鎌倉文学館のバラ🌹を観賞してきました。併せて「高徳院」の大仏さま、「縄神明甘宮」「成就院」「御霊社」と鎌倉らしいスポットを散策してきました。 -2018.05.16-
1985年(昭和60年)、国の登録有形文化財となっている格調と気品あふれる建物の中に鎌倉ゆかりの文学者の著書・原稿・愛用品などの文学資料を収集保存し、展示することを目的として開館。本館と広大な敷地は、加賀百万石の藩主で知られる前田利家の系譜、旧前田侯爵家の別邸であった。文学館へのアプローチは緑の木立に囲まれ、館の窓からは湘南の海が一望できる。庭園の南側に600㎡近い「バラ園」があり、この「バラ園」では、鎌倉ゆかりの名前が付いたバラからフランスやドイツ産まれのバラまで、約200種250株を楽しむことができる。鎌倉文学館HPより抜粋。
文学館へのアプローチは緑溢れる小道
「バラ園」
白秋
フラウホレ
コスモス
ペーターフランケンフェルド
フロージン82
プリンス ドゥ モナコ
つるデンティベス
ブラッシングノックアウト
ピンクノックアウト
かまくら小町
流鏑馬
サプライズ
リモンチェッロ
鎌倉
羽衣
ハマナス
館内ベランダから望む湘南の海
庭園内の小路
「高徳院」(詳名: 大異山高徳院清浄泉寺)は、法然上人(1133 ~1212年)を開祖とする浄土宗の仏教寺院。「露坐の大仏」として名高い「高徳院」の本尊、国宝銅造阿弥陀如来坐像が。像高約11.3m、重量約121t を測るこの仏像は、規模こそ奈良東大寺の大仏( 盧舎那仏) に及ばぬものの、ほぼ造立当初の像容を保ち、我が国の仏教芸術史上ひときわ重要な価値を有している。その造立が開始されたのは建長四(1252年)。制作には僧浄光が勧進した浄財が当てられたとも伝えられている。その後、大仏殿は台風や大津波のため倒壊し、室町時代の末までには今の「露坐の大仏」に。鎌倉大仏殿高徳院HPより抜粋。 小学校の遠足以来の再訪です。
境内図
鎌倉大仏殿高徳院HPより転載
「仁王門」
当院の山号「大異山」を記す扁額が掲げられた山門は、18世紀初頭、内部に安置された一対の仁王像とともに他所より移築されたものと伝えられている。~鎌倉大仏殿高徳院HPより抜粋転載~
上記写真:鎌倉大仏殿高徳院HPより転載
「鎌倉大仏」
「露坐の大仏」として名高い高徳院の本尊、国宝銅造阿弥陀如来坐像。像高約11.3m、重量約121t を測るこの仏像は、規模こそ奈良東大寺の大仏( 盧舎那仏) に及ばぬものの、ほぼ造立当初の像容を保ち、我が国の仏教芸術史上ひときわ重要な価値を有している。北条得宗家の正史『吾妻鏡』によれば、その造立が開始されたのは1252( 建長四) 年。制作には僧浄光が勧進した浄財が当てられたとも伝えられている。もっとも、創建当時の事情には不明な部分が多く、未だ尊像の原型作者すら特定されるに至っていない。当初尊像を収めていた堂宇については、『太平記』と『鎌倉大日記』に、1334( 建武元) 年および1369( 応安二) 年の大風と1498( 明応七) 年の大地震によって損壊に至ったとの記録を見いだすことができる。以後、露坐となり荒廃が進んだ尊像は、江戸中期、浅草の商人野島新左衛門( 泰祐) の喜捨を得た祐天※・養国の手で復興をみた。尊像の鋳掛修復に着手し、「清浄泉寺高徳院」と称する念仏専修の寺院を再興、当時、浄土宗関東十八檀林の筆頭であった光明寺の「奥之院」に位置づけたのも、祐天の事績にほかなりません。今日、創建750 年余を経た尊像は、仏教東伝の象徴として、国内外、宗派の別を問わず数多の仏教徒の信仰を集めている。~鎌倉大仏殿高徳院HPより抜粋転載~
哀愁ただよう後姿
「蓮弁」
大仏像の背後には青銅製の「蓮弁」4枚が安置されている。これらは江戸中期に蓮台の製作を企図して鋳造された。当初全32枚の製作が予定されていた「蓮弁」のうち、完成をみたのが同4枚に当たり、表面には寄進者の名前が刻まれている。~鎌倉大仏殿高徳院HPより抜粋転載~
「藁草履」
大仏像に向かって右側の回廊内壁に常陸太田市松栄町(旧郡戸村)に活動拠点を置く松栄(まつざか)子供会によって奉納された、長さ1.8m、幅0.9m、重量45kgにも及ぶ大きな「藁草履」がかけられている。この草履の制作・奉納は、戦後間もない1951年、「大仏様に日本中を行脚し、万民を幸せにしていただきたい」と願う、茨城県久慈郡(現常陸太田市松栄町)の子供達によって始められた。松栄町会はその事績も後世に伝えつつ、1956年以降、3年に一度巨大な「藁草履」の制作を試み、当院への寄進を続けられている。~鎌倉大仏殿高徳院HPより抜粋転載~
