谷中七福神巡り


今から250年前から続いていると言われている東京で最も歴史がある「谷中七福神巡り」に行ってきました。田端駅から出発~上野まで♬。東覚寺「福禄寿」、青雲寺「恵比寿」、修性院「布袋尊」、長安寺「寿老人」、天王寺「毘沙門天」、護国院「大黒天」、寛永寺の不忍池辯天堂「弁財天」という谷中の七福神を巡ります。「弁財天」以外は御開帳。-2022.01.04-

七福神のお話

江戸時代から、正月に七福神詣でといって、不忍池の弁才天・上野護国院の大黒天・谷中天王寺の昆汐門天・谷中長安寺の寿老人・日暴里修性院の布袋和尚・日暮里青雲寺の恵比須・田嶋東覚寺の福緑寿の七福神に詣でることが盛んに行われ、別に山の手七福神・向島七福神へ詣でることも行われるようになりまLた。

七福神の芽由度いお姿は広く全国の人々に喜ばれていますが、これらの神様を福の神として尊崇した七福神の創設者が上野東叡山の開祖慈眼大師天海僧正であった事は、余り世間に知られていないようです。天海僧正は経典(仁王経)の七難印減・七福印生の文に基いて、七つの神々の各々の御徳をお授け頂いて我々が益々幸福な生活が得られるようにと御思召されて七福神の信仰をお勧め下さったのです。天海僧正が初めて家康公と会見されたとき、公は後に天下を治め給う福徳を具えた吉相をお持ちだと申し上げましたが、果してその予言は適中、家康公は征夷大将軍の栄職に就かれました。後年、天海僧正は家康公と種々御物語があった時「公の御生涯は全く長寿・富財・人望・正直・愛敬・威光・大量の七福を具え給うにより、困難な天下統一の大業を完成され、平和な国土を築かれたが、これは神様で申し上げると丁度寿老人の長寿・大黒天の富財・福禄寿の人望・恵比須の正直・弁才天の愛敬・毘沙門天の威光、布袋の大量の御徳を表わしたものと云うべきである」と申L上げましたので、家康公は大層お悦びになり、早速狩野法眼探幽を召されて七福神の絵を画かれて尊崇されました。これが七福神誕生の起源であるとされています。探幽の画いた七福神は忽ち評判となり、全国に模写して宣伝され、芽出度い宝船に乗った縁起のよい七福神は世人の最も喜ぶところとなって、絵画は勿論彫刻や陶器に至るまで作られ普及されるようになりました。宝船に一緒に集めたのは私どもの一身の上に七徳が具わることを現したものでありましょう。社会の荒波がいかに狂うても、七福の徳を具備すれば愉快に此の世を渡り、目的地に進むことが出来るのです。印度で信仰された大黒天・弁才天・昆沙門天に中国の寿老人、福禄寿や布袋和尚も加わり日本の恵比須神も共に組合わされて七福神として信仰する者が多くなりましたが、この七徳は人生に欠くことの出来ない要素であるので御利益を願うことが益々盛んとなったのです。皆様方も七福神がそれぞれお持ちの七福徳を一身に具え、明るい楽しい生活を送りましょう。~東叡山護国院「七福神のお話」パンフレットより抜粋転載~

東覚寺(北区田端)


延徳3年(1491年)、神田に創建し、その後、根岸を経て江戸時代初めに現在の地に移りました。山門の「石造金剛力士立像」は、病を患った部分に赤い紙を貼るという「赤紙仁王」として有名。谷中七福神の「福禄寿」を祀っている。

赤紙仁王(石造金剛力士立像)

<東京都北区指定有形民俗文化財>

参詣客が赤色の紙を貼るため"赤紙仁王"の名でよばれるようになった東覚寺の金剛力士立像は、吽形像の背面にある銘文から、寛永18年(1641)8月21日、東覚寺住職賢盛の時代に、宗海という僧侶が願主となって造立されたことが分かります。一説によれば、当時は江戸市中で疫病が流行しており、宗海は、これを鎮めるために造立したのだそうです。参詣客が赤紙を貼る理由は、そのようにして祈願すれば病気が治ると信じられてきたからで、具合の悪い部位と同じ個所に赤紙を貼るのが慣わしです。また、祈願成就の際には草鞋を奉納すべしとされています。ただし、赤紙仁王に固有のこうした習俗が発達したのは明治時代のことで、その背後には、仁王像を健脚や健康をかなえる尊格とみなす庶民独自の信仰があったと考えられます。なぜなら、かつて日本各地には病気平癒を祈願して行う類似の習俗があったからです。そのため、赤紙仁王は、文化形成における庶民の主体性や独自性を強く表現した作品でもあるのです。なお、赤紙仁王は、江戸時代の末までは田端村の鎮守である八幡神社の門前にありました(左図)。しかし、明治初期の神仏分離を機に、かつて東覚寺にあった九品仏堂の前に移され、以後はそこで人々のお参りをうけてきました。また、平成20年10月には、道路拡張工事のため従来の位置から7m後方に移動し、平成21年8月に竣工した新たな護摩堂とともに、今後の世に趨勢を見つめてゆくことになりました。東京都北区教育委員会 ~下記案内板より転載~

