明治時代末から大正時代にかけて製糸・生糸貿易により財を成した実業家・原三溪が東京湾に面した“三之谷”と呼ばれる谷あいの地に作りあげた、広さ175,000m2 の日本庭園。1906年(明治39)に一般に公開された外苑と三溪が私庭としていた内苑の二つの庭園からなり、京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物と四季折々の自然がみごとに調和した景観が見頃となっている。(現在、重要文化財10棟・横浜市指定有形文化財3棟)学術上、芸術上そして観賞上優れていることから2007年(平成19年)には国の名勝に指定され、庭園全域も文化財として位置づけられた。~三溪園HP、パンフレットから転載~写真は正門入って左回りに観賞した順序で内苑、外苑の区別なし。 -2019.04.02-
建築年:1906年(明治39年) 開園時には三溪自筆による「遊覧御随意三渓園」の表札が掲げられていた。
建築年:室町時代 1457年(康正3年)移築年:1914年(大正3年)
京都・木津川市の燈明寺(廃寺)にあった建物。現在、関東地方にある木造の塔では最古。園内のほぼ全域から、その姿を見ることができる。
建築年:室町時代 1457年(康正3年)移築年:1987年(昭和62年)
三重塔と同じ京都・燈明寺から移築。
建築年:江戸時代後期 移築年:1960年(昭和35年)
飛騨・白川郷にあった建物。大きな茅葺屋根が印象的な合掌(がっしょう)造という屋根に特徴がある構造の民家。
建築年:江戸時代 1634年(嘉永11年) 移築年:1907年(明治40年)
縁切寺の名で知られる鎌倉・東慶寺にあった禅宗様の仏堂。
建築年:1908年(明治41年)
草庵風の茶亭で素朴ながら風趣のある建物。 建物内に横笛の像が安置されていたことから「横笛庵」と称されている。 横笛の像は、戦争の際に消失。
かつて「三溪園」を訪れたインドのノーベル賞文学者タゴールや芥川龍之介らによって書き記しるされた茶屋。当時はいつでも麦茶が振舞われてたという。芥川は1915年(大正4年)の初秋、“ひとはかり うく香煎や 白湯の秋”と俳句に残している。
建築年:1917年(大正6年)
三溪の構想による茶室。土間の中央にある太い円柱と、その脇の壁にはめ込まれている格子は、宇治平等院鳳凰堂の古材と伝えられている。
建築年:江戸時代(小間)広間部分は「三溪園」移築後に増設。 移築年:1922年(大正11年)
三畳台目(3.8畳)の小間は織田信長の弟・有楽の作といわれる茶室。茶室内に九つの窓があることから、かつて"九窓亭"と呼ばれていた。
建築年:江戸時代 1623年(元和9年) 移築年:1922年(大正11年)
徳川家光が二条城内に建て、後に春日局が賜ったと伝わる建物。
建築年:1918年(大正7年) 三溪が建てた一畳台目の極小の茶室。
建築年:江戸時代 1603年(慶長8年) 移築年:1918年(大正7年)
徳川家康が京都伏見城内に建て諸大名伺候の際の控室にあてたものと伝えられている。
建築年:江戸時代 1649年(慶安2年) 移築年:1917年(大正6年)
紀州徳川家初代藩主頼宣が和歌山紀ノ川沿いに建てた数奇屋風書院造りの別荘建築。
「亭榭」とは屋根のある見晴らし台。京都の高台寺の観月台を模して造られた。
建築年:桃山時代 1591年(天正19年) 移築年:1905年(明治38年)
豊臣秀吉が京都・大徳寺に母のために建てた寿塔(生前墓)を納めるための建物で、現在、秀吉が建てたものと確認できる数少ないもの。 迦陵頻迦(かりょうびんが)や蓮の花などの彫りの深い装飾、そりあがった屋根は荘厳さを感じさせる。
桃山時代らしい豪壮な彫刻の扉
建築年:江戸時代 1708年(宝永5年) 移築年:大正初期 京都東山の西方寺にあった薬医門。
1902年(明治35年)三溪が建て、「三溪園」造成の足がかりに。 広さ290坪に及ぶこの住宅は、主に、楽室棟、茶の間棟、客間棟から構成されている。 上空から見た形があたかも鶴が飛翔している姿を思わせることから、“鶴翔閣”と名づけられた。
桜とボケ
「三溪園」の帰りに立ち寄った小さな神社。立てかけられた「亀の子石の由来」には“大昔のこと、漁師の網にかかった大亀がそのまま石に化したのだと伝えられている。いつの頃からかこの亀の子石はのどを守る神、特に百日咳に効果ありとして信仰され、百日咳などを患うと、この神様からたわしを借りてのどをこすり、また、小児の食した茶碗をこのたわしで洗うと不思議にのどが治るといわれている。三七の結願で治ると亀の子たわしを倍にして返礼する習わしがある。”-本牧三之谷町内会 横浜観光協会- ~下記案内板より転載~
扁額には「亀の子様」
亀の子石の碑のもとには亀の子たわしが奉納されている