「荏原七福神」は万葉集にも記されている荏原(えばら)の歴史と、当地の由緒ある7つの社寺に触れる機会の一つとして、平成3年(1991)に始まった。平安末期に「小山八幡神社」・「権現神社」が、鎌倉末期〜室町時代に「法蓮寺」・「上神明天祖神社(蛇窪神社)」・「東光寺」が、江戸時代初めに「養玉院如来寺」・「摩耶寺」が創立された。それぞれ格調高い七つの社寺。
東急目黒線の「西小山駅」からスタート。「小山八幡神社」(大國天)→「摩耶寺」(寿老人)→「法蓮寺」(恵比寿)→「上神明天祖神社(蛇窪神社)」(弁財天)→「養玉院如来寺」(布袋尊)→「東光寺」(毘沙門天)→「大井蔵王権現神社」(福禄寿)。ゴールは東急大井町線の「大井町駅」。 -2026.01.06-
上記マップ:荏原七福神会
創立年月は不詳。社伝に鎌倉幕府の頃、口伝では長元3年(1030年)には旧小山村本村の氏神として崇敬された伝わる。御祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと)。区内随一の高台(標高35m)にあり、近辺の地名「小山」の由来となっている。毎年9月第1週の土日に、三谷八幡神社と合同の両社祭が行われ、多くの人出で賑わう。 境内にある2本のシイの木は推定樹齢150~200年、区の指定天然記念物。神社の左手に荏原七福神の "大國天" =福徳円満で財宝をもたらし、大願成就の神をお祀りする「甲子社」がある。~しながわ観光協会HPより抜粋転載~
「鳥居」
「手水舎」
「社殿」
扁額
「神楽殿」
「稲荷社」
「甲子社」
荏原七福神の"大國天"をお祀りする
「仏母山 摩耶寺」(ぶつぼさんまやじ)は、寛文年間(1661-1673)開山の日蓮宗のお寺。山号が示すようにお釈迦様の母 摩耶夫人をお祀りしている。延宝6年(1678)に造られた「木造摩耶夫人立像」は、精巧な彫刻で極彩色に塗られた高さ36.9㎝の人形形式。通常は本堂左側の摩耶堂(天保年間1830年~1844年に建立)に安置され非公開となっている。区の文化財に指定されており、11月の文化財ウィークには本堂にて公開される。毎年5月に行われる「摩耶寺の花まつり」には多くの参拝客が訪れます。荏原七福神の "寿老人" をお祀りし、お正月には甘酒が配られる。~しながわ観光協会HPより抜粋転載~
「山門」
「本堂」
扁額
「釈迦堂」(摩耶堂)
扁額
「木造摩耶夫人立像」
<品川区指定有形文化財>
摩耶夫人とは、釈迦の生母のことである。本像は、高さ36.9cmの小型のもので、誕生仏を前に配し、飛雲の台座にのる立像である。極彩色を施し、頭に冠をいただく人形様式の極めて精巧な彫刻で、製作年代は像内の墨書から延宝6年(1678)であり、製作主は本寺の日明と推定される。本像は、高さ61cmの厨子に納められており、「摩耶堂」に安置されている。保存状態は極めて良好で、江戸時代初期の人形彫刻の古い遺例として貴重なものである。「摩耶寺」は日蓮宗の寺で仏母山と号し、建立は寛文7年(1667)、開山は立法院日丁といわれている。品川区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「庚申講」
「法蓮寺」は、文永年間(1264-74)創建の日蓮宗の寺院。鎌倉時代中期、この地の豪族 荏原氏の居館を寺としたのが始まりで、旗岡八幡神社とともに源氏ゆかりの寺として「八幡山」の山号がつけられている。江戸時代、11代将軍徳川家斉は鷹狩の際、人柄のよい住職を慕ってたびたび寺に立ち寄った。住職は将軍を相手に勝敗手加減なく相撲を取ったことで気に入られたそう。荏原七福神のひとつ、清廉で商売繁盛・福徳をもたらす "恵比須さま" が祀られており、門を入って左手に祠がある。毎年10月16日に行われる御会式は、万灯や纏太鼓を持って集まる人々で大いに賑わう。~しながわ観光協会HPより抜粋転載~
