山梨の旅 甲府散策Ⅰ 市内散策


甲府在住の友人を訪ねて、「熊本・大分・福岡の旅」(2003年7月)に続き "大人女子4人旅第二弾 「山梨県」特急「富士回遊」に乗って、新宿からスタート。最初に山梨県の「河口湖」。お天気が良くなかったので 「箱根美術館」「久保田一竹美術館」「河口浅間神社」へ。河口湖1泊後、甲府へ移動。「昇仙峡」・「舞鶴城公園」(甲府城跡)を中心に市内散策してきました。 お天気に嫌われ、富士山に近づくも、富士山は見えず…残念😢でしたが、大人女子旅楽しかったです。-2025.10.19~10.21-

武田信玄公銅像(甲府市丸の内)


甲府駅前にある武田信玄公銅像は、甲府市・山梨県のシンボル。川中島の戦いの陣中における姿を模したその姿は、戦国時代の名将にふさわしい堂々とした様子。彫刻者:宮地寅彦氏・重さ:5,000kg・台座の素材:塩山御影石。昭和43年(1968)4月8日に建設を開始、翌年4月12日(信玄公の命日)に完成し、甲府に寄付された。

「武田信玄公(武田大膳太夫信濃守信玄)」

大永元(1521)年11月3日~元亀4年(1573)4月12日

武田信玄は、武田信虎と大井夫人の長男として生まれる。成人して晴信を名乗るが、一般に知られている信玄は法名。天文10年(1541)、父信虎を駿河に追放して甲斐の守護となり、信濃を制圧して上杉謙信と対立し、五度に及び川中島で合戦を繰り返す。その後、将軍足利義昭ら反織田信長勢力と結び、戦国最強と謳われた甲斐軍団を率いて京都進出を企て、徳川家康を三方ヶ原に破る。天正元年(1573)三河の野田城攻略中に発病。帰国途中の信濃国伊那駒場で没する。享年53歳。三年間喪が秘され、天正4年(1576)に恵林寺で葬儀が行われた。甲州法度の制定、信玄堤の名で知られる治水工事など、民政化として抜群の手腕を振るって領国経営にも尽くした。~下記案内板より抜粋転載~

武田信虎公像(甲府市北口)


2019年のこうふ開府500年を記念して、甲府の礎を築いた武田信虎公の業績を知ってもらおうと甲府商工会議所が企画・制作を行い、甲府駅北口よっちゃばれ広場に設置。銅像の高さは2.1m、重さは400kg。右手に軍配を持ち、武田氏の本拠地つつじが崎館(現武田神社)を背に、甲斐国を統一した後登ったと伝えられている富士山を見据えている。~甲府観光ナビHPより転載~

「武田信虎公

(左京大夫、陸奥守、甲斐国守護)」

信虎公は甲斐国の守護職をつとめる武田家の十七代当主の信縄の嫡男として生まれる。初名は、信直(のぶなお)。永正4年(1507)信縄の死により十四歳で家督を継ぎ、乱国となっていた甲斐国を統一して戦国大名へと成長した。永正16年(1519)12月20日、川田(甲府市川田町)から躑躅が崎の地に館を築いて移り住み(現武田神社)、同時に館の周囲には家臣や商職人らの移住を図り、寺社も多く配置し、甲斐国の新たな府中である「甲府」を開いた。天文10年(1541)に娘婿であった今川義元のもとを訪れた際、晴信(信玄)によって帰路を絶たれ、駿河国に留まり隠居、まもなく出家し無人斎道有と名乗った。義元の死後上洛し、将軍家に奉公した。天正2年(1574)息子信廉が在城した信濃国高遠城へ身を寄せ、81歳で死去。葬儀は、甲府市古府中町の大泉寺で行われた。後継者となった信玄・勝頼が戦国大名として飛躍できたのは、甲斐国を一つにまとめ、甲府を開いて勢力基盤を整備した信虎の功績に寄るところが大きい。~下記案内板より抜粋転載~

藤村記念館(甲府市北口)


「藤村(ふじむら)記念館」

国重要文化財旧睦沢(むつざわ)学校校舎

【移築の経緯】旧睦沢学校校舎は、明治8年(1875)巨摩郡睦沢村(現甲斐市)に建設された学校の校舎。昭和41年(1966)武田氏館跡西曲輸に移築、県令藤村紫朗にちなんで藤村記念館と命名され、歴史や民俗を含む教育資料館として一般公開。新都市拠点整備事業に伴い、失われた歴史景観の再生と市民や観光客の交流ガイダンス拠点となることを目的に建物を移築復元。

