杉並区史跡散策Ⅴ ② -蚕糸の森公園・眞盛寺・福相寺-


杉並区史跡散策も5回目。今回も、"高円寺駅"からスタート。「桃園川緑道」を通り「馬橋稲荷神社」を参拝。高円寺ルックから「高円寺の寺町」へ。次に青梅街道沿いの「蚕糸の森公園」を通り抜け「眞盛寺」、「福相寺」、さまざまな有形文化財のある「妙法寺」、「堀ノ内熊野神社」を参拝。そして、「立正佼成会の大聖堂」の建物外観を観賞し、「神田川・善福寺川合流点」、「東京メトロ 中野車両基地」を見ながら"中野駅"まで歩きました💦。盛りだくさんの景観スポット、古い歴史を持つお寺・神社を巡る充実した散策となりました。-2026.02.12-

すぎなみ景観ある区マップ 和田・堀ノ内編

上記マップ:杉並区パンフレットより転載

妙法寺旧参道入口燈籠(杉並区和田)


「妙法寺旧参道入口燈龍」

<有形民俗文化財(信仰)>

基台から宝珠まで総高5.65mの青銅製の大燈龍で、妙法寺の旧参道入口の標識として信者の寄進として造立された。妙法寺は江戸時代から堀ノ内の「厄除けのお祖師様」として人々の信仰を集め、その賑わいは浅草の観音様に匹敵したともいわれている。明治22(1889)に甲武鉄道(現中央線)中野駅が開業すると、青梅街道の鍋屋横丁からの道に替わって、中野駅からの道が新たな参道(桜新道)となった。しかし道筋がわかりにくく参詣人がまごつくため、明治36(1903)年にまず木製の常夜が立てられ、その後、明治43(1910)年に至って信者の中の花柳界の人々が中心となって木製の常夜燈にかえて、青銅の燈龍を造立した。明治時代のこの参道は環状七号線の完成により分断され、往時の面影をすっかり失ってしまったのは惜しまれる。「大かな燈龍」と称される本燈龍は、妙法寺の信仰の広さ、あるいは殷賑さを示すとともに、参道口の変遷や花柳界の人々の信仰・経済力を証する有力な資料である。~杉並区HPより抜粋転載~

蚕糸の森公園(杉並区和田)


杉並区立「蚕糸(さんし)の森公園」は、農林水産省蚕糸試験場が1980(昭和55)年に茨城県つくば市に移転した後、その跡地につくられた。レンガ造りの正門や、現在は公園管理事務所として使われている旧守衛所など、所々に往時の姿が残されている。区立杉並第十小学校と公園が敷地を共用しており、災害時の避難場所となる防災公園の役割も担っている。園内には「つどいの広場」「いこいの広場」「遊びの広場」などがある。~すぎなみ学倶楽部HPより抜粋転載~

蚕糸科学技術発祥の地

眞盛寺(杉並区梅里)


当寺は、天羅山養善院(てんらざんようぜんいん)眞盛寺と称し、室町時代の念仏行者である真盛上人を宗祖とした天台真盛宗の東京別院であり、本山は滋賀県大津市坂本の西教寺。本尊は木造阿弥陀三尊立像。「江戸本所真盛寺之記」によれば、伊賀国(現・三重県)出身の真観上人によって寛永8(1631)に湯島天神前樹木谷(現・文京区)に開創された。その後、寺域が御用地となって天和3(1683)に谷中清水町(現・台東区)、更に東叡山の境内拡張のため元禄元(1688)に本所小梅寺町(現・墨田区)へと移る。のち大正11(1922)には、水害や工場地帯となった本所の煤煙を避けて現在地に移転した。俗に三井寺とも称された当寺は、延宝元(1673)に三井高利が江戸日本橋に越後屋を創業して以来の菩提寺。本所から移築した本堂(安永5(1776))のほか、元三大師堂(文政3(1820))、中玄関書院(慶応元(1865))は、いずれも区内では数少ない江戸時代の建物。また客殿・庫裏は明治天皇の行幸を仰ぐため明治26(1893)に上棟した細川侯爵邸を譲り受け、小石川区高田老松町(現・文京区)から移築したもの。これらの建造物のうち、書院・客殿・庫裏は杉並区有形文化財に指定されている。境内右手の「新鏡ヶ池」は旧高円寺村の旧名小沢の地名の由来となった古池で、中島に弁才天を祀っている。門前の木遣塚は、元禄年間(1688~1703)の江戸城普請の時に神田の喜六がうたい始めたと伝わる木遣節を後世に伝えるために建てられたもので、鳶職和泉屋金太郎の流れをくむ有志の江戸消防記念会九区粋聲会によってうたい継がれている。なお当寺には、紙本著色(しほんちゃくしょく)真観上人画像、紙本著色四季耕作図屏風(ともに杉並区指定有形文化財)をはじめ、数多くの文化財が所蔵されている。杉並区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「山門」

