鎌倉散策Ⅰ


鎌倉の混雑を避けて、北鎌倉から出発。「東慶寺」参拝から始め、以前からから参拝したかった「長寿寺」、「圓応寺」へ。その後「亀ヶ谷坂」の切通しを抜け、「寿福寺」へ。ここから長谷へ向かい、「甘縄神明神社」、「御霊神社」。さらに極楽寺の「成就院」「極楽寺」を参拝してきました。あじさいの見頃時期だったので、境内を彩るあじさいの花も楽しめました!! -2025.06.13-

東慶寺(鎌倉市山ノ内)


「東慶寺」

【宗派臨済宗円覚寺派山号寺号松岡山東慶総持禅寺建立弘安8年(1285)開山覚山志道尼(かくざんしどうに)開基北条貞時(ほうじょうさだとき)

鎌倉幕府の第八代執権北条時宗の夫人・覚山志道尼が開創。夫から離縁状をもらわない限り、妻からは別れることができなかった時代に、駆け込めば離縁できる女人救済の寺として、開山以来、六百年近く縁切りの寺法を引き継いできた。後醍醐天皇の皇女・用堂尼の入寺以後は、松岡御所と称され寺格の高い尼寺として名を馳せるようになり、室町時代には鎌倉尼五山第二位に列せられていた。明治時代になると寺法に終わりを告げ、釈宗演禅師(しゃくそうえんぜんじ)を中興開山とする臨済宗円覚寺派の禅寺となった。境内にはウメやハナショウブ、アジサイなど様々な花が植えられ四季を通じて楽しめる。学者や作家の墓が多いことでも有名で、鈴木大拙、西田幾多郎、岩波茂雄、和辻哲郎、安倍能成、高見順、小林秀雄らの墓がある。 ~下記案内板より抜粋転載~

文学案内板 「東慶寺」

東慶寺は、文学に大変ゆかりの深い寺で、江戸時代より紀行文や川柳に描かれ、明治以後は小説 、短歌 、俳句 など、多数の文学作品に描かれている。また、境内や墓地には文学碑や文人の墓が多いことでも知られているが、この案内板では、寺内の文学関係碑と文人などの墓を紹介。

●文学関係碑(五十音順)

朝比奈宗源漢詩碑・太田水穗歌碑・三枝博音句碑・四賀光子歌碑・釈宗演と佐佐木信綱歌碑・高見順詩碑・田島絹亮句碑・田島房子歌碑・田村俊子記念碑・徳富蘇峰漢詩碑·中村汀女句碑・野田大塊句碑・眞杉静枝墓背誌・松下隆章句碑

●文人の墓(「現代日本文学大辞典」明治書院 収録者)

安倍能成 (哲学者)・岩波茂雄(岩波書店創業)・太田水穂(歌人)・川田順(歌人)・小林勇(随筆家)・小林秀雄(文芸評論家)・三枝博音(哲学者)・ささきふさ(小説家)・佐佐木茂索(小説家)・四賀光子(歌人)・神西清(小説家·翻訳家)・鈴木大拙(仏教学者)・高見順(小説家)・田村俊子(小説家)・西田幾多郎(哲学者)・野上豊一郎(英文学者)・野上弥生子(小説家)・眞杉静枝(小説家)・和过哲郎(哲学者)

尚、詳細は鎌倉文学館(鎌倉市長谷1-5-3)にご照会ください。 鎌倉市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

鎌倉街道沿いの門

石門は明治40(1907)年に造られた

「山門」

かつては鎌倉街道沿いに総門もかまえていたが、現在はおとな二人が通れるほどの小さな山門を残すのみとなった。~東慶寺HPより転載~

「境内」

小さな山門をくぐると、谷戸と呼ばれる鎌倉独特の地形に境内が広がる。墓苑まで続く石畳を中心に本堂、書院、茶室、宝物館が配置され、初春の梅、6月の花菖蒲やイワガラミなど四季を通じて、様々な草花が咲く。なお、境内は2022年6月より撮影禁止🚫となっている。

東慶寺は2017年に参拝。 東慶寺境内詳細は、 東慶寺(Jun.2017) へ。

長寿寺(鎌倉市山ノ内)


