高幡不動散策 Ⅰ 高幡不動尊金剛寺


「高幡不動尊金剛寺」を参拝してきました。参拝後、境内から続く小高い山、愛宕山(あたごやま)に「山内八十八巡拝コース」を歩き、一番から八十八番まで順に並んでいる弘法大師像を巡ってきました。 -2024.05.04-

高幡不動尊金剛寺(日野市高幡)


真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺は古来関東三大不動の一つに挙げられ「高幡不動尊」として親しまれている。その草創は古文書によれば大宝年間(701)以前とも或いは奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられるが、今を去る1100年前、平安時代初期に慈覚大師円仁が、清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王をご安置したのに始まる。のち建武2年(1335)8月4日夜の大風によって山中の堂宇が倒壊したので、時の住僧儀海上人が康永元年(1342)麓に移し建てたのが現在の不動堂で関東稀に見る古文化財である。続いて建てられた仁王門ともども重要文化財に指定されている。足利時代の高幡不動尊は「汗かき不動」と呼ばれて鎌倉公方をはじめとする戦国武将の尊祟をあつめ、江戸時代には関東十一檀林に数えられ、火防の不動尊として広く庶民の信仰をあつめた。当時門末三十六ケ寺を従え、関東地方屈指の大寺院であったが安永8年の業火により大日堂をはじめ大師堂、山門、客殿、僧坊等を一挙に焼失した。その後、歴代住持の営々たる努力により徐々に復興に向ったが殊に昭和50年代以降五重塔・大日堂・宝輪閣・奥殿・大師堂・聖天堂等の工事が相継ぎ往時を凌ぐ程の寺観を呈するようになった。総重量1100キロを超える巨像で古来日本一と伝えられた重文丈六不動三尊は修復作業が完了し現在奥殿にご安置されている。~高幡不動尊金剛寺HPより転載~

境内MAP

境内MAP:高幡不動尊金剛寺HPより転載

「仁王門」

※重要文化財(室町時代)

仁王門は当初楼門として計画されましたが、途中で計画変更され上層の主要部を覆うような形で屋根がかけられ近年まで外観は単層でした。昭和34年解体復原修理の際楼門として復原され屋根も銅板葺きに変えられました。仁王尊は室町時代の作、楼上の扁額「高幡山」は江戸時代初期の運敞僧正「号泊如」の筆。~高幡不動尊金剛寺HPより抜粋転載~

重要文化財 (建造物) 「金剛寺仁王門」

桁行3間、梁行2間の堂々たる威容を誇る仁王門は建築時期を特定できる史料がないが、建築様式から室町時代後期(15世紀中頃から16世紀中頃)の建立と考えられている。江戸時代の地誌には単層茅葺 、楼門(2階建)、二様の図が見られ、仁王門は何度かその上部構造を変えてきたようである。昭和34年から35年にかけて行なわれた解体修理エ事時の木組の調査で、当時は外見上単層となっていたが、本来は楼門として計画されていたことを疑う余地がなくなった。そのため、重層入母屋造に復原され、屋根は茅葺型の銅板葺となった。平成27年には屋根の葺替と耐震補強工事が行われた。日野市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「仁王尊」


「手水舎」

「不動堂」

※重要文化財(室町時代)

康永元年(1342年)山中より移建。 不動堂は清和天皇に勅願によって、慈覚大師(円仁)が東関鎮護の霊場として山中に建立したが、建武2年(1335年)8月4日」夜の暴風雨により倒壊したため、当山中興第1世儀海上人が現在のところに移建した堂で、東京都最古の文化財建造物。~高幡不動尊金剛寺HPより抜粋転載~

重要文化財 金剛寺不動堂

不動堂はもと山上にあったが、建武2年(1335)の大風で倒壊し、時の住僧儀海上人の発願によって、康永元年(1342)現在地に移建された。昭和31年の解体復原修理の際、江戸時代の彫刻群等、後世のものは全部取り除かれ、創建時の豪壮・簡素な堂に復原され銅板葺となった。尚、堂内安置の丈六不動明王像ならびに両童子像(平安時代)・不動明王像内文書69枚(南北朝時代)及び鰐口(鎌倉時代・文永10年銘)は全て重要文化財に指定されている。日野市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

上杉堂」(上杉憲顕の墓)

上杉憲顕は氏憲(禅秀)の子、享徳4年正月(1455年)足利成氏の軍と立川河原合戦、深手を負い高幡寺に入り自刃した。自然石はその墓標で、俗間信仰に茶湯石(服石)と言い、百か日忌払い供養の伝承がある。(鎌倉大草紙)~下記案内板より転載~