「本堂」

安永5年(1776)に建立され、本所から移築された江戸時代の貴重な建物。

扁額:「天羅山」

「真盛寺客殿・書院及び庫裏」

<有形文化財(建造物)>

客殿及び庫裏は明治26年旧細川侯爵邸として、当時の代表的宮廷建築家木子清敬(きごきよよし)により建設され、大正14年にその主要部分をこの地に移築したもの。宮殿は玄関棟と奥殿棟の二棟からなり、共に伝統的な書院造で、内部の杉戸には細川家の御抱絵師杉谷雪穂と近藤撫仙の手になる花鳥・山水図が描かれている。客殿・庫裏は明治中期における上流階級住宅の遺構として、建築史、住宅史並びに障壁画史の上において、また書院は江戸末期の江戸市中寺院の庫裏遺構として貴重。杉並区教育委員会 ~現地案内板より抜粋転載~

「客殿」

「庫裏」

「鐘楼」

「鯉塚」 奥に「新鏡ヶ池」

境内右手には「新鏡ヶ池」があり、古くから中島に弁天を祀り、放生池として知られている。池は旧高円寺村字中小沢の地名の由来ともなったとされる。

「弁天」を祀る

茶室「暁雲庵」

「手水舎」

「石仏」


「元三大師堂」(がんざんだいしどう)

文政3年(1820)に建立され、本所から移築された。

「墓所入口」

扁額:「幽篁ケ池」

「幽篁ケ池」

福相寺(杉並区堀ノ内)


福相寺(ふくそうじ)

当寺は、正住山と号する日蓮宗の寺院で、本尊は十界諸尊(じっかいしょそん)と木造日蓮上人坐像。「江戸紀聞」「改選江戸志」などによると、当寺は天正17年(1589)、一如院日重(身延山久遠寺20世)により下谷(現・台東区)に開創され、寛永年間(1624年~1644年)に寺地が上野寛永寺の境内地となったため、小石川白山前(現・文京区白山)に移転したとされている。当地には昭和12年(1937)に移転してきました。また、一説によると、寛永5年(1628)、正住院日協により谷中三崎(現・台東区谷中)に開創され、元禄16年(1703)、火災に遭い焼失したため、その後、小石川白山前に移転したとも伝えられている。当寺には、病気平癒に御利益があり、また、福を授けてくれるという「願満大黒天」(杉並区指定有形文化財)が安置されている。その由来は、当寺16世日元が大坂(現・大阪)に立ち寄った際、長病の某氏のために同家に安置されていた伝教大師(最澄)の作といわれる大黒天を清めお祈りしたところ、全快し、これが縁でこの像は日元に託され、当寺鎮護の善神として境内鎮守大黒堂に安置されたという。江戸後期には、その「来縁の記」を刷物にして参詣者に配ったほど庶民の信仰を集めた。遠く関西方面からも参詣者があり、その人々が奉納した石塔が今も境内に残っている。墓地には、俳人・長谷川零余子(昭和3年(1928)没)・かな女(昭和44年(1969)没)夫妻の句碑と墓や、初代杉並区長・魚井重太郎の墓がある。杉並区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

福相寺木造大黒天像及び

大黒天信仰関係等版木並びに石造物

<杉並区指定有形民俗文化財>

本大黒天像は、江戸時代には「願満大黒天」と呼ばれ、その由来記を版行して参詣者に配るほど信仰を集めた。その由来記の他、駒込(現文京区白山)慈愛の福相寺の境内を描いた多色刷りの団扇絵、護符などの版木も残っている。また、鼠の彫像は、石造物としては国内でも古例に属するものとして重要な例品である。大黒天像、版木、石造物は大黒天信仰の隆盛を示すものとして貴重であり、これらが一括して伝えられていることで、互いの意義を強調しており、これらの価値は極めて大きい。