特別拝観【4月1日~6月末/秋:未定】

季節・曜日限定拝観

【春季】 4月~5月:金土日

及び祝日 6月:水木金土日

「長寿寺」

宗派臨済宗建長寺派山号寺号宝亀山長寿寺創建南北朝時代初期開山古先印元禅師(こせんいんげんぜんし)

足利尊氏が邸跡に建武3年(1336)創建し、諸山第一位の列に定めた。尊氏没後、父の菩提を弔うため鎌倉公方足利基氏によって七堂伽藍を備えた堂宇が建立された。尊氏の法名を京都では等持院殿、関東においては長寿寺殿と称します。開山は古先印元(こせんいんげん)禅師。正面本堂に足利尊氏坐像と古先印元禅師坐像が祀られている。右奧の観音堂は奈艮の古刹忍辱山円成寺(にんにくせんえんじょうじ)の多宝塔を大正時代に移築、改造したもの。境内奧に尊氏の遺髪を埋葬したお墓がある。

~下記案内板より抜粋転載~

山門右手前にの「佛頂尊勝陀羅尼塔」

境内案内

「山門」

「本堂」

「玄関」

「本堂」内

御本尊の「釈迦如来像」、向かって左手に開山の「古先印元禅師坐像」、右手に「足利尊氏公坐像」が祀られている。

「小方丈」まで回廊を進む

「小方丈」からの眺め

「小方丈」からの庭の眺め

「書院」から「観音堂」側の庭を眺める

「本堂」の前は苔の庭

敷石の参道が「観音堂」に向かって伸びている

「観音堂」

奈良の古刹である円成寺より多宝塔を

大正時代に改造移築したもの

「聖観世音菩薩像」

「観音堂」の裏手の小径、階段を登る

「足利尊氏の墓」

足利尊氏の遺髪がおさめられている

小径を進むと竹林が広がる

散策路にはアジサイが咲く

裏庭を回って「本堂」に戻る

拝観順路の出口「裏門」

この門から外に出ると「亀ヶ谷坂」

圓應寺(鎌倉市山ノ内)


「山門」

「円応寺」(えんのうじ)

【宗派】臨済宗建長寺派【山号寺号】新居山円応寺【建立】建長2年(1250)【開基】桑田道海(智覚禅師)

人が死後に冥界で出会う、閻魔大王を中心とした「十王」をまつるお寺。閻魔大王とは、インド最古の神話「リグ・ベーダー」における「ヤマ」のこと。「ヤマ」は人間として最初に生まれ、死後は楽園の主となった。インドの「ヤマ」が仏教とともに中国に伝わり、「エンマ」となり、道教の影響により閻魔大王を中心とした「十王思想」となった。「十王思想」は室町時代に「十三仏信仰」となり、日本仏教独自の宗派を越えた葬儀・法要の元となっている。円応寺の「十王」は鎌倉時代に中国から伝わった「十王思想」を彫像したもの。本尊の「木造閻魔王座像」は運慶の作と伝わり国指定重要文化財。~下記案内板より抜粋転載~

「常香炉」

「鐘楼」


「本堂」

本堂に入ると正面に「閻魔王」

本堂に入って右側、一番最初に展示されている「智覚禅師像」から。

「智覚禅師像」

智覚禅師(道海和尚)は円応寺の初代住職。建長寺の住職は代々中国からの渡来僧が勤めていた。智覚禅師は日本人として建長寺九番目の住職を勤めている。円応寺の他、山城(京都)の十刹、広覚寺。備前(岡山県)の諸山、吉祥寺の初代住職と成り、その他、東勝寺、善興寺等の住職を勤めている。道海和尚は延慶2年(1309)正月8日に亡くなった。その後、日本の朝廷より「智覚禅師」と言う権威ある名前を頂いた。※ 鎌倉市教育委員会 偏の「鎌倉市文化財総合目録」による玉眼・寄木造り・彩色・江戸時代前期の作品。  ~下記案内板より抜粋転載~

「奪衣婆像」(だつえばぞう)