「将軍家斉と法蓮寺住職の角力伝承」
ここ「法蓮寺」には、徳川十一代将軍家斉と当時の住職日詮上人(にっせんしょうにん)が角力(すもう)を取ったという伝承がある。家斉は品川か目黒筋への鷹狩の途中、中延八幡宮(今の旗岡八幡神社)に立ち寄られたという。そのとき別当寺であったここ法蓮寺の芝庭において、家斉は法蓮寺三十九世住職の日詮と角力を取ったとされ、このとき日詮上人は手加減せずに将軍を負かしたのでかえって賞されたという話。江戸幕府が編さんした歴史書『徳川実記 』の中には家斉が寛政から文政年間(江戸時代後期)にかけて幾度か品川周辺で鷹狩を行ったと書かれている。 品川区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「本堂」
本堂屋根瓦葺き替え工事中
「恵比寿祠」
「蛇窪神社」(天祖神社)は、古くは蛇窪と呼ばれた地に鎌倉末期に創建されたと伝わる古社。元亨2年(1322)、この辺り一帯が大干ばつに見舞われた際、龍神社に祈願したところ大雨が降りました。これに感謝して、神社を勧請したのが始まりと伝わっている。また、かつてこの地に住んでいた白蛇が地元の人の夢枕に現れたことから、社殿横には「弁天社」の祠がある。白蛇様と龍神様をお祀りしていることから、巳が辰(身が立つ)=立身出世のご神徳があるといわれている。「弁天社」と「弁天池」は昭和29年(1954)に造られたもので、荏原七福神の "弁財天" に定められ、蛇窪の守護神として親しまれている。~しながわ観光協会HPより抜粋転載~
新檜の「大鳥居」
「手水舎」
「社殿」
「社殿」の右横の小さな鳥居をくぐって奥に進む
「撫で白蛇」
「蛇窪龍神社」
令和3年(2021)4月1日、御鎮座七百年を記念し、元宮として「蛇窪龍神社」を建立。「蛇窪龍神社」は、蛇窪神社創建前の神社で、千年以上の歴史があると伝えられ、蛇窪の守護神と称えられている。七夕は、蛇窪龍神社の水まつりの日。鎌倉時代に龍神様が、旱魃で苦しむこの地に雨を降らせ、大飢饉を救ったことで、龍神様と水恩に感謝する日としている。7匹の白蛇や全長8mの白龍は、昭和50年(1975)2月5日、真鍋勝氏の手作りにより奉納されたもので、神様の使いである白蛇が8匹目で白龍になるという言い伝えを表している。~蛇窪神社HPより抜粋転載~
「白蛇辨財天社」
鎌倉時代、天祖神社の社殿の左横(現在の消防団詰所付近)に清水が湧き出る洗い場があり、そこに白蛇が住んでいた。時移り、いつのまにか洗い場がなくなり、やむなく白蛇は現在の戸越公園の池に移り住むようになった。 あるとき、土地の旧家森谷友吉氏の夢枕に白蛇が現れ「一日も早くもとの住みかに帰してほしい」と懇願。森谷氏はこの話を宮司に伝えて、白蛇をもとに戻すよう願い出た。宮司は「辨財天社」【琵琶を奏でる姿から音楽や芸能の才能を伸ばし、弁知(知恵)の神、安芸の宮島厳島神社の御分霊である辨財天を祀る】を建立することに決め、現在の駐車場に池を掘り、池の中央に小島を設け、その中の石窟に石祠を造って白蛇を祠ることにした。古老の話によれば白蛇を迎える日の夜、いよいよお迎えの祝詞を奉上しようとしたとき、それまでの輝くばかりの星空が一天にわかにかき曇り、雷鳴とともに大風が立ち起こり、そのさまは身のすくむ思いだったということ。~蛇窪神社HPより抜粋転載~
「夢巳橋」と「白蛇辨財天社」
「法密稲荷社」
元亨2年(1322)に武蔵の国が深刻な大飢饉が訪れた際、厳正寺第二世法密上人は、雨乞いの断食祈願をした。そして豊作を祈るため、京都伏見稲荷大社の御分霊をお祀りされたと伝わる。江戸後期の新編武蔵風土記稿に末社稲荷社の名が記されている。昭和47年(1972)に、神殿・上屋・燈籠などを、寄進により建て替えられた。そして稲荷社の由緒を後世に伝えるため、「法密稲荷社」に改名いたすことになった。~蛇窪神社HPより抜粋転載~
