初めての板橋区。自然と歴史の文化の里・武蔵野の香りが今なお残るエリア"赤塚エリア"を散策。東武東上線「東武練馬駅」から「徳丸北野神社」「旧粕谷家住宅」「安楽寺」「水車公園・徳水亭」「松月院」「浄蓮寺」「赤塚諏訪神社」「竹の子公園」「板橋区立郷土資料館」「赤塚溜池公園」「赤塚城跡」「赤塚氷川神社」を巡り「成増駅」へ。色々な史跡スポットを訪ね歩く盛りだくさんの一日でした♬ -2024.04.19-
上記パンフレット:板橋区くらしと観光課
松月院 萬吉山宝持寺 曹洞宗
延徳4年(1492)、千葉自胤(よりたね)はこの寺を菩提寺と定め、寺領を寄進し、自ら中興開基となった。開山堂には開基の位牌をまつり、本堂西側の墓地には自胤のほか比丘尼了雲の墓碑も建てられている。天正19年(1591)、徳川家康は四十石の朱印地を当寺に寄進し、朱印状を発給した。以降、江戸時代を通じて、歴代将軍が発給した朱印状が「徳川将軍朱印状」(板橋区指定有形文化財)として現存する。原則では将軍の代替わりごとに返還するため、貴重な例である。
天保12年(1841)、長崎の町年寄で西洋砲術家でもあった高島秋帆が幕命により、徳丸原で洋式砲術の調練を行った。秋帆が当寺を本陣にした由緒から、遺品が伝わるほか、大正11年(1922)に東京陸軍兵器長を務めた押上森蔵を発起人として建てられた「火技中興洋兵開祖高島秋帆紀功碑」板橋区指定有形文化財)も境内に残る。また、赤塚六丁目四十番七号に所在する近世建築「大堂」(板橋区指定有形文化財)に伝わった国重要美術品「大堂 銅鐘」(板橋区指定有形文化財、板橋区郷土資料館寄託)や「大堂阿弥陀如来坐像」「大堂閻魔王座像」(板橋区指定有形文化財)など、中世以来の由緒をもつ大堂に関わる貴重な文化財も現存している。なお、大堂は大正14年に都旧跡(当時は府)にも指定されている。板橋区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「参道」
「山門」
「不許葷酒入山門」
(クンシュサンモンニイルヲユルサズ)
多く禅宗の寺の門前に立つ結戒の一つ。臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないということ。~コトバンクHPより転載~
「扁額」
松月院のヒイラギ <板橋区登録天然記念物>
樹種、ひいらぎ(モクセイ科)樹高、約10m。目通り、約270cm。根回り約310cm。樹齢、約百年(推定)。
ヒイラギは厚い常緑の葉の鋸歯(ぎざぎざ)が鋭く、さわるとひいらぐことからこの由来が出ている。ヒイラギ小枝と鰯の頭を節分の門辺にさし、鬼の侵入を防ぐという習俗は最近までみられる。また、ヒイラギの葉は若木では鋸歯が鋭く、古木になると鋸歯は消滅して全緑となり丸くなることから、人間の成長の過程を象徴するとの説話ものこる。松月院のヒイラギは、上部の樹冠の葉は丸く、下部の若い枝の葉は尖った鋸歯をもっている。このような説話の葉の特徴を備えた古木は区内には珍しい。
平成6年度、板橋区登録文化財の天然記念物(名木・巨樹・老樹等)とした。板橋区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「本堂」
扁額
「鐘楼」
「豊川吒枳尼真天」
(とよかわだきにしんてん)
「扁額」
「高島秋帆先生紀功碑」
この紀功碑は、別名火技中興洋兵開祖碑とも呼ばれ、ここ松月院に本陣を置き、徳丸原で日本最初の本格的な西洋式砲術を指揮した、高島秋帆を顕彰する目的で大正11年12月6日建立された記念碑である。高島秋帆は、寛政10年長崎町年寄の名家に生まれ、長じて出島のオランダ人より西洋の砲術を学んだ。天保11年、中国清国と英国との間で阿片戦争が勃発し、西洋の進んだ軍事技術に清国が大敗すると、その危惧が日本に及ぶことを恐れた高島秋帆は、天保上書を幕府に上申、日本の従来からの砲術技術の変革を唱え、西洋列強諸国に対する防備の一環としての西洋式軍事技術の導入を説いた。