<国指定重要文化財>

奪衣婆とは亡者(もうじゃ)がニ・七日(死後十四日目)に「三途(さんず)の川」を渡った所にいる「おばあさん(そうずかのばば)」。奪衣婆は三途の川を渡った亡者の着ている物が濡ていると、その濡れた衣を剥ぎ取ります。なぜならば、三途の川は亡者が生前に犯した罪の軽重によって衣を濡らすからです。※鎌倉市教育委員会 偏の「鎌倉市文化財総合目録」による玉眼・寄木造り(座高92㎝・幅97.8㎝)大正12年(1923)の関東大震災により破損し、修理の際に胎内銘が発見された。胎内銘によると永世10年(1513)に鎌倉を中心に広範囲に活躍した仏師、法眼弘円によって造られた。~下記案内板より抜粋転載~

「三途の川」(さんずのかわ)

奈河津(なかつ)、葬頭河(そうずか)とも言う。亡者がニ・七日(十四日目)に渡る川、渡る途(みち)が三つあるので三途の川と言う。一つ目は急流の浅瀬、亡者が着ている衣を濡らさぬ様に、裾をめくって石を伝って渡る。二つ目は深い淵を泳ぐなり潜るなりして渡って行く。渡った所に脱衣婆がいます。脱衣婆は亡者の着る濡れた衣をはぎ取り、懸衣翁(けんえおう)に渡す。懸衣翁は衣を衣領樹(えりょうじゅ)の枝に懸(か)け、亡者が生前に犯した罪の軽重を計る。三つ目は橋の上を、葬儀・初七日法要を供養された亡者がお釈迦様に手を引いて頂き天上界へと向かって行く。~下記案内板より抜粋転載~

ここから十王。「閻魔王」を囲むように右側から反時計周りに配置。

仏教における十王

お釈迦様は死後の世界は説きませんでした。しかし「死」という事実は仏教の出発点でもあります。死への恐怖があるかぎり平安な人生は送れません。仏教において死への恐怖を解決し、充実した人生を送るために「十王」は存在します。十王とは、亡者が冥界において出合う十人の王のことです。亡者は冥界において七日ごとに七回、さらに百ヶ日、一周忌、三回忌の合計十回、それぞれの王の取り調べを受けます。亡者はまず、初七日の「秦広王」、二・七日の「初江王」、三・七日の「宋帝王」、四・七日の「五官王」と、生前の罪を取り調べられます。その結果により五 ・七日(三十五日)の「閻魔大王」が、六道(天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)のどこに生まれ変わるかを決定します。私達がいま人間として 存在するということは、前生の行ないを閻魔様が判断した結果です。生まれ変わり先が決定した後、六・七日の「変成王」が場所を、七・七日 (四十九日)の「泰山王」から男女の性別と寿命を決定します。初七日から四十九日までの間は「中有」または「中陰」といい、この間、亡者はこ の世からあの世へと旅を続けるとされます。遺族は、百ヶ日の「平等王」には貪(貪り)の心、一周忌の「都市王」には瞋(怒り)の心、三回忌の「五道転輪王」には痴(愚痴)の心を慎しむことを誓って法要を行う事により、亡者の追善供養となるばかりではなく、御自身の現世における功徳となる善行を積む事ができ、来世の安楽へとつながっています。お釈迦様は「因果応報説」を説いています。「善因善果、悪因悪果」と言い、「善い行いには必ず善い幸福な果報が得られ、 悪い行いには悪い不幸な結果となる。それは過去世、今世、来世と三世に渡って輪廻転生する」と説いています。~円応寺HPより転載~

「秦広王」(しんこうおう)

初七日に出会う王。殺生の罪を問いただす。人がこの世に生まれ落ちると同時に、その人の左右の肩に「倶生神」が一神ずつ宿る。一神はその人の善き事のみを、一神はその人の悪しき事のみを一生涯に渡り監視記録している。秦広王は倶生神の報告受け、亡者が生前にどのような殺生罪を犯したかを調べ、罪の軽重により「三途の川」のどこを渡るかを決定し「閻魔帳」に記録する。-中略- 遺族が初七日法要を勤めるのは、亡者が四十九日の冥土の旅で苦しみにあう事がない様、お地蔵様にお導きを願って務める。~下記案内板より抜粋転載~

