境内を早咲き桜とミモザが彩る「蔵前神社」へ。ピンクの早咲き桜とイエローのミモザの競演は美しい。この景色を撮影する人たちで賑わっていました。併せて「鳥越神社」を参拝し、蔵前散策。足を伸ばして「蔵前橋」を渡って両国散策も楽しんできました。-2025.03.13-
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「藏前神社由緒沿革」
御由緒:当社は、徳川第五代将軍綱吉公が元禄6年(1693)8月5日、山城国 (京都)男山の石清水八幡宮を当地に勧請したのが始まり。 以来、江戸城鬼門除の守護神ならびに徳川将軍家祈願所の一社として篤く尊崇せられ、御朱印社領二百石を寄進せられた。文政年間の『御府内備考続編』ならびに『寺社書上』に次ぎのように記されている。~略~ すなわち、創建39年後に類焼し、浅草三嶋町に遷されていたが、その12年後の延享元年4月15日、元地である蔵前(八幡町)に還幸した。当時は神仏習合思想に基づき、全国の主要な神社には付属して別当寺が建立されていた。 そして、当社石清水八幡宮の別当寺としては、雄徳山大護院(新義真言宗)が営まれ、江戸の「切絵図」にも見られる。正式な社号は『石清水八幡宮』、一般には『蔵前八幡』または『東石清水宮』と唱えられ、庶民の崇敬者がはなはだ多く関東地方における名社の一つに数えられた。また、天保12年(1841)12月には、日本橋の「成田不動」(成田山御旅宿)が、幕府の方針に基づく寺社御奉行松平伊賀守忠優の達を受けて、当社境内に遷された。江戸時代も幕末の安政2年(1855)10月2日、江戸を襲った所謂「安政の大地震」では、儒学者藤田東湖を含む一万余人もの犠牲者を見てしまったが、幕府は安政4年7月、当社境内に高さ一丈五尺の「宝塔」一基(大施餓鬼塔)を建立し、その10月には開眼供養を行った。明治に入ると、その3月に「神仏分離令」が布告され、別当寺である雄徳山大護院は廃寺となった。そして、成田不動は、明治2年深川に遷され、大施餓鬼塔も、同3年練馬の東高野山に移された。明治6年8月、郷社に列格し、同11年11月、社号をそれまでの「石清水八幡宮」から、「石清水神社」と改称、さらに同19年4月、再び『石清水八幡宮』と改称した。其の後、 大正12年9月の関東大震災および昭和20年3月の戦災により社殿を焼失、 昭和22年9月、隣接の稲荷神社と相殿・北野天満宮とを合併合祀し、同26年3月、社号を『藏前神社』と改称、平成7年10月、創建当初から境内神社として鎮座の「鹽竈神社」(陸前国宮城郡鎮座鹽竈神社遥拝殿)を合祀して現在に至っている。また、 当社は相撲との深い関係がある。江戸時代のことだが、当社境内で勧進大相撲が開催された。その回数は宝暦7年(1757)10月を始めとして、安永・天明・寛政・享和・文化・文政と約70年の間に23回にも及び、 その三大拠点の一つでした。とくに、天明年間には、大関谷風や関脇小野川が、寛政年間には、大関雷電などの名力士も当社境內を舞台に活躍していた。当社で開催された本場所では幾多の名勝負が見られたが、なかでも、天明2年(1792)二月場所7日目、安永7年(1778)以来、実に六十三連勝の谷風が新進小野川に「渡し込み」で敗れた一番は江戸中大騷ぎとなった。現在の『縦番付』は宝暦7年10月、当社で開催された本場所から始められたもの。そして、当社で開催された宝暦11年(1761)十月場所より従来の勧進相撲が『勧進大相撲』となり、当場所以来の『全勝負付け』も現存している。このように当社の境內は相撲熱で大いに賑わったものであり、明治時代には花相撲が行われたりもしていた。かゝる史実に基づいて、財団法人大日本相撲協会 (現・財団法人日本相撲協会)より現存の社号標や石玉垣が奉納されている。藏前神社社務所 ~下記案内板より抜粋転載~
境内は、明治維新当時約1,800坪あったが、明治4年の〔社寺領上地令〕により約1,000坪を失い、また、大正12年の関東大震災後の区画整理で境内は道路に割譲を余儀なくされて寸断・分断。現在では、賃貸地を含めても、社有地は僅か612坪程。
鳥居と河津桜・寒緋桜(カンヒザクラ)
黄色いミモザの花と河津桜と寒緋桜
「拝殿」
上記写真:蔵前散策ガイドHPより転載
狛犬
台座とも昭和30年3月、青木鍵造・冨美ご夫妻により奉納建立されたが、台座の損傷が甚だしく、これを解体して、台座のみ花崗岩を以て新たに造り、平成22年11月竣工。
浮世絵師 歌川國安錦絵
文政七年之春
御藏前八幡宮二於而 奉納力持
