BS朝日「バナナマン日村が歩く! ウォーキングのひむ太郎」(2025年9月2日放送)横浜山手町~根岸旭台をウォーキング!
を参考に横浜山手を散策。アメリカ山公園からスタート、アメリカ山公園~横浜地方気象台~港の見える丘公園~岩崎博物館~横浜山手外国人墓地~山手資料館~エリスマン邸&ベーリック・ホール~カトリック山手教会~山手公園・横浜山手テニス発祥記念館~根岸森林公園など異国情緒と歴史と自然を感じながら、ゴールはユーミンの曲にも登場する「カフェ&レストラン ドルフィン」。元町・中華街駅から根岸駅まで歩いてみました💦。 -2025.09.24-
横浜市の山手地区のメインストリートが「山手本通り」で、「山下公園通り」とともに「日本の道100選」に選定。
「横浜山手外国人墓地」
2万平方メートルの敷地に、4,200柱が眠るこの横浜山手外国人墓地の歴史は、1854年(嘉永7年)、アメリカ水兵の埋葬にはじまる。開国交渉のため訪れていたペリー提督がひきいる艦隊ミシシッピ号船上の事故で、1人の水兵が死亡し、当時は小さな漁村であった横浜を一望するこの丘にその亡骸が葬られた。以来この墓地は、人種、宗教にかかわりなく、日本で活躍した多くの外国人の安息の地となり、その国籍は40数カ国に及んでいる。地震、台風そして戦禍をまぬがれ、今日では横浜は言うに及ばず日本の文明開化以来の歴史を偲ぶ重要な史蹟となっている。過去130年、墓地は非公開とされてきたが、1984年(昭和59年)に横浜外国人墓地管理委員会は、世論の関心の高まりに応え、定期公開にふみきることを決定した。公開に先だち、擁壁や園路の整備、植栽など多くの修復工事が必要となった。日本人、外国人を問わず、多くの人々の寄付や、横浜市と神奈川県からの補助金によって、この修復事業は可能となり、外国人墓地の歴史に新たな章が書き加えられた。私たち墓地管理委員会は、これらの人々のご厚意に心から感謝申し上げます。この墓地が、日本と諸外国との友情のシンボルとして、また近代日本の発展に多大な貢献をした人々を記念するものとして永遠にとどめおかれるよう、皆様のあたたかいご支援、ご協力をお願いいたします。
横浜外国人墓地管理委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「外国人墓地」
もと増徳院の境内であったこの地は、安政元年(1854)2月、日米和親条約(神奈川条約)をむすぶため来日中のアメリカ使節ペリー一行のうち、客死した海兵隊員を葬ったのに由来し、横浜開港後、居留外国人の墓地となった。生麦・井土ヶ谷両事件の被害者を始めとし、明治初期、日本文化に貢献したワーグマン、モレル、ヘールツなどが眠っている。(財)横浜観光コンベンション・ビューロー 横浜市 ~下記案内板より抜粋転載~
「山手門」(正門)
「貝殻坂」は、元町公園と外国人墓地の間を通り、元町ショッピングストリートと山手本通りを結ぶ坂道。坂名は、坂道があるのは山手貝塚の一部で、往時から貝殻が出土していたことが坂の名の由来。
「山手資料館」
<横浜市認定歴史的建造物>
□建物について:当館は明治42年(1909)旧本牧本郷町に建てられた中澤兼吉邸の洋館部分を移したもの。明治期の木造として大変貴重な建物で市内に残る唯一の「和洋併設型住宅」。~下記案内板より抜粋転載~
グリーンベンチとガス灯
明治初年、米国よりグリーンベンチが横浜共立学園に贈られ「伝道のイス」と呼んで親しまれた。ガス灯は明治5年(1872)、横浜・馬車道に初めて点火された。庭内2基は、当時のガス灯を復元したもので基盤のレンガは明治6年頃、A.ジェラールが開設した工場で製造され館内のフランス瓦と同じ系統のもの。 山手資料館 ~下記案内板より抜粋転載~
□展示内容:横浜開港と山手の歴史を中心とした花開いた文明開化期の資料各種
1階
2階