「初江王」(しょこうおう)

二・七日(14日目)に出会う王。「秦広王」の裁きを受けた亡者が、「三途の河」を正しく渡ったかどうかを審議。生前の盗みについての審判を行う。※「初江王座像」は、胎内の銘文によって、1251年(建長3年)に幸有が造立したことが判明。国の重要文化財。現在、鶴岡八幡宮にある鎌倉国宝館で展示されている。

「宋帝王」(そうていおう)

三・七日(21日目)に出会う王。邪婬の罪を問いただす。「三途の河」を渡った岸の上に宋帝王の官庁がある。官庁の前には恐ろしい化け猫が群がり、大蛇が列をなして出てくる。生前「邪婬の罪」を犯した亡者は化け猫が身体を爪で切り裂く。大蛇は邪婬の罪を犯した亡者の身体に巻き付け、縛りあげ体中の骨を砕く。-中略- 宋帝王は邪悪の罪の軽重を「閻魔帳」に記録し亡者と共に次の五官王の官庁へと送る。~下記案内板より抜粋転載~

「五官王」(ごかんおう)

四・七日(28日)に出会う王。言葉や心で犯す罪を問いただす。五官王の官庁は左に、「秤量舎」右には「勘録舎」がある。亡者はまず「秤量舎」の七つの秤にかけられ、罪の軽重を計られる。人の守るべき教え「十善戒」の内、不殺生・不偸盗・不邪淫の身体による「三つの罪」は前、三王による取り調べにより閻魔帳に記録されている。-中略- 五官王は勘録舎において、亡者が十善戒の何を守り、何を犯したか秤量舎における取り調べの結果を閻魔帳に記録し、亡者と共に閻魔大王のもとに送る。~下記案内板より抜粋転載~

「閻魔大王」(えんまだいおう)

五・七日(35日目)に出会う王。亡者がどこに輪廻転生するかを決定する。「閻魔大王」は冥界(死後の世界)の最高の王。それまでの四王による取り調べを記録した「闇魔帳」の他、「倶生神」「人頭杖」「浄玻梨の鏡」により、亡者の罪をもう一度取り調べる。その結果により、亡者が「六道」の地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上のどこに輪廻転生するかを決定する。~下記案内板より抜粋転載~

閻魔大王座像」

<国重要文化財> 千二百五十年伝運慶作

閻魔大王像の作者として伝わる「運慶」は鎌倉時代に活躍した日本を代表とする仏師。運慶は奈良の都で仏像を作っていた。代表作としては東大寺南大門の仁王像を兄弟子の快慶と共に作っている。運慶は鎌倉幕府に呼ばれ多くの仏像を作っていた。しかし、その多くは鎌倉幕府滅亡の戦いにおいて燃えてしまった。寺伝によると運慶は頓死し、閻魔大王の前に引き出された。閻魔様は運慶に対し『汝は生前の慳貪心(けんどんしん・物惜しみ・欲深い心)の罪により、地獄に落ちるべきであるが、汝が我が姿を彫像し、その像を見た人々が悪行を成さず、善縁に赴くのであれば、汝を裟婆に戻してやろう』と言われ、生き返えった。運慶は生き返った事を喜び、笑いながら閻魔様を彫像したため、閻魔様のお顔もどことなく笑っているように見えることから、古来「笑い閻魔」と呼ばれている。 ~下記案内板より抜粋転載~

「変成王」(へんじょうおう)

六・七日(42日目)に出会う王。閻魔様は亡者が六道のどこに輪廻転生するかを決定する。変成王は閻魔様が決定した六道(天上・人間・修羅・畜生、・飢餓・地獄)の内容を決定する。-中略- 亡者は変成王により来世それぞれどこに輪廻転生するかを決定される。~下記案内板より抜粋転載~

「太山王」(たいざんおう)

