲『米百俵』は優れた教訓として知られ、平成13年小泉首相が国会演説で引用し流行語ともなった。また、戦後は国会議員をつとめ、国語教育の充実等に尽力された。先生は昭和35年栃木市名誉市民となり、昭和40年には文化勲章受章、昭和49年1月11日、満86歳にて没し、ふるさと栃木の当山に埋葬された。そのお命日は一が3つ並ぶことから「一一一忌」と称され、毎年墓前で遺徳顕彰の法要が営まれる。~下記案内板より転載~
創建は1403年(応永10年)で、1589年(天正17年)に皆川広照の栃木城築城にともなって現在地に移され、栃木町の成立にかかわった貴重な神社。「栃木のお伊勢さま」と称されている。
鳥居
神明宮
御祭神:天照皇大神 造化三神:天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神
神明宮は室町時代の中期、伊勢の神宮より御分霊をいただき創建された神社で「栃木のお伊勢さま」と称されている。御祭神の天照皇大神は、明るく強く生きる力を与えてくださる太陽の如く霊験あらたかなる神であります。当社の御本殿にはその昔、天高くそびえる十本の千木があり「十千木」と呼ばれるようになったことから、県名発祥の地といわれている。~下記案内板より抜粋転載~
手水舎
拝殿
<市指定重要文化財>
現在の拝殿は、中教院として全国的に展開された皇道宣布の強力な教化の施設として建立。必要に運営されていたるも明治15
年1月内務省が神官の教導職兼務解除のため、中教院も閉鎖。廃院の元中教院を受入れ社殿として補修を加へ神明宮社殿として荘厳かつ壮麗なる再建を見現在に至る。
扁額は「盛哉」(さかんなるかな)
「益々栄え、盛り上がりますように」
という意味で下野国全体の繁栄を願う
歴史にのこる文化財
愛国の人道を教化するのを目的として、明治5年(1872)に大教院を東京に設け、明治6年(1873)には中教院、小教院を各都道府県に置くことになり、栃木県には大田原、鹿沼、宇都宮、足利に小教院を設け、栃木に中教院を置きました。しかし、明治8年(1875)に神仏共同布教が廃止となり、神道の統一を図るために、事務局を各地方に設けました。その名残の建物を拝殿として現在の場所に移築したものです。全国的に存在しているのは珍しい建物です。また、当神社は『栃木県』県名発祥の地として市民に親しまれています。~下記案内板より転載~
拝殿を横から
本殿
<市指定重要文化財>
現存する本殿は、明治16年(1883)の再建になるものだが、古式を守った本格的な神明造の神社建築であり、建築当初の姿をとどめている。
奏楽殿
境内社「福寿稲荷神社」
境内社
「須賀神社」「恵比寿神社」「大国主神社」「魁稲荷神社」「淡島神社」「琴平神社」「富士浅間神社」「市姫神社」「愛宕神社」「小御嶽神社」「松尾神社」の11社。
社務所の前に知恵授けの輪