「横浜山手聖公会」は1947年(昭和22年)に、英語会衆の「横浜クライスト・チャーチ」と同じ聖堂を共有する形で生まれた日本語会衆の教会。「横浜クライスト・チャーチ」は1863年(文久3年)に現在の中華街の一角に生まれ、その後、1901年(明治34年)に現在地に移った。鹿鳴館やニコライ堂を設計したイギリス人建築家ジョサイア・コンドルによる煉瓦造りのヴィクトリア様式でした。しかし、1923年(大正12年)の関東大震災で当時の聖堂が崩壊し、1931年(昭和6年)に現在の聖堂がアメリカ人建築家のJ.H.モーガンの設計により現在に残るノルマン様式の三代目聖堂が建立された。その後も、1945年(昭和20年)5月には空襲に遭い、更に2005年(平成17年)1月には放火に遭いながらも、再度復興し、現在も建てられた当初の聖堂の姿を堅持している。横浜山手聖公会の建物は、横浜市の歴史的建造物に指定。 ~日本聖公会教区HPより抜粋転載~
大谷石を用いた重厚なデザイン、城砦を思わせる中世イギリスのノルマン建築とゴシックが混在した重厚感あふれるつくり。
「自働電話」
明治23年(1890)に日本で最初に横浜-東京間で電話交換業務が開始された。平成2年(1990)に電話創業の100年にあたり、「電話100年」を記念して明治33年(1900)に東京の京橋に初めて設置された"公衆電話ボックス"をここに再現した。(当時の公衆電話は「自働電話」と呼ばれていた)~電話ボックス内の説明版より抜粋転載~
1927年(昭和2年)に日本人建築家・朝香吉蔵氏の手によって設計・建築され、かつて外国人居留だった山手に残る数少ない西洋館のひとつ。暖炉、木製の上げ下げ窓、150年以上昔のアンティーク家具など古き良き横浜の雰囲気を今も漂わせている。1階はカフェ、2階は個室とスィーツショップ。~えの木ていHPより抜粋転載~
テラスにはハロウィンの装飾が
エリスマン邸は、生糸貿易商社シーベルヘグナー商会の横浜支配人格として活躍した、スイス生まれのフリッツ・エリスマン氏の邸宅。大正14(1925)年から15(1926)年にかけて、山手町127番地に建てられた。設計は、「近代建築の父」といわれるチェコ人の建築家アントニン・レーモンド。横浜市認定歴史的建造物。~エリスマン邸HPより抜粋転載~
「エリスマン邸」は、生糸貿易商社シーベルヘグナー商会の横浜支配人格として活躍した、スイス生まれのフリッツ・エリスマン氏の邸宅。大正14(1925)年から15(1926)年にかけて、山手町127番地に建てられた。設計は、「近代建築の父」といわれるチェコ人の建築家アントニン・レーモンド。~エリスマン邸HPより抜粋転載~
イギリス人貿易商B.R.ベリック氏の邸宅として、昭和5(1930)年に設計された。現存する戦前の山手外国人住宅の中では最大規模の建物で、設計したのはアメリカ人建築家J.H.モーガン。モーガンは、山手111番館や山手聖公会、根岸競馬場など数多くの建築物を残している。約600坪の敷地に建つべーリック・ホールは、スパニッシュスタイルを基調とし、外観は玄関の3連アーチや、クワットレフォイルと呼ばれる小窓、瓦屋根をもつ煙突など、多彩な装飾が施されている。横浜市認定歴史的建造物。~ベーリック・ホールHPより抜粋転載~
クリーム色のスタッコ仕上げの外壁、スパニッシュスタイルの華麗な外観。庭園のソテツやシュロの植栽なども見どころ。
リビングルーム(1階)
広さは47畳、天井の高さは約4m。南側・北側にはアーチ状の開口部があり、明るく華やかな空間。~ベーリック・ホールHPより抜粋転載~
花弁文様の彫刻を施した石張の暖炉
パームルーム(1階)
北面に位置しているが、三方向にアーチ状の窓があるため、明るい空間。獅子頭のある壁泉が、スパニッシュスタイルの建築の特徴を表している。~ベーリック・ホールHPより抜粋転載~
ダイニングルーム(1階)
暖炉はかつて電気ストーブが組み込まれていた。重厚な化粧梁組天井と、壁面には飾り棚を置くアルコーブが設けられている。~ベーリック・ホールHPより抜粋転載~
令息寝室(2階)
フレスコ技法の青い磨き壁、スパニッシュスタイルの建築にしばしば用いられるクワットレフォイルと呼ばれる四つ葉状の文様の小窓に注目。~ベーリック・ホールHPより抜粋転載~
客用寝室(2階)
青で統一された部屋。クワットレフォイルの小窓があり、美しい部屋。~ベーリック・ホールHPより抜粋転載~
浴室にもクワットレフォイルの小窓があり、
ブルーのタイルが美しい。
クワットレフォイルの小窓が素敵!!