天保12年5月7日〜9日までの3日間、高島秋帆は赤塚の朱印寺として名高い松月院に本陣を置き、門弟100名と起居を共にしながら、現在の高島平、徳丸原にて洋式砲術調練を公開し、世にその名声を得たが、間もなく讒言にあい永牢に繋がれた。嘉永6年夏、11年に及ぶ幽閉を解かれた高島秋帆は、江戸幕府の肝いりで講武所を開設し、支配及び師範に出仕し幕府あるいは諸藩の西洋式軍事技術普及に貢献した。慶応2年正月江戸小早川にて69歳の生涯を閉じた。日本陸軍 創設者の一人として名高い。紀功碑は、安政4年に鋳造された銅製二十四斤加農砲を砲身に火焔砲弾四発を配した大理石製の台座にのせた特異な形をとり、砲術に長けた高島秋帆を象徴する。総高6m。~下記案内板より抜粋転載~
四国名産赤虎石23トン
「松宝閣」
「客殿」
乗蓮寺
ご本尊は阿弥陀如来。浄土宗で赤塚山慶学院と称している。応永年間(1394〜1428)に了賢無的が山中村(現仲町)で人々に教化したことに始まり、後に板橋の中宿(現仲宿)に移転したと伝えられている。天正19年(1591)に徳川家康から十石の朱印地を与えられて以来、代々の将軍から朱印状を与えられた。また寛保3年(1743)に将軍吉宗が鷹狩りの際に雨宿りしたのが縁となり、それ以降将軍の鷹狩りの際の小休所、御膳所となった。
高速道路の建設に伴う国道十七号線の拡張工事により、昭和46年から7年の歳月をかけて現在の地に移転したが、その際に天災戦災等の無縁仏の供養や恒久平和を祈願して青銅製の東京大仏が建立された。境内には、板橋の領主板橋信濃守忠康の墓や天保飢饉供養塔、藤堂家ゆかりの石像がある。板橋区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
境内マップ
上記MAP:浄蓮寺HPより転載
「正門」
「山門」
扁額
「山門」裏側から
「本堂」
「弁天堂」
「東京大仏」
この大仏さま(阿弥陀如来)は、当山住職二十三世正譽隆道が、昭和49年88才にて発願、完成まで約3年の歳月と延べ3,500人の手によって昭和52年4月完成をみた。千葉氏の居城であったこゝ赤塚城二の丸址に乗蓮寺を建立するにあたり、千葉氏一族、戦没者、そして有縁無縁の霊をとむらい、世界の平和と万民救済の願いがこめられている。奈良、鎌倉の大仏に次ぐ東京大仏。
合掌して南無阿弥陀仏と十遍となえましょう。【材質】材質 青銅(ブロンズ)製【重量】32t【座高】8.2m(頭部3m)【蓮台】2.3m【基壇】地上2m、地下1m ~下記案内板より抜粋転載~
「書院」
旧藤堂家染井屋敷石造物
境内にある石造物のいくつかは、現在の豊島区駒込付近に所在していた 津藩藤堂家・江戸下屋敷(染井屋敷)に置かれていた。 これらは、文政元年(1818)に作成された「藤堂和泉守殿染井屋敷図」に、 呼称や特徴などが付されて描かれ、天保13年(1842)成立の『虎丘堂集書』に、 「不思議な形」「形異状」な珍品であると記録されるなど、当時から特色ある 石造物として知られていた。また明治年間に発刊された『江戸会誌』収録の「染井藤堂家の石像」と題する レポートには、邸内に残存していた古石像11体が、一所に集められていたことが 記録されている。 その後、同地は「仙人塚」や「鉄拐堂」と呼称され、とくに足の病気平癒を 願う 人々の信仰対象となった。戦後、これらは「鉄拐堂」に隣接する個人宅に置かれていたが、 昭和42年に、当時板橋区仲宿に所在していた乗蓮寺に移された。 そして、昭和46年からの当寺の赤塚移転に伴い、現在の場所に移設された。なお、現在当寺に現存している旧藤堂家染井屋敷石造物は「鉄拐仙人」「奪衣婆(婆々)」「天邪鬼(がまんの鬼)」「恵比寿」・「大黒」「文殊菩薩」・「布袋尊」「役行者(小角)」の石像、 計8点。これらの石造物は、江戸期に大名屋敷内に所在していたことを文献資料から裏付けることができる希有な資料であることから、 平成23年に板橋区の登録有形文化財となった。~浄蓮寺HPより抜粋転載~
「奪衣婆(婆々)」
「役行者(小角)」
「文殊菩薩」
「天邪鬼(がまんの鬼)」
「布袋尊」
「鐘楼」
「福寿観音堂」
「福寿観音」
「七福神」