建物の概要と特徴この建物の様式は、当時の山梨県令藤村紫朗が積極的に奨励した擬洋風建築(西洋建築に似せて建てられた建築物)で、明治前期には多くの官公舎、学校、商家がこのような様式で建てられ、藤村紫朗にちなんで藤村式建築と呼ばれている。正面中央の玄関車寄せ、2階のべランダ、正面の吹き放ちの円柱と礎盤、出人口や窓の黒塗りアーチ形の枠、両開きのガラス戸と鎧戸の二重扉などに洋風の意匠を見ることができる。べランダは独特の曲線を見せる幕板を飾り、軒天井は菱組の透かし打ち天井となっている。外壁は漆喰塗りの日本壁で、隅は黒塗り擬石隅石形を示し、屋根は宝形造の桟瓦葺で、中央に太鼓楼と呼ぶ塔屋をのせている。~下記案内板より抜粋転載~

甲州夢小路(甲府市丸の内)


甲州夢小路は、明治、大正、昭和初期の歴史ある甲府城下のまちなみを楽しむことができるスポット。レトロな雰囲気の路地に伝統工芸品や特産品のお店、小さな蔵の美術館、山梨で採れた食材をふんだんに使った飲食店が並ぶ。

「甲府 時の鐘」

甲府では、寛文年間(1661〜1673年)に現在の中央2丁目に時を告げる鐘楼が設置され、1708年(宝永5年)に愛宕町に移転するが、火災により焼失。1818年(文化15年)に再建され、明治初頭までは時を告げていた。2013年(平成25年)に、141年の時を超えて甲府の時の鐘を再建。愛宕町の鐘楼を模造したと伝わる法性山玄法院(現・天神町)の鐘楼を模し、同寺に残されていた写真・鳥瞰図・礎石を基に、底辺3間(5.4m)角、高さ5丈(15m)、銅張の外壁といった仕様で、忠実に再現されている。脇にあるボタンを押すと、当時を思わせる鐘の音が鳴り響く。

富士山と甲府城


『甲府城の歴史』

天正10(1582)年甲斐国は戦国大名・武田氏の滅亡後、まず織田信長の領国となり、本能寺の変後は徳川家康の支配下となった。しかし、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると、秀吉の命令により甥の羽柴秀勝、腹心の部下である加藤光泰らによって、築城が始められ、浅野長政・幸長父子によって完成。また、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い以降は再び徳川の城となり、戦国末期から江戸時代にかけ急展開した。歴史とともに、主もまた頻繁に変わっていった城だった。~下記案内板より抜粋転載~

甲府市歴史公園(甲府市北口)


甲府城の山手御門を当日の工法で復元した歴史公園。「山手御門」は、発掘調査により発見された石垣を土台にし、1700年ごろの絵図をもとに、柳沢吉保が城主だった時代の姿に復元。当時の石垣を土台にし、その上に一石ずつ野面(のづら)積み(自然石をそのまま積み上げていく方法)で積み上げた。「山手渡櫓門」の中は展示室になっており発掘調査で出土した瓦や陶磁器、山手渡櫓門のミニチュア模型、江戸時代の歴史資料などを展示。展示室を抜けると、展望スペースに。富士山や甲府城の稲荷櫓(舞鶴城公園)などが一望できる。歴史公園からの風景は、舞鶴城公園、古(いにしえ)の道とあわせて「関東の富士見百景」の1つに選ばれている。~甲府観光ナビHPより抜粋転載~

甲府市歴史公園

「山手御門(やまのてごもん)」

山手御門は、甲府城に三つあった出入口の一つ。土橋によって堀を渡り、高石垣と土塀に囲まれた内側の高麗門(山手門)と櫓門(山手渡櫓門)から構成される山手御門を通って、ここから南の城内(現・舞鶴城公園)に出入りできた。しかし明治期に破却され、今では線路で分断されている。発掘調査では掘石垣群跡と土橋跡が検出。石積みの状況と文献資料から城内の天守台とほぼ同時期の天正末期から慶長初期(16世紀末~17世紀初)頃に造られたと考えられる。防御上重要な箇所なので、石垣の完成と同時に櫓門の建造が始まったと想定される。当初の建造物の史料はないが、情報量が多く信憑性が高い「楽只堂年録」絵図をもとに建造物規模を推定した。また、発掘された石垣遺構に基づいて位置を定めた。このようにして、「楽只堂年録」に描かれた時代(18世紀初)の姿に復元している。~下記案内板より抜粋転載~

甲府市歴史公園

「山手渡櫓門(やまのてわたりやぐらもん)」

「楽只堂年録」絵図には、石垣を渡し架けているように描かれ、一層目の門の上に櫓が載る櫓門形式の門としている。一層目は石垣の間に門扉、ケヤキ材の鏡柱、添柱等が配置され、75cmもの太さの大梁等を支える。二層目の規模は「甲斐府中城図」等複数の絵図に記されている3間×7間としている。~下記案内板より抜粋転載~