主人寝室(2階)
元は主人寝室として使用。現在、書斎として復元。セント・ジョセフ・インターナショナル時代の写真なども飾られている。
~ベーリック・ホールHPより抜粋転載~
婦人寝室(2階)
ウォークインクローゼット、靴収納戸棚、東側にはサンポーチ。当時の富裕な婦人の暮らしぶりをうかがうことができる。~ベーリック・ホールHPより抜粋転載~
玄関ホール(1階)
鉄製のアイアングリルはスパニッシュスタイルの特色のひとつ。縦横桟の中に渦巻き状の幾何学模様を組み込んだ見事なグリル。市松模様のタイルに、蛇紋岩を配した床も見どころ。~ベーリック・ホールHPより抜粋転載~
上記写真:ベーリック・ホールHPより転載
開港後日本最初の聖堂
「カトリック山手教会」
聖フラシスコ・ザビエルにより日本宣教が始まった1549年の後、厳しいキリシタン弾圧が続いていたが、幕末の1859年開港時に日本再宣教のため、パリ外国宣教会のジラール神父らが来日した。1862年横浜居留地80番地(現横浜市中区山下町80)に「横浜天主堂」(聖心教会)が献堂された(国宝・長崎大浦天主堂が献堂される3年前の事)。これは、近代日本最初の教会であり、現在のカトリック山手教会の初代聖堂です。1906年、天主堂付近の市街化により移転を行い、山手町44番地(現教会番地)に双塔を持つゴチック風の威風堂々とした聖堂が献堂された。しかし、1923年の関東大震災によって崩壊、就任間もない主任司祭ルバルべ神父はその犠牲となりました。その後、約10年の建設募金活動等を経て、1933年に鐘楼をもったゴチック式鉄筋コンクリート作りの美しい現聖堂が献堂された。設計者は山手教会信徒・チェコ人のスワガー氏。この司教座教会は教区の母なる教会であるだけでなく、1988年(昭和63年)に横浜市の歴史的建造物に認定され市の文化的建物でもある。聖堂両脇祭壇壁にはジラール神父、ルバルベ神父の遺骨が安置され、教会中庭には1868年(明治元年)にフランスから贈られたマリア像が建ち、尖塔の鐘は1874年(明治7年)にフランスから贈られたもの。また、初代聖堂のあった中区山下町80番地「横浜天主堂」跡地には、再宣教100周年を記念し1962年イエス像が建てられ道行く人を招いている。~下記案内板より抜粋転載~
聖堂内
聖堂後方の2階にパイプオルガン
ステンドグラス
チェコのプラハで親しまれている聖母子像。その前に祈っている殉教者ヨハネネポムク神父は天の雲に乗っている。下の光景はモルダウ川に架かるカレル橋。背景はプラハ城と聖ヴィート大聖堂。~カトリック山手教会HPより抜粋転載~
中庭に建つ「マリア像」
1870年(明治3年)に、横浜居留外国人の手によってつくられた、国内初の洋式公園。日本で初めてテニスがプレーされたテニス発祥の地であり、園内の「テニス発祥記念館」では、テニスの歴史を知ることができる。また、ヒマラヤスギが日本で初めて植えられ、ここから全国に広まった。2004年(平成16年)3月に、国の名勝に指定、2009年(平成21年)2月には、近代化産業遺産に認定された。~山手公園HPより抜粋転載~
上記写真:山手公園HPより転載
1874年(明治7年)にイギリスで始まったローンテニスが、1876年(明治9年)に横浜に伝わり山手公園で最初のローンテニスが行なわれた。1998年(平成10年)テニスの発祥の地を記念して建てられたのが「横浜山手 テニス発祥記念館」。100年前のラケットをはじめ、日本におけるテニスの歴史を知ることができる貴重な品々が展示されている。