天台宗寺院の「養玉院如来寺」(ようぎょくいんにょらいじ)は、下谷(台東区)の「養玉院」と、高輪(港区)の「如来寺」が大正12年(1923)に合併してできた、二つの寺院の歴史を受け継いだ寺院。「養玉院」と「如来寺」は、どちらも寛永時代に創建された。「養玉院」は、対馬藩宗家の菩提寺として、「如来寺」は、各地を行脚し多くの仏像を残した木食但唱創建の寺院としてそれぞれ著名。また、「如来寺」には、伊那(長野県)で彫られた "五智如来像" が安置され、芝高輪の大仏(おおぼとけ)として知られていた。現在は大井の大仏(おおぼとけ)として親しまれている。当寺は、荏原七福神の "布袋尊" となっている。
「山門」
平成元年(1989)に落慶
「龍神観音」
救いを求める相手によって様々な姿に変えて、大慈悲と智慧で人々の苦しみを取り除き、さらに幸運をもたらすといいう観音様。古来より、観音菩薩が「富貴吉祥」のシンボルである龍神に乗り、人々を救いに来るお姿の事を龍神観音を呼び、愛情・財産・出世の運を呼び込み開運に導いてくれるといわれている。~養玉院如来寺HPより抜粋転載~
「鐘楼」
「参道」
「布袋尊」
布袋(ほてい)は、唐末の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な仏僧。水墨画の好画題とされ、大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれる。日本では七福神の一柱として信仰されている。本来の名は釈契此(しゃくかいし)であるが、常に袋を背負っていたことから布袋という俗称がつけられた。~養玉院如来寺HPより抜粋転載~
「明王堂」
平成10年(1998)新築
「本堂」
寛永五年(1628)頃建立。養玉院の本堂であったが、大正12年下谷坂本から移築したものである。もと瓦葺であったが、現在は銅板葺で、昭和六十二年度再度葺替えられた。~養玉院如来寺HPより抜粋転載~
「座聖観音」
『正観音』ともいい、六観音の一尊でもある。観音菩薩(観世音菩薩、観自在菩薩)像には、さまざまな形態のものがあるが、このうち、多面多臂などの超人間的な姿ではない、1面2臂の像を指して聖観音と称している。正観音と書くこともある。大慈の観音として、六観音の役割では地獄道を化益するという。もともとは「正法妙如来(しょうほうみょうにょらい)」という仏であったが、衆生の救済のため人間界に近い菩薩の身となった。~養玉院如来寺HPより抜粋転載~
「如来堂」(瑞應殿)
宝暦10年(1760)建立。当初寛永年間(1624−44)、如来寺の本堂として建立されたが、現在のお堂は宝暦10年の再建。明治末の移転に際して現場に縮小された。『江戸名所図絵』巻一には、桁行七間梁行5間の重曹のお堂として描かれている。~養玉院如来寺HPより抜粋転載~
扁額:瑞應殿
「仁王像 金剛力士」
金剛力士は、仏教の護法善神(守護神)である天部の一つ。サンスクリットでは Vajradhara(ヴァジュラダラ)と言い、「金剛杵(こんごうしょ、仏敵を退散させる武器)を持つもの」を意味する。開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。一般には仁王(におう、二王)の名で親しまれている。~養玉院如来寺HPより抜粋転載~
「如来堂」(瑞應殿)入口
お堂の正面に五体の如来像が横一列に安置
「木造五智如来坐像」
寛永12年(1635)入仏如来寺創立と同時に、本尊として木喰但唱が造立したものだが、薬師如来を除いてのち火災で焼失し、他の四体は延享3年(1746)頃の再興である。「おおぼとけ」の通称は、五智如来像に由来する。もっとも大きい中尊大日如来で像高が3.21メートル。(品川区有形文化財彫刻七号)~養玉院如来寺HPより抜粋転載~