「観月堂」
15世紀中頃、漢陽(今日のソウル)の朝鮮王宮内に建築されたと伝えられる建物で1924(大正13)年、当時これを所持されていた「山一合資会社」(後の「山一證券」)の社長杉野喜精氏によって、東京目黒の私宅から移築・寄贈された。鎌倉観音霊場23番札所ともなっている当山では、今日この建物の中に、江戸後期の作品とみられる観音菩薩立像を安置している。~鎌倉大仏殿高徳院HPより抜粋転載~
石碑 歌碑17「与謝野晶子 歌碑」
"かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は
美男におはす夏木立かな" 晶子
和銅三年庚戌年(710年)染谷太郎大夫時忠の創建。永保元年辛酉年(1081年)源義家公が社殿を再建。 源頼朝公、政子の方、實朝公など武家の崇敬が篤く、古来伊勢別宮と尊稱されている鎌倉で最も古い神社。 社殿の裏山は神輿ヶ嶽(見越ヶ嶽とも書く)と言い、古くから歌に読まれている。源頼義は相模守として下向の節、当宮に祈願し、一子八幡太郎義家が生まれたと伝えられている。“都にははや吹ぬらし鎌倉の神輿ヶ崎秋の初風”~縄神明甘宮略誌より~
「拝殿」
境内社:「秋葉神社」
境内社:「五社明神」
「拝殿」を背にすると
長谷の町と由比ガ浜の海
かつて弘法大師が護摩修法を行ったといわれる霊跡に、鎌倉幕府三代執権 北条泰時が承久元年(1219)「成就院」を建立。元弘三年(1333)新田義貞の鎌倉攻めで焼失し西ヶ谷に移ったが、元禄元年(1688)、江戸時代に<中興の祖 祐尊>により元の地に再建され、現在に至る。當山は108段の階段を上った山上にあり、由比ヶ浜を一望する眺めは鎌倉を守る要所であったことを偲ぶ事ができる。~成就院HPより転載~。本尊である不動明王の分身の像には縁結びのご利益があるとされ、人気のパワースポット。
「本堂」
本尊である不動明王の他、大日如来・聖観世音菩薩・弘法大師座像などが祀られている。
鎌倉一美しいといわれる
「龍の手水」
「弘法大師像」
「なでかえる」
〔善心廻幸〕愛らしい姿に心なごみます。善き心幸せを招きかえる。
本尊不動明王の御分身として境内に祀る。縁結び不動明王のパワースポット。
「参道」より由比ヶ浜がきれいに見える。
祭神は鎌倉権五郎景政。平安時代の創建。景政公は鎌倉・湘南地域を開拓した領主で、桓武天皇の末裔で鎌倉武士団を率いた、平氏一門のつわもの。土地の人には「権五郎さま」と呼ばれており、ここ「御霊神社」も「権五郎神社」の名で親しまれている。毎年9月18日に行われる面掛行列が有名で、その際に十人衆がつける仮面が境内の宝物庫に保管されている。鳥居の前に江ノ電の踏み切りがあり、鳥居と江ノ電が走る景色は、鎌倉らしいスポット。また、紫陽花(あじさい)と江ノ電の写真撮影場所として、鎌倉を題材にしたテレビドラマや漫画などによくでてくるスポットとしても有名。
江ノ電の踏切越しに鳥居が見えます♬
「社殿」
「景正公 弓立ての松」
鎌倉権五郎景政公が領地を見まわる際に弓を立て掛け休んだと伝えられている。
「手玉石と袂石」
御祭神景正公が手玉に取り、袂に入れたと伝えられる。公の人知を超えた霊才を示す重量の石。古来より奇石は神霊を宿すと考えられている。右 「袂石」(十六貫)約60kg、左 「手石玉」(二十八貫)約105kg。
「石上神社」
昔、「御霊神社」の前浜にあった巨石に多くの船が座礁し多数の人命が奪われた。海神の怒りと考えた村人はこれを曳き上げその上部を祀って「石上神社」と称した。
「御嶽社」
長野県にある御嶽神社の三神を祀る。
「第六社天社」
神代七代と云われる天地開闢の時に成りませる神の第六代に当たる神、面足尊(おもだるのみこと)と訶志古泥神(かしこねのかみ)を祀る。男神、女神の容貌が成り整うの神格化。防塞の守護の神とも云われる。
「夫婦銀杏」
「社殿」に向かって右が雌、左が雄。毎年多くの銀杏の実を結ぶことから夫婦円満・家内安全・子宝安産のシンボルとされている。