「奥殿」

千年ぶりの修復を終えた丈六不動三尊像を中心にたくさんの文化財を収蔵・展示する為の御堂で1階が展示室、2階が収蔵庫になっている。~高幡不動尊金剛寺HPより抜粋転載~

重要文化財 木造 不動明王像及び両童子像

(11世紀~12世紀初頭)

関東地方唯一の平安時代作の巨像である。南北朝時代に大修理を受けているが気宇の大きな造形は関東武士勃興期の気分を十分に伝えている。古来日本一の不動三尊と称えられ火炎を含めた三尊の総重量は1,100キロを越す。材質は中尊が檜と榧 ・こんがら童子は朴 ・せいたか童子は橡とそれぞれである。不動明王像は正統的な作風を示すが、二童子像はユーモラスな姿体で地方的な味わいがある。~下記案内板より転載~

上記写真:高幡不動尊金剛寺HPより転載

上記写真:高幡不動尊金剛寺パンフレットより転載

「大日堂」

大日堂は高幡山の総本堂。 江戸時代安永8年の大火で焼失し、長く仮本堂のままでしたが昭和57年から5年の歳月をかけて根本改修工事が行われた。新堂は鎌倉時代様式で入母屋造り、本瓦葺・内陣総漆仕上で材は尾州檜が使われている。又大玄関は桃山時代様式。有名な鳴り龍天井や優れた彫刻群、幽玄な内陣荘厳等の鑑賞ができる。~高幡不動尊金剛寺HPより抜粋転載~

「大日堂山門」

扁額:「十善花開處」伊東祐享元帥書

「大日堂本堂」

扁額

「金剛桜」

金剛桜の原木・薬師桜は、山形県白鷹町高玉の薬師堂前に千三百年の齢を重ねてきたエドヒガンである。同所の金田聖夫氏は、千年のいのちをさらに後世に伝えるため、薬師桜の種子を蒔いて作った台木に親水の芽を接いで親と全く同じ遺伝子を有する分身を育てることに成功した。本樹は同氏が育成した分身を、平成14年に11月15日、重要文化財・木造不動明王及二童子像の保存の保存修理完了を記念して、植樹し、「金剛桜」と命名したものである。~下記案内板より抜粋転載~

「水琴窟」

「御佛足石」


「お鼻井戸」

建武2年(1335年)の大暴風で、山中の不動堂が倒れた時、不動尊像がお鼻をついた処と伝えられている。


「にこにこ地蔵」

大日堂右側の「大玄関」

鳴り龍拝観の入口

「金剛寺旧五部権現社殿」

東京都指定有形文化財(建造物)

金剛寺の境内鎮守として創立されたもので、寺伝によると、源頼義が奥州反乱鎮圧に際し、ここに八幡社を勧請し、のちに稲荷、丹生、高野、清瀧権現を合祀して五部権現と称するようになったと伝えられる。この五部権現社は、現存する棟札により、暦応3年(1340)に創建され、寛文11年(1671)に再建された江戸時代前期の社殿として類例の少ない貴重な文化財。建物の構造は、一間社流造、銅版葺、向拝付きで、大きさは桁行1.52m、梁間1.30mある。木部全体に朱の漆が塗られ、彫り物の刻線には墨、さらには向拝蟇股には群青などの鮮やかな彩色が施されている。社殿に安置されていた五基の神碑には、暦応3年(1340)2月28日造の銘があり、本地仏の垂迹神の名を刻し、国の重要美術品に認定されている。なお、五部権現社殿は奥殿建設工事に伴い、平成8年大日堂前に移築された。東京都教育委員会  ~下記案内板より抜粋転載~

「鐘楼堂」

「聖天堂」

安永8年(1779)の大火以来230年ぶりに再建された。~高幡不動尊金剛寺HPより転載~

「聖天堂」

聖天さまは歓喜天とも呼ばれ、象頭人身の男女二神が抱擁しているお姿。夫婦圓満・恋愛成就の神として又事業繁栄・商売繁盛の神として信仰を集めている。~下記案内板より抜粋転載~

「聖天絵馬」

「大師堂」

安永8年(1779)の大火以来230年ぶりに再建された。~高幡不動尊金剛寺HPより転載~

「虚空蔵院」

虚空蔵菩薩は無限の知恵と慈悲をもった菩薩で、13歳の子供が厄除けと開運をお祈りする十三参りの仏様として尊崇されている。~高幡不動尊金剛寺HPより転載~

虚空蔵菩薩さま

この菩薩のお智恵とお徳は大空のように広大ですので虚空蔵菩薩と尊称され、宗祖弘法大師も開山興教大師も虚空蔵さまに深いお祈りを捧げ悟りを開かれたと伝えられている。私達に智恵と福寿を授けて下さる虚空蔵菩薩の信仰は全国的に広がっているが、関西方面の十三参りは特に有名。※十三参り:十三歳の子供が智恵や福徳を授かるように虚空蔵菩薩にお参りする風習のこと。~下記案内板より抜粋転載~

