文明10年(1478)に太田道灌が江戸城の鎮守として、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したのがはじめで、「市谷八幡」ともいう。応神天皇・神功皇后・与登比売命を祭神として、もとは市谷御門内にあったが、寛永年間に現在の地に移転。江戸時代には「時の鐘」があり、門前町も賑わいをみせ、江戸の名称のひとつとされていた。また、境内には「茶の木稲荷」もまつられている。神社には区内唯一の銅の鳥居(区指定文化財)をはじめ、道灌が所持し、奉納したといわれる軍配団扇(区登録文化財)や、力石(区指定文化財)、茶筅塚碑、刀工碑などがある。~一般社団法人新宿観光振興協会HPより抜粋転載~
「社号碑」
「市谷亀岡八幡宮の銅鳥居」
<新宿区指定有形文化財 建造物>
文化元年(1804)12月建立の銅製明神型鳥居で、高さは4.6m、台石55cmである。市谷亀岡八幡宮の別当寺であった東圓寺の第七世住職智光の発願により建立された。柱には、造立者、鋳物師らの建造銘と、寄進者442名の名前や職業が陰刻されている。「八幡宮」の額は、姫路藩主である酒井忠道の筆によるもので、八の字は八幡神の使いとされる一対の鳩が向かい合う姿で描かれている。区内で唯一の銅製鳥居で、意匠や鋳造技術にも優れており貴重である。
市谷亀岡八幡宮の軍配団扇
<新宿区登録有形文化財 工芸品>
柄は木製で、団扇の部分は和紙を芯に幅1㎝程の短冊状の竹板を並べて、黒漆を塗って仕上げている。『御府内備考』(文政12年刊・1829)によれば、この軍配団扇は、太田道灌が所持した品である。制作・奉納年代などは不明であるが、新宿区周辺に多くの伝説を残した道灌をしのぶことができる貴重な文化財である。 新宿区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「銅鳥居」
「扁額」
ちょいとユニークなお顔の狛犬
「銅鳥居」を振り返ると
「社殿」前の狛犬
「社殿」
「市谷亀岡八幡宮の几号水準点」(水鉢台座)
<新宿区登録有形文化財(歴史資料)>
明治初期に、イギリスの技術を導入した内務省地理寮は、近代的な測量を開始し、東京を中心に、「不」の字に似た記号を用いた几号水準点を設置した。市谷亀岡八幡宮の几号水準点は、神社境内の水屋の水鉢台座の側面に刻んだもので、内務省地理寮による関八州三角測量が開始された明治8年(1875)頃に、刻印された。現在、台座の上には、昭和26年(1951)に、八幡講により奉納された水鉢が置かれているが、もともとは社務所前に置かれている。宝暦7年(1757)に、越前屋吉兵衛によって奉納された水鉢とセットであったと推定される。『江戸名所図会』(天保5・7年刊行、1834・1836)には、現在と同じ位置に水屋が描かれており、また「東京実測図」(明治20年、1887)に記された標高(水準点94.8尺、約28.7m)が現在とほぼ変わらないことから、水準点の位置が、設置当初から移動していないことが分かる。市谷亀岡八幡宮の几号水準点は、設置当初の場所に位置する希少な几号水準点で、保存状態も良好である。近代土木史上、貴重な文化財である。新宿区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「手水舎・水鉢台座」
「市谷亀岡八幡宮の力石」
<新宿区指定有形民俗文化財>
力石は、祭礼の時などに村人が力くらべをし、その石を奉納したものである。市谷亀ヶ岡八幡宮の力石は、合計7個が保存されている。卵形の自然石に、石の重さと、奉納した者あるいは持上げた者の名が刻まれており、うち3個には奉納された年も刻まれている。年代のわかるものでは、寛政6年(1794)を最古とし、その他も江戸時代後半のものと考えられる。数量的にもまとまっており、当時の祭や娯楽を知る上で貴重な民俗資料である。 新宿区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「茶ノ木稲荷神社」
【御祭神】稲荷大神(いなりおおかみ)(元々此地の地主神、稲荷山と言われた此丘に数多く祭られていた稲霊、年神様の主神である)・保食神(うけもちのかみ)
【縁 起】市谷八幡神社の境内、石段左の方中段に御鎮座の「茶木稲荷神社」。今をさる一千年余りの昔、弘法大師が初めて御鎭祭申上げたのが当社と伝えられている。この山の地主の神で古来この地を稲荷山(いなりやま)と呼んだのも、そのいわれによるもの。御祭神は保食神(うけもちのかみ)、すなわち稲荷大神。この大神は、食物衣服のことを司るのが主なる御神徳ですが、その他、家内屋敷の安全を始め、農業、工業、商業の繁昌、諸技藝の上達、交通旅行の安全等を護り、幅広いご利益を持っている。【眼病平癒の伝説】御祭神は、古来病気平癒に特別の信仰がある。古くから伝わるところによれば、昔この山に稲荷大神の御神使の白狐が居たが、ある時あやまって茶の木で目をつき、それ以来崇敬者は茶を忌み、正月の三ヶ日は茶を呑まない習俗があった。特に眼病の人は一七日、或は三七日二十一日の間茶をたって願えば霊験があらたかであったと言われており、その他様々な願いが成就したということです。~市谷亀岡八幡宮HPより抜粋転載~
神狐
「拝殿」
「金刀比羅宮」
【御祭神】大物主神(おおものぬしのかみ)・崇徳天皇(すとくてんのう)・大黒天
【縁 起】讃岐の金比羅さんで有名な金刀比羅宮の御分霊をお祠した神社。正史は特に社史中にはない。江戸時代、諸国の物資が陸路水路ともども江戸を中心に集散するようになり、市谷は特に四ッ谷まで続く水路の揚げ場として多くの船が行き来したところ。海上守護の御神威が高い金刀比羅宮を祭る船が航海の無事安全に感謝して此処に奉祭したと思われる。また江戸時代は、大黒天と習合していたようで、航路運搬されていた物資が多く食料品であったことが推測される。~市谷亀岡八幡宮HPより抜粋転載~
「出世稲荷神社」
【御祭神】京都伏見の稲荷大神 宇迦之御魂大神(うがのみたまのかみ)
【縁 起】市谷のこの小高い丘は、元々茶ノ木稲荷神社を主神として、多くのお稲荷様が祭られており稲荷山と称されていたという。武蔵国稲荷山大明神縁起という書には、元々此地の稲荷神社に崇敬心厚い、お侍があって、そのお侍の枕元に「自分は伏見の稲荷大神じゃ」と現われ、「これまで以上に幣帛を奉り日参されよ」と言い残し夢から覚めたところ、誠に不思議な夢だと喜びまた畏まって夢のお告げの通り、自ら日参し出仕の日には家来を代参させたところ、とんとん拍子に出世して、とうとう大名になったと実名入りの記載があり、その後も出世の大明神よと私財を投じ此地に祀り、参拝を欠かさなかったとされており、その縁起より出世の社号をもつ稲荷神社になったのです。従って、此稲荷山にあって祀られていた多くのお稲荷様の一社であり、話では江戸時代初めのことといわれています。また千葉の成田山新勝寺に鎮座している出世稲荷神社は、当社の御分霊を祀ったものであると言われている。~市谷亀岡八幡宮HPより抜粋転載~