高さ約12m、幅約14m

平成19年(2007)復元

甲府市歴史公園

「石垣」

石垣は検出遺構や明治期に撮影された古写真等を参考にして、自然石を積み上げる「野面積み」を基本としながら、中に粗く割った石を取り混ぜて、様々な大きさの石をバランス良く配置して積み上げている。石積みの隙間には詰め石を施す。山手門から入った正面には、鏡石として巨石(畳2畳約8t)を配置している。「楽只堂年録」絵図に記されている「高さ一丈五尺(15尺≒4.5m)」をもとに石垣を積んでいる。石段も記されている段数に基づいて復元しており、きつい勾配になっている。~下記案内板より抜粋転載~

甲府市歴史公園

「山手門(やまのてもん)」

「楽只堂年録」絵図には、両側に低い石垣と土塀も描かれており、近世城郭の主要な虎口では、外側に高麗門、内側に櫓門を設けている。門扉を支える両側の鏡柱の上に冠木を渡し、前後に腕木を出して切妻屋根を架け、鏡柱の背後にそれぞれ控柱を建て、本屋根より小振りな切妻屋根を載せる特徴的な構造。~下記案内板より抜粋転載~

高さ約6m、幅約5m

平成19年(2007)復元

反対側

舞鶴城公園(甲府市丸の内)


県指定史跡 甲府城跡

「舞鶴城公園案内図」

【甲府城の歴史】

甲府城は、天正10年(1582)の武田家の滅亡後、豊臣秀吉政権下で建築が始められ、豊臣秀勝、加藤光泰を経て、慶長5年(1600)頃に浅野長政(五奉行)により完成したと考えられている。発掘調査では金箔瓦や浅野家の家紋瓦などが発見されている。関ヶ原の戦い後は徳川義直(家康の九男)、忠長(2代将軍秀忠の三男)、綱重(3代将軍家光の三男)、綱豊(後の6代将軍家宣)ら徳川家一門が城主となり城番・城代制がしかれた。宝永元年(1704)以降には、柳沢吉保・吉里親子が城主となり、この時期に甲府城下町も大きく発展した。柳沢氏が大和郡山(奈良県)へ移封された後は甲府勤番制となり、ふたたび幕府の直轄地となった。このように豊臣政権下では重臣浅野長政・幸長親子らが甲斐国の支配を任され、また江戸時代の大半が徳川家直轄領であったことからも、ここ山梨が長野、静岡、関東をつなぐ要所であったことがわかる。明治維新後は廃城となり、建物が取り壊される一方、勧業試験場および葡萄酒醸造所などが設置され、また城域北部では中央線敷設による解体など甲府城は本来の姿を変えていった。一方で保護・保存の動きもあらわれ、大正6年(1917)には甲府市在住の村松甚蔵氏の尽力によって国からの払い下げを受け、県有地となった。戦後は市街地復興に併せて整備が進められ、昭和39年に都市公園「舞鶴城公園」、昭和43年には県の指定史跡「甲府城跡」となった。山梨県県土整備部・山梨県教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

上記:舞鶴城公園パンフレット

本丸北西側に位置する「内松陰門」より入城

「内松陰門(うちまつかげもん)」

屋形曲輪(やかたくるわ)とニの丸をつなぐ門。明治のはじめまでは残っていたものを絵図や発掘調査の成果をもとに、平成11年(1999)に復元。~下記案内板より抜粋転載~ 

構造は高麗門形式で、正面の大きな柱に冠木を渡し、本瓦葺の切妻屋根をのせた造り。

「本丸櫓跡(ほんまるやぐらあと)」

城内の中心に建てられた櫓で、明治初年までは残っていたことが古写真でわかっている。~下記案内板より抜粋転載~

「稲荷櫓(いなりやぐら)」

甲府城の稲荷曲輪北東隅に建つ入母屋造・本瓦葺の二重二層の櫓。城内の鬼門(北東)に位置することから艮櫓(うしとらやぐら)ともよばれ、江戸時代には武具蔵として使われていた建物。明治初年まで残っていたことが古写真でわかっており、発掘調査でも2度に渡り建物を建築した痕跡(遺構)と、土地の平安を祈るための輪宝(地鎮具)が6点見つかった。今の建物はこの遺構や残っていた絵図や史料をなどをもとに、できるだけ当時の姿に復元したもので、平成16年(2004)に復元。

上記写真:YahooニュースHPより転載

「天守台(てんしゅだい)」

城が建てられた当時の姿がそのまま残っている。天守台はお城のシンボルとしての天守閣が建てられる場所。「天守台」は展望デッキになっており、甲府市内を見渡すことができる。~下記案内板より抜粋転載~