「文永の板碑」

市指定有形文化財

文永8年(1271)総高2.35m。 市内最大のこの板碑は、当山西側台地上の旧境内の隣接地(現南平3丁目1番地・平ミツ氏所有の果樹園の中)にあったが、平成19年、平ミツ氏の希望により、関係の深い当山境内に移された。板碑は古くから、平維盛の墓と伝承されてきたが、近年の研究で鎌倉時代の比較的早い時期に武蔵の国の高麗地方から南平に移住し、その後現日野市の広い地域に勢力を伸ばした平姓の高麗一族の始祖の供養塔であろうと推定されている。尚、この一族中、平助綱(高麗助綱)は建武2年8月4日夜の大風で倒壊した不動堂(重文)の現在地移建と、大きな損傷を蒙った丈六不動三像(重文)の修復に大檀那としてその名を残している。板碑の表側の文字はかなり磨滅していますが「文永八年 辛未 中冬日」とのみ刻まれており、裏側には文字の形跡はない。~境内案内板より抜粋転載~

「大観音像」

「弘法大師像」

「稲荷社」

「五重塔」

満5年の歳月をかけて竣工した五重塔は、塔高39.8m、総高45m、和様、三手先出組、青銅瓦葺、平安初期の様式を模した美しい塔。~高幡不動尊金剛寺HPより転載~

扁額

「近藤勇・土方歳三顕彰碑」

日野市指定史跡 

この碑は、多摩地域に生まれ、幕末の新選組局長及び副長として活躍した近藤勇・土方歳三の事績を記したもので、文の撰者は元仙台藩の儒者大槻磐渓、書は元幕府典医頭・医学所所長の松本順、篆額は元京都守護職松平容保の書である。松本は、はじめ徳川慶喜に篆額の書を依頼したが、慶喜はただ涙を流すばかりで返事がなかったため、松平容保に依頼した経緯が知られる。明治7年(1874)、明治政府は戊辰戦争で敵対して戦死した者の霊を祀ることを許可し、これに伴い、各地に追悼・慰霊・顕彰のモニュメントが建立された。多摩地区でも同9年、金剛寺住職賢雅和上が、佐藤俊正・糟谷良循・本田定年・橋本政直・近藤勇五郎・小島為政ら近藤・土方の親族及び天然理心流の後援者たちとはかり、近藤・土方両雄の殉節を顕彰する碑の建立準備を整えた。同15年に建立許可が下りたが、豪農による自由民権運動の高まりの中で建立は延引し、構想から十年以上を経た同21年7月、ようやく高幡山金剛寺境内に竣工した。日野市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「土方歳三の像」

平成7年(1995)造立。新選組副長土方歳三は、天保6年市内石田の生まれ、明治2年5月11日箱館戦争で戦死。35歳。毎年歳三の命日に近い5月第二日曜日に、新選組まつりが開催される。尚、歳三の生家は高幡山の檀頭格の旧家。

「弁天堂」

弁天池の島に建つ朱塗りの小堂で、福徳弁財天を祀っている。※ご縁日は毎月15日  ~高幡不動尊金剛寺HPより転載~

山内八十八ケ所巡拝路


「高幡不動尊金剛寺」の境内から続く小高い山、愛宕山(あたごやま)に「山内八十八巡拝コース」がある。明治四十二年開設の山内八十八ヶ所に弘法大師像がまつられており、四国八十八ヶ所のご利益が受けられるという。

上記:高幡不動尊金剛寺HPより転載

「見晴らし台」からの眺め

「高幡城跡」

富士山も見えました♬

境内の「大師堂」まで降りてきた。山内八十八ヶ所のゴール地点。

「大師堂」

「大師堂」のお賽銭箱の足元に、弘法大師四国八十八ヶ所霊場のお砂がまとめて収められた「お砂ぶみ石」が。このお砂を踏むことで実際に巡ったのと同じ御利益があるとのこと。"ここでも再度、「お砂ぶみ石」を踏み、お参り。ご利益倍増😲⁈"

「お砂ぶみ石」

弘法大師四国八十八ヶ所霊場のお砂がまとめて収められてあります。南無大師遍照金剛と唱えてお参り下さい。~下記案内板より抜粋転載~