館内
上記写真:横浜山手 テニス発祥記念館HPより転載
初期の女性のテニスの服装
当時、女性の運動着というものはなかったので、散歩着(バッスルスタイル)でプレーした。小走りして裾を踏んで転ぶことも。20世紀になってスカートも短くなり、次第に自由な服装に変わってきた。~パンフレットより抜粋転載~
ステンドグラス
外国人女性が山手公園でテニスをしている風景を日本人絵師が浮世絵にして売り出した。1880年(明治13)頃のもので絵師は早川松山。当館では、この浮世絵をステンドグラスにして設置、展示している。~パンフレットより抜粋転載~
日本庭球發祥の地
山手公園は1870年(明治3年)横浜の居留地外国人のレクリエーションの場としてつくられた。1878年(明治11年)レディース・ローンテニス・アンド・クロッケー・クラブ、現在の横浜インターナショナルテニスクラブがこの地に5面のテニスコートを建設した。この地は日本テニス発祥の地とされている。~下記案内板より抜粋転載~
根岸台の丘に広がる1866年(慶応2年)に開設された日本初の洋式競馬場「根岸競馬場」の跡地を活用し、1977年(昭和52年)に「根岸森林公園」として整備された。約19ヘクタールの園内には、自然の丘陵を活かした広大な芝生の広場がある。横浜有数の桜の名所であり、春には小高い丘一面に400本以上の桜が咲き誇る。
根岸森林公園のあゆみ
ここは、慶応3年(1867)にわが国最初の洋式競馬が行われたところで、昭和18年(1943)6月まで続いたが、戦後は接収され、米軍のモータープール、ゴルフ場となっていた。昭和44年(1969)、主としてゴルフ場だった場所が接収解除となり、横浜市は、昭和47年(1972)から公園整備に着手、中央競馬会による競馬記念公苑とともに、昭和52年(1977)10月1日に開園した。~下記案内板より抜粋転載~
「根岸住宅地区」は、米軍人、軍属及びその家族が居住し、管理事務所、教会、宿舎、中央公共 施設(図書館、銀行、郵便局等)、診療所等が所在していたが、平成27年(2015)12月にすべての居住者が退去し、令和3年(2021)7月より防衛省が建物などの 解体撤去工事を進めている。なお、現在も「在日米海軍司令部統合消防隊第5消防署」(FIRE STATION No.5)は存続している。~横浜市「市内米軍施設の現況」から抜粋転載~
アメリカ製のボンネット型消防車
創業1969年の老舗カフェレストラン「ドルフィン」はユーミン(松任谷由実)の2枚目のアルバム『MISSLIM』(1974年)に収録された楽曲『海を見ていた午後』でこの店の情景が歌われたことから、「ユーミンの聖地」として知られる。
♬山手のドルフィンは 静かなレストラン 晴れた午後には 遠く三浦岬も見える ソーダ水の中を 貨物船がとおる 小さなアワも恋のように消えていった ♬
店内には入らず、外から眺める
海岸段丘に沿って一部森林が残っている。かながわの美林50選「根岸旧海岸線の森」森は、「根岸八幡神社」の社叢林で県の天然記念物に指定されている。段丘の階段を降りると、根岸小学校の裏手に出る。帰路の「根岸駅」へ。
坂を下りて左手に「稲荷大神」