「天守台」からの眺め

「石垣の構造」

隅角部(石垣の角)には石垣の重みが集まるため、石材の長短を交互に組み合わせて積む算木積みという手法で積まれている。~下記案内板より抜粋転載~

「鉄門(くろがねもん)」

本丸と天守台の近くにあり、天守曲輪から本丸へ通じる南側の門。2階建ての櫓門で、甲府城の防御の要だったことがうかがえる。約140年ぶりに復元整備され、平成25年(2013)に復元。

「中の門跡(なかのもんあと)」

「天守曲輪」・「本丸」へ通じる門。絵図には柵の門として描かれている。~下記案内板より抜粋転載~

「武徳殿」

甲府城址、舞鶴公園内「二の丸」に建つ「武徳殿」は、大日本武徳会山梨支部武徳殿として昭和7年(1932)9月に着工、同8年3月に竣工した建物。昭和20年(1945)8月にGHQの占領施策により大日本武徳会が解散させられた後、山梨軍政部により建物は接収された。接収解除後、県有財産となり、昭和36年6月からは山梨県警察本部に移管されている。昭和59年(1984)9月には建物の老朽化に伴う改修が実施され、同58年3月に改修工事が完了し現在に至っている。 現在は、山梨県警の武道場として使われている。

「坂下門跡(さかしたもんあと)」

「鍛冶曲輪」と「天守曲輪」・「二の丸」をつなぐ門。江戸時代の本『裏見寒話』には、城を建てる前にあった一蓮寺の門を使用していたとある。~下記案内板より抜粋転載~

鍛冶曲輪」方面へ

「恩賜林記念館(おんしりんきねんかん)」

舞鶴城公園の南西端、お堀の北側にある緑色の屋根、石を使った丸い柱の建物が「恩賜林記念館」。この建物は、恩賜林保護団体が御下賜40周年記念事業として昭和26年(1951)に企画し、同28年(1953)に完成。一見コンクリート建造物に見えるが、恩賜林内から産出した石材・木材を使用し、外壁は人造花崗ブロックからなる2階建の木造建築である。~山梨県恩賜林保護組合連合会HPより抜粋転載~

「謝恩碑」

舞鶴城公園の中央部に高くそびえる尖塔型の石柱が「謝恩碑」。これは明治44年(1911)3月11日県内にあった御料地を、明治天皇から大水害によって荒廃した県土の復興に役立てるよう、御下賜になったことを記念して建てられたもの。碑の建設は、明治神宮造営局参与工学博士伊藤忠太氏および同局技師大江新太郎氏の設計により、大正6年(1917)12月から9年まで3ヵ年、当時の金額でおおよそ10万円を費やして行われた。使用されている石材は甲州市(旧神金村荻原山)の恩賜林内から切り出されたもの。大正9年(1920)御下賜10周年を迎える年に碑身が完成した。碑の高さ約18.2mで、謝恩碑はオベリスク型と呼ばれる古代エジプトに記念碑を、碑台は高さ7.4mのバイロン形と呼ばれるこれも古代エジプトに神殿の入り口に設けられた塔状の門の形を模したものである。~山梨県恩賜林保護組合連合会HPより抜粋転載~

「鍛冶曲輪」

鍛冶曲輪には日本庭園が整備

「舞鶴の噴水」

「遊亀橋(ゆうきばし)」

舞鶴城公園の正面入口

こうふ亀屋座(甲府市丸の内)


『華やかなりし 小江戸文化を中心に甲府の歴史・文化を感じ、交流し、つないでいく 歴史文化交流施設』をコンセプトに、江戸時代の芝居小屋を感じていただける建物のデザインとし、随所に梁や柱を強調した、木の温もりが感じられる建物となっている。かつて甲府が「ほとんど江戸と異なる所がない」といわれるほど賑わっていた頃、その中心に「亀屋座」という芝居小屋があったことから、当時の賑わいが再びよみがえるよう願いを込めて、名前を「こうふ亀屋座」と付けた。~こうふ亀屋座HPより抜粋転載~

小江戸甲府花小路(甲府市丸の内)


芝居小屋を思わせる交流施設「こうふ亀屋座」に隣接した、連なる町屋が情緒ただよう、江戸の風情を味わえる小路。かつて城下町のあった辺りを現代風に再建し、春には石垣の桜を望めるため、花小路の名がついた。

山梨県議会議事堂(甲府市丸の内)


昭和3(1928)年に県議会議事堂として建てられた建物。江戸時代に甲府城があった跡地に建設され、昭和32(1957)年までは議会だけでなく公会堂としても活用された。別館とともに、平成21(2009)年に山梨県指定有形文化財に指定された。

「山梨県庁舎 別館」

上記写真:馬場設計HPより転載

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