「山門」

本堂と同様に、大正7年(1918)に白山(文京区)の地に建立され、昭和12年(1937)に現在地(杉並区)に解体・移築された。福相寺の「山門」は、小さいながらバランスのとれたものとして、多くの宮大工や棟梁が参考に見学にくる。屋根は本瓦葺である。白山時代には願満大黒天を祀る「大黒堂」が、「本堂」とは別にあったが、移転時に大黒天を本堂内部左脇に安置することとなったため、大黒天正面の延長線上に「山門」の中心線が重なるよう設置された経緯がある。したがって「山門」の正面に立つと、願満大黒天の正面に向かって手を合わせることができるようになっている。そのため、大黒天の使神たる狛鼠像も「山門」と大黒天像の間に設置されており、山門・狛鼠像・大黒天像が一直線上に並ぶ配置となっている。ただ「本堂」と「山門」との距離が短く、寺観を狭苦しいものとしているのは、移転時の土地事情(いくつかの土地を合わせて墓地・境内地としたため)によるものと伝え聞いている。~福相寺HPより抜粋転載~

「本堂」

大正7年(1918)、すなわち第一次世界大戦中に建立された、72坪もの総欅造りの本堂である。宮大工の棟梁が全国を廻って同じ太さ長さの欅の木をさがし、曲がらないように10年寝かし、製材してさらに10年寝かして、木の芯の部分を使わず柱をとり建てたと伝え聞いている。縁の下から屋根まで柱が貫き、下は敷石にただ乗っているだけという構成で組まれている。したがって腐ってしまう釘は一本も使用されていない。地震に対しては適度に揺れる柔構造となっており、筋交いはなく屋根瓦の重さで上から抑えているだけである。そのため大正12年(1923)の関東大震災でも倒れず、平成23年(2011)の東日本大震災でも瓦一枚ずれることがなかった。いにしえの日本建築の技術の蓄積の素晴らしさを感じざるを得ない。内部では、内陣から位牌堂にかけて床が漆塗りとなっており、入堂部の長い廊下は鶯張りとなっている。その他見事な欄間などすべて手作りとなっている。昭和12年(1937)に現在地(杉並区)に移転の際、解体して移築された。屋根瓦と野路板は、平成19年(2007)に全面改修を行っている。~福相寺HPより抜粋転載~

「本堂」側面

扁額:「正住山」

「満願大黒天神」と刻まれた石塔

「大玄関」

本堂・山門と同様に、大正7年(1918)に白山(文京区)の地に建立され、昭和12年(1937)に現在地(杉並区)に解体・移築された。大玄関は来賓を招き入れるための入り口であり、おもてなしの大切な場所である。屋根が直線ではなくドーム型となっており、技術的にも強度的にも、やはり日本建築の素晴らしさを感じる。大玄関を入ると松の一枚板が廊下を貫き、今では材料が入手不可能であろう大きさに驚嘆する。入ってすぐに応接間兼「受付の間」が設けられている。~福相寺HPより抜粋転載~

山門入って正面の「狛鼠像」

ネズミは古来より、神聖なもの、神の使いとして福をもたらすものと信じられてきた。日本神話では、根の国でスサノヲは広い野原の中に鏑矢を射込み、オオクニヌシにこれを取ってくるように命じる。彼が野に入ると、スサノヲは廻りに火をつけ彼を焼き殺そうとする。このとき地下の洞穴に彼を導いて救うのがネズミである。探していた鏑矢も持ってきてくれる。このことからネズミは大国主之命の神使とされ、大国主之命を祭神とする出雲大社の全国の支社を「子神社」という。「子」はネズミが立ち上がった様子を擬している。寛政年代(1790年代)に大黒堂が建立され、嘉永3年(1850)にこの鼠の石像がつくられたとされており、願主には大阪12名、京都3名、泉州堺1名、江戸18名の商人の名前が刻まれている。石灯篭には日本橋元大工町、石工金次郎の名前に刻まれている。~福相寺HPより抜粋転載~