この錦絵は、文政7年(1824年)の春に、御藏前八幡宮(現・蔵前神社、旧・石清水八幡宮)で行われた「力持」の技芸の奉納を描いたもので、作者は初代歌川豊國門下の三羽烏と言われた歌川國安(1794~1832年)。素人の力持は文化後期より流行し、この錦絵が描かれた頃には絶頂期を迎えたように素人の力持を称える文化があった。上の絵の「大関金藏」は、当時有名な素人の力持で、神田明神下の酒屋・内田屋の金藏と思われる。これらの錦絵は、奉納力持の記念として制作されたものだが、絵のなかに当時の日本酒の銘柄が入った酒材が描かれていることから、これら三枚の錦絵は、そのまま宣伝用のポスターとして使用されたのではないかとも言われている。また、この奉納力持が開催された御藏前八幡宮は、勧進大相撲の発祥の地であり、天保4年(1833年)に本所回向院が定場所となるまでは、回向院・深川八幡と共に、勧進大相撲が行われた三大拠点の一つでした。この場所では幾多の名勝負が繰り広げられたが、なかでも天明2年二月場所では六十三連勝中の谷風梶之助が小野川喜三郎に敗れて江戸中が大騒ぎとなりました。この錦絵は隅田川遊歩道・テラス(厩橋~蔵前橋の間)にも掲示されている。~下記案内板より抜粋転載~
古典落語 ゆかりの神社
元犬:藏前の八幡さまの境内で満願叶って人間になった眞白い犬が奉公先で巻き起こす珍騒動は………
阿武松:江戸時代勧進大相撲発祥の地 藏前の八幡さまで名横綱に出世した相撲取りの人情噺 ~下記案内板より抜粋転載~
「元犬像」
東京芸術大学北郷悟副学長(当時)制作
「福徳稲荷神社」
「朱の鳥居」
「鳥越神社」
当神社は、白雉2年(651)の創建。日本武尊、天児屋根命、徳川家康を合祀している。社伝によると、日本武尊が、東国平定の道すがら、当時白鳥村といったこの地に滞在したが、その威徳を偲び、村民が白鳥明神として奉祀したことを起源とする。後、永承年間(1046-52)奥州の安部貞任らの乱(前九年の役)鎮定のため、この地を通った源頼義・義家父子は、名も知らぬ鳥が越えるのを見て、浅瀬を知り、大川(隅田川)を渡ったということから鳥越大明神と名づけた。以後、神社名には鳥越の名を用いるようになり、この辺りは鳥越の里と呼ばれるようになった。天児屋根命は、武蔵の国司になった藤原氏がその祖神として祀ったものとされる。また、徳川家康を祀っていた松平神社(現、蔵前4丁目16番付近)は、関東大震災で焼失したため大正14年に当社に合祀された。例大祭は、毎年6月9日前後の日曜。千貫神輿といわれる大神輿の渡御する「鳥越の夜祭」は盛大に賑い、また正月8日に正月の片付け物を燃やす行事「とんど焼き」も有名である。台東区教育委員会~下記案内板より転載~
蔵前橋通り沿いの「鳥居」と「白鳥橋」
「社号碑」文部大臣 鳩山一郎書
「手水舎」
「拝殿」
賽銭箱には社紋の七曜紋
扁額
「本殿」
狛犬
「神楽殿」
「神輿庫」
例大祭は「鳥越祭」と称され、特に宮神輿である千貫神輿が知られ、都内随一の重さと大きさを誇る。普段はここに保管。
「福寿社」
【祭神:倉稲魂命】お稲荷さんと一般に言われ、福徳開運十種の徳をそなえ、農工商、衣食住の守護神として信仰の厚い神様。
【祭神:大黒天神・恵比寿神】七福神のうちの二神で福徳開運、延寿、医療、智恵、善心を司どる神様。
【祭神:菅原道真公(菅公)】文章博士、学問の神様として広く信仰があり、天神様と尊称されている。九州大宰府天満宮の飛梅のお話は、あまりにも有名。~下記案内板より抜粋転載~
「志志伎神社」
御祭神:豊玉姫命
御由緒:当社は、その本社対馬國下懸郡久田村にあり、往昔より安産を守る神として崇められる。御祭神豊玉姫命は、海神の鸕鷀(うがや)の翼を用い草として葺けるに未だ葺き合えざるに安産し給うに依りて、御子鸕鷀葺不合尊(みこうがやふきあえずのみこと)と申奉る。此の故事により対馬國人本社を安産の神として崇め奉るに依りて、藩主宗対馬守、寛永年間にその邸内社を現在の台東1丁目2番辺りに勧請し、屋敷の守護神となし、安産の神として諸人に参拝せしめられたり。産婦社域内の御石を頂き安産を祈り、お礼に御石を納め箒を納める風習あり。平成13年(2001)、鳥越神社御鎮座1350年を奉祝し、其の社を境内末社として鎮め祀る。~下記案内板より抜粋転載~
「祖霊舎」
鳥越明神通りに面した鳥居
「浅草御蔵跡碑」
台東区蔵前二丁目一番
浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から年貢米や買い上げ米などを収納、保管した倉庫である。大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵といわれ、特に重要なものであった。浅草御蔵は、また浅草御米蔵ともいい、ここの米は、主として旗本、御家人の給米用に供され、勘定奉行の支配下に置かれた。元和6年(1620)浅草鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川西岸の奥州街道沿い、現在の柳橋二丁目、蔵前一・二丁目にかけての地域を埋め立てて造営した。このため、それ以前に江戸にあった北の丸、代官町、矢の蔵などの米蔵は、享保(1716~36)頃までに浅草御蔵に吸収された。江戸中期から幕末まで、浅草御蔵の前側を「御蔵前」といい、蔵米を取り扱う米問屋や札差の店が立ち並んでいた。現在も使われている「蔵前」という町名が生まれたのは、昭和9年のことである。碑は、昭和31年6月1日、浅草南部商工観光協会が建立したものである。台東区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
すみだ川「蔵前橋」