赤紙がたくさん張られていて姿が見えない

「護摩堂」

右が「阿像」で左が「吽像」

赤紙がない時の「赤紙仁王尊」のお姿

「鼓翼観世音菩薩」

「本堂」

"福禄寿"

御利益:「人望」

本堂裏の「庭園」

谷中七福神巡り開催期間のみ公開

こちらも「福禄寿」

「僧形八幡神像」

「稲荷大明神」

御朱印

青雲寺(荒川区西日暮里)


滝沢馬琴の筆塚と花見寺(青雲寺)

青雲寺は臨済宗の寺院で浄居山と号する。宝暦年間(1751-64)掘田相模守正亮の中興と伝える。江戸時代の中頃より「ひぐらしの里」と呼ばれ庶民に親しまれてきたこの地は、四季折々の花を楽しむ人々で賑わった。そのため、青雲寺は修性院・妙隆寺(修性院と合併)などとともに花見寺とともいわれていた。現在、谷中七福神のひとつ「恵比寿」が祀られている。境内には、滝沢馬琴の筆塚の碑(文化六年)をはじめ、硯塚の碑(寛政十年)、日暮里船繫松の碑、狂歌師安井甘露庵の碑など、江戸を代表する文人の碑が多く残っている。荒川区教育委員会 ~下記看板より転記~

「山門」

「本堂」

"恵比寿"

御利益:「正直」

「滝沢馬琴筆塚の碑」

<区指定文化財>

代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家。馬琴は精力的な著作活動をし、多量の使い古しの筆を残し、これを供養するため、青雲寺境内の山 (現・西日暮里公園付近)に築いたもので、その後、現在地に移設された。文化六年(1809)に建立。

御朱印

修性院(荒川区西日暮里)


修性院は、天正元年(1573)豊島郡田中村(現練馬区南田中)に創建、寛文3年(1663)当地に移転したと伝えられている。歌川広重の『名所江戸百景』の「日暮里寺院の林泉」にも描かれており、谷中七福神の「布袋尊」(「ひぐらしの布袋」)を祀っている。境内に仮山を造り多数の花樹を植えた景勝地として「花見寺」とも称されていた。

お寺を囲むピンクの塀に布袋尊のイラスト

「本堂」

「本堂内正面」

"布袋尊"

御利益:「大量」

ひぐらしの布袋(修性院)

修性院の布袋は、谷中七福神の一つで、「日ぐらしの布袋」ともよばれる。谷中七福神めぐりは、江戸市中で最も古い歴史をもち、年初めにあたって江戸市民が行う年中行事の一つであった。江戸時代の中期ごろから、このあたり一帯は俗に「ひぐらしの里」とよばれ、江戸近郊の行楽地として賑わった。ことに修性院・妙隆寺(現、身延山関東別院玉川寺)・青雲寺は、境内に多数の花樹を植えて、「花見寺」の名にふさわしい庭園をつくり、四季折々の草花を楽しむことができたという。境内には、江戸時代の儒者・日尾荊山衣サク碑がある。(荒川区教育委員会)~下記案内板より転載~

御朱印

天王寺(台東区谷中)


日蓮上人はこの地の住人 関長燿の家に泊まった折、自分の像を刻んだ。長燿は草庵を結び、その像を奉安した。伝承による天王寺草創の起源である。一般には、室町時代、応永(1294-1427)頃の創建という。「東京府志料」は、「天王寺 護国山ト号ス 天台宗比叡山延暦寺末 此寺ハ日蓮宗ニテ長燿山感應寺ト号シ 応永ノ頃ノ草創ニテ開山ヲ日源トイヘリキ」と記している。東京に現存する寺院で、江戸時代以前、創始の寺院は多くない。天王寺は都内有数の古刹である。江戸時代、ここで”富くじ”興行が開催された。目黒不動滝泉寺、湯島天満宮の富くじとともに、江戸三富と呼ばれ、有名だった。富くじは現在の宝くじと考えればいい。元禄12年(1699)幕府の命令で、感應寺は天台宗に改宗した。ついで天保4年(1833)、天王寺と改めた。境内の五重塔は、幸田露伴の小説、「五重塔」で知られていた。しかし昭和32年7月6日、惜しくも焼失してしまった。台東区教育委員会 ~下記案内板より転載~ 谷中七福神の「毘沙門天」を祀っている。天王寺詳細は、谷中散策(Jun.2020)へ。