「木造五智如来坐像(五体)」
五智如来堂(瑞應殿)内に、向かって右から薬師如来、宝生(勝)如来、大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来の五体が妥置されている。いずれも像高3mにも及び、「大井の大仏」(おおいのおおぼとけ)と呼ばれている。五像は、木食但唱が弟子と共に信濃国で造立し、寛永13年(1636)年、江戸芝高輪に「如来寺」を建てて妥置した。「如来寺」は、明治三十年代に、大井村(現在地)に移り、大正15年(1926)「養玉院」と合併したが、五智如来は、如来寺伝来のものである。薬師如来以外は、火災で諸堂と伴に焼失し、宝暦年間(1751-1764)に再建されたが、壮観を姿は江戸庶民の信仰と結びつき、由緒ある如来像は貴重である。品川区教育委員会 ~現地案内板より抜粋転載~
右端に東方世界の「薬師如来」
南方世界の「宝正(勝)如来」
中央の「大日如来」
西方世界の「阿弥陀如来」
左端に北方世界の「釈迦如来」
「久遠山不動院 東光寺」は、戦国時代の天文13年(1534)に創建された天台宗のお寺。ご本尊は阿弥陀如来。現在の本堂は文化10年(1813)の建造で、梵鐘も同年、浅草田町の上総屋喜兵衛らが寄進したもの。参道の中程に、東司(とうす)と呼ばれるお堂がある。東司は寺院のトイレのこと。お堂の中央には不浄除けの神様「鳥瑟沙摩大明」が安置されており、その回りにトイレが並んでいる。中央の「おまたぎ」という便器をまたいでお参りすると下の病にならない、下のお世話にならないといわれている。荏原七福神の "毘沙門天" をお祀りしている。~しながわ観光協会HPより抜粋転載~
「山門」
「本堂」
"毘沙門天"
権現台の鎮守として、大井権現台の地名の由来となった神社。移転を重ね、現在は周辺をビルに囲まれた立会道路沿いに建っている。江戸時代に流行った火事や疫病から大井村の人々を救った権現神社の天狗。その感謝の念が「大井蔵王権現太鼓」の発祥となって今なお残っている。例大祭は毎年4月第3土・日に行われ、通称「天狗祭り」と呼ばれている。巨大な天狗の顔が鎮座する神輿をおしろいをつけた男たちが赤やピンクの長襦袢姿で担ぐという、異色のお祭り。約30年前にまちの有志が神社の天狗伝説をもとに始め、まちの祭りとして定着した。荏原七福神の "福禄寿" を祀っている。~しながわ観光協会HPより抜粋転載~
「拝殿」
拝殿手前左手に "福禄寿" を祀る境内社
"福禄寿"
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「養玉院如来寺」から「東光寺」へ向かう途中、「伊藤博文公墓所」の標識が見えたので立ち寄ってみました。
伊藤博文(1841~1909)は、長州藩の下級武士の子として生まれ、幕末期に高杉晋作らと倒幕運動に参加、明治維新後は初代内閣総理大臣を務めた。明治42年(1909)にハルビンで暗殺され、国葬の後、大井に居館があったことからこの地に葬られた。高さ約2メートルの円墳の前に鳥居を配した神式の墓所で、隣にはやや小型の梅子夫人の墓がある。通常は非公開のため入れないが、毎年秋に開催する文化財ウィークには数日限定で公開される。~しながわ観光協会HPより抜粋転載~
「大勲位伊藤博文公墓所」
門扉の隙間から中を見る
「伊藤博文墓」
上記写真:品川区HPより転載
石だたみに囲まれた円墳。高さ195.0、円直径210.0cm。正面に、「従一位大勲位公爵伊藤博文墓」、背面に、「明治42年10月26日薨」と刻まれている。~品川区HPより抜粋転載~
上記写真:しながわ観光協会HPより転載