七・七日(49日目)に出会う王。人は亡くなった日より七・七日(四十九日)の間は『中有(ちゅうう)』または『中陰』と言われる。亡者の霊魂はその間『あの世とこの世』の中間におり『冥土の旅』を勤める。生前に罪を犯す事の無い亡者、又は遺族により『葬儀と初七日の法要』を勤めてもらった亡者はお地蔵さまに手を引いて頂き『極楽浄土』への旅を勤める。生前に罪を犯し、懺悔することもなく、誰からも供養してもらえなかった亡者は、初七日から四十九のまでの間、贖罪の旅を勤める。その間に七日毎に七人の王による取り調べを受け、その結果により罰を受ける。~下記案内板より抜粋転載~

「平等王」(びょうどうおう)

百ヶ日(100日目)に出会う王。七・七日の四十九日の間は亡者の生前の「行い(おこない)」を七王が取り調べ次に亡者がどこに輪廻転生するかを決定する。遺族が故人の為に法要を行うと、その功徳の七分の一を故人の為に、七分の六を施主と共に参列者の功徳とする。法要は故人の為だけでなく供養した人の善行となる。-中略- 平等王は遺族が「貪(とん・むさぼり)」の心を起こさぬ様に説いている。~現地案内板より抜粋転載~

「都市王」(としおう)

一周忌に出会う王。都市王は「嗔恚(しんい・怒り)」の心を戒める。~下記案内板より抜粋転載~

「五道転輪王」(ごどうてんりんおう)

三回忌に出会う王(故人の死後二年目に出会う王)。愚痴・無知の心を戒める。食瞋痴(とんじんち・「貪(むさぼり)」「瞋(いかり)」「痴(おろかさ)」)の三毒が煩悩になり涅槃への障害となる。涅槃に至る六つの行(おこない)が六波羅蜜(ろくはらみつ)。1.布施(ふせ):財施(ざいせ・経済的な施与)法施(ほっせ・精神的な施与)無畏施(むいせ・悲しむ人に寄り添う施与)の事。2.持戒(じかい):社会的な法律と仏教の説く十善戒を守る事。3.忍辱(にんにく):耐え忍ぶ事。攻撃を受けても相手に憐みの心を持つ事。4.精進(しょうじん):仏の知恵を成就するまで全力で努力する事。5.禅定(ぜんじょう):座禅をして精神統一する事。6.知恵(ちえ):「色即是空、空即是色」ゆえに「空無我」と知る事。六波羅蜜を実践することにより煩悩から解放され、涅槃(無苦安穏の理想の世界)に至ることができるのです。~下記案内板より抜粋転載~

「地蔵菩薩」

鎌倉二十四地蔵

第八番詫言(わびごと)地蔵尊

閻魔大王は生前に罪を犯し、誰からも供養されず、懺悔することの無い亡者がいくら言い訳をしても許さず、地獄に落とす。しかし詫言地蔵尊にあらかじめ「お導き」をお願いしておくと、お地蔵様が本人に代わって閻魔大王に「詫言」を言って預ける。閻魔大王もお地蔵様の「詫言」は聞き入れてくださる。尚「地蔵本願経」によるとお地蔵様は女性であると説かれている。※鎌倉市教育委員会 偏の「鎌倉市文化財総合目録」によると「室町時代も早い頃の作品であろう」と記載されている。「地蔵菩薩半跏像」玉眼・寄木造り(総高155.5㎝・像高74.4㎝)~下記案内板より抜粋転載~


閻魔大王の罪と願い

仏教が説く「因果業法(いんがごうほう)の説によれば、「善因善果(ぜんいんぜんか・良い行為が原因となって幸福な良い結果が得られる)「悪因悪果(あくいんあっか・悪い行為からは必ず悪い不幸なむくいが得られる)」ことが真理であると説かれています。閻魔大王は前世の罪のむくいとして亡者を地獄に落とします。しかし、亡者に地獄の苦しみを与えた閻魔大王もそのむくいを受けなければならないのです。閻魔大王の前には昼夜三度、忽然と大鍋が現れます。すると獄卒達が大王を捕らえ、真っ赤に焼けた鉄板の上に仰向けに寝かしつけ、鉄の鉤(かぎ)で大王の口をこじ開け大鍋のドロドロに溶けた銅を口の中に流し込みます。大王の口からのどから体中焼けただれてしまいます。その苦しみは亡者が地獄で受けるどの様な苦しみよりも苦しいといわれています。閻魔大王は全ての亡者を楽園に迎へれば自らも苦しみません。しかし、罪ある亡者を許すことができないのです。閻魔大王の願いは全ての人々が罪を犯さないこと、犯した罪を懺悔することを願っています。~下記案内板より転載~