「山門」

「本堂」

2020.6.24撮影

「毘沙門堂」

2020.6.24撮影

"毘沙門天"

御利益:「威光」

御朱印

長安寺(台東区谷中)


京都妙心寺末、大道山と號す。本尊千手觀世音菩薩。寛文九年曹洞宗の僧老山(享保九年寂)開基し、後、諸堂大破に及びたるを以て、第三世住職の時臨済宗の僧要關(安永二年六月十日寂)に付し、要關日夜盡力して修繕不日落成し、西京妙心寺末に屬した。今は要關を開山第一世と稱する。寺内に正安二年、建治、弘安、應永年間の板碑あり、また畫家狩野芳崖の墓がある。(「下谷區史」より)谷中七福神の「寿老人」を祀っている。

写真転載:谷根千周辺ガイド

"寿老人"

御利益:「長寿」

御朱印

護国院(台東区上野公園)


護国院は、天海の弟子生順(しょうじゅん)が、釈迦堂の別当寺として、現在の東京国立博物館の右手裏に開創した。承応2年(1653)・延宝8年(1680)に寺地を西方へ移転し、さらに、宝永6年(1709)現在地に移った。延宝8年・宝永6年の移転は、それぞれ四代将軍家綱霊廟・五代将軍綱吉霊廟の建立にともなうものである。また、昭和2年、第二東京市立中学校(現、都立上野高校)建設にともない、本堂を現在の位置に移した。現存する本堂は、釈迦堂とも呼ばれ、 享保7年(1722)3月の再建。間口七間(18.2メートル、奥行五間(13.6メートル)、唐様の建築で、中央奥の須弥壇に本尊釈迦三尊坐像を安置する。また、大黒天画像は、三代将軍徳川家光から贈られたものと伝え、谷中七福神のひとつとして信仰をあつめている。庫裡の一階部分は、昭和2年の新築、東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)教授岡田信一郎の設計で、各間取りは機能的に配置されている。昭和初期の住宅建設の風潮を良く伝えており、平成13年、国登録有形文化財に指定された。岡田は、東京美術学校・早稲田大学で設計教育に携わるかたわら、旧鳩山一郎邸(大正13年竣工)・歌舞伎座(同年竣工)等を手がけ、和風建築の設計に手腕を発揮した人物である。台東区教育委員会 ~下記案内文より転載~

「本堂」

「扁額」

"大黒天"

御利益:「富財」

御朱印

不忍池辯天堂(台東区上野公園)


「不忍池辯天堂(べんてんどう)」は、江戸初期の寛永年間に、天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立されました。天海大僧正は、「見立て」という思想によって上野の山を設計していきました。これは、寛永寺というお寺を新しく創るにあたり、さまざまなお堂を京都周辺にある神社仏閣に見立てたことを意味します。例えば「寛永寺」というお寺の名称は、「寛永」年間に創建されたことからついたのですが、これは「延暦」年間に創建された天台宗総本山の「延暦寺」というお寺を見立てたものです。こうして天然の池であった不忍池を琵琶湖に見立て、また元々あった聖天が祀られた小さな島を竹生島に見立て、さらに水谷伊勢守勝隆公と相談して島を大きく造成することで竹生島の「宝厳寺(ほうごんじ)」に見立てたお堂を建立したのです。琵琶湖と竹生島に見立てられたお堂であったため、当初はお堂に参詣するにも船を使用していたのですが、参詣者が増えるにともない江戸時代に橋がかけられました。昭和20年の空襲で一帯は焼けてしまいましたが、お堂は昭和33(1958)年に復興し、また昭和41(1966)年には芸術院会員であった児玉希望画伯による龍の天井絵が奉納されました。辯天堂にお祀りされるご本尊さまは「辯才天」です。音楽と芸能の守り神として広く信仰され、また「辯財天」とも書くことから、金運上昇といったご利益があります。琵琶を持ったお姿で知られていますが、辯天堂の辯天さまは八本の腕があり、手に手に煩悩を破壊する道具を意味する武器をお持ちになっている「八臂辯才天(はっぴべんざいてん)」さまです。不忍池の辯天さまは「谷中七福神」のひとつです。~不忍池辯天堂HPより抜粋転載~ 

「不忍池辯天堂」の詳細は、上野恩賜公園散策(July.2020)へ。

2020.7.21撮影

"弁財天"

御利益:「愛敬」

「八臂辯才天」のご開帳、年に1日

9月に行われる「巳成金(みなるかね)大祭」の日

御朱印