懺悔文(ざんげもん)

閻魔様は懺悔した人の罪を許します。許さなければ閻魔様自身が苦しみを受ける事になるのです。閻魔様の前に懺悔し、犯した罪を許していただきましょう。合掌し心静かに懺悔文を三回読みましょう。

我れ昔、造る所の諸(もろもろ)の悪業は、皆はてしなき貪瞋痴(とんじんち)に由る 身口意に従って生ずるところのもの、すべて我れ今みな懺悔し奉る。 ~現地説明版より抜粋転載~


横から「本堂」

鐘楼の奥に見えた枯山水の庭園に魅かれ、入ってみたら境内カフェ「龍華珈琲」でした。カフェ利用はせず、お庭を拝見。

亀ヶ谷坂(鎌倉市山ノ内)


亀ヶ谷坂(かめがやつざか)

亀ヶ谷坂は、鎌倉が天然の要害であることがよくわかる特徴的な名所、切通 の一つ。 扇ヶ谷から山ノ内に出る道のため往来が多く、商売でにぎわったことが鎌倉時代に成立した 『吾妻鏡』にも記されていることから、国史跡に指定されている。「亀ヶ谷」の名前の由来ですが、一説には、むかし、 建長寺の大覚池にいた亀が、「たまにはこの世を見てみたい」とこの坂を上ったが、坂が急なため上ることができず引き返してきたことから「亀返坂 (かめがえりざか)」といわれるようになり、いつからか「亀ヶ谷坂」 となったと伝えられている。漫画 「鎌倉ものがたり」では、数百年を生きる鎌倉の猫の総大将 「猫王」 の住処として描かれている。 猫王は、昔この坂を越えた先に実在した旅館 「香風園」 で飼われていた2匹の猫があまりにも巨大で面白かったため、2匹のうち1匹をモデルに西岸先生が生み出したそうです。~下記案内板より抜粋転載~

亀ヶ谷坂(かめがやつざか)<国指定史跡>

この道は、亀ケ谷と扇ガ谷と山ノ内とを結ぶ切通。切通とは、山を削って造られた道のことで、交通を容易にするとともに防御の拠点ともなっていた。亀ケ谷坂が造られた正確な時期はわからないが、鎌倉時代の13世紀の中頃には切通として整備されていたよう。『吾妻鏡によれば、鎌倉幕府が鎌倉市中の7箇所の商業区域の1つとして「亀谷辻」を指定しており、建長寺や円覚寺などの大寺院が建立された山ノ内と、鎌倉市中を結ぶ亀ケ谷坂は、経済的にも軍事的にも重要な場所だったことがわかる。江戸時代には「鎌倉七口」の1つに数えられるようになり、現在も生活道路として利用されている。鎌倉市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

岩船地蔵堂(鎌倉市扇ガ谷)


「岩船地蔵堂」

亀ヶ谷辻に建つこの堂は、古くから頼朝の娘大姫を供養する地蔵堂と言い伝えられてきた。木造地蔵尊の胎内の銘札にも『大日本国相陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝公御息女之守本尊也』との記述があり、続けて元禄3年に堂を再建し、あらたに本像を造立した旨が記されている。『北条九代記』にも、許婚との仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原など多くの人々が、この谷に野辺送リしたことが記されている。このたび堂を再建し、本仏石造地蔵尊を堂奥に、今なお、ほのかに紅をさす木造地蔵尊を前立像として安置し、供養いたしました。心ある方は、どうぞご供養の合掌をなさって、お通リください。海蔵寺 ~下記案内板より抜粋転載~

鎌倉散策は、まだまだ続く。  鎌倉散策Ⅱ(Jun.2025)  へ。