旧東海道・藤沢宿散策Ⅰ -遊行寺-


「旧東海道・藤沢宿」を散策。当初予定していた「藤沢宿・遊行寺コース」:藤沢駅北口→01-庚申堂→02-江の島弁財天道標→03-蔵まえギャラリー→04-白山神社→05-砂山観音堂・鼻黒稲荷大明神→06-江島神社一の鳥居跡・高札場跡07-ふじさわ宿交流館→08-桔梗屋→09-旧稲元屋呉服店→10-厄神社→11-蒔田本陣跡→12-常光寺→13-関次商店→14-荘厳寺→15-永勝寺→16-伝源義経首洗井戸→17-白旗神社→18-妙善寺→19-藤沢御殿跡→20-眞浄院→21-眞徳寺→22-清浄光寺(遊行寺)→23-長生院→24-諏訪神社→25-山王神社→26-感応院→27-舟玉神社(船玉神社)→藤沢駅北口。

藤沢駅からスタートしたが、徐々に冷たい風が強くなってきたので、予定を変更。「遊行寺」と「白旗神社」を中心に散策してきました。後日、"コースを制覇!"と思っています。-2026.01.24-

旧東海「藤沢宿」とは


【藤沢宿の紹介】藤沢宿は東海道の江戸日本橋から数えて6番目の宿場。すでに戦国時代から小田原北条氏が弘治元年(1555)に藤沢大鋸町に伝馬を置くなど、交通上の要地ではあったが、慶長6年(1601)に駅制が定められるにあたって「藤沢宿」として整備され成立した。また、それ以前の慶長元年(1596)に徳川将軍家の宿泊施設である藤沢御殿が築かれていた(17世紀半ばに廃止)。宿場は境川東岸の大鋸町(鎌倉郡)と同西岸の大久保町(高座郡)・坂戸町(同)の3町で構成されており、範囲は遊行寺東側の江戸方見附から台町の東手前(小田急江ノ島線を越えたあたり)の京方(上方)見附までであった。

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【藤沢宿の特色】「東海道宿村大概帳」は、藤沢宿の名物を「大山詣で、江ノ島弁財天詣で」と記しているが、江戸時代の藤沢宿の特色の一つは多くの道が集まる場所であったこと。メインの東海道を西へ、四ツ谷から北西に分かれる大山道(大山阿夫利神社・大山不動尊へ)、南へ下る江の島道(江島神社へ)、遊行寺前で東へ向かう鎌倉道、北へ向かう八王子道(滝山街道)、北西に向かう厚木道などがあり、流通の中心地となった。当時の代表的な名所・旧跡としては、(1)江戸方口にある清浄光寺(通称は「遊行寺」)、(2)宿場から一里ほど南へ歩いたところにある江の島(江島神社)を象徴する一ノ鳥居、(3)京方口近くにある「義経首塚及び首洗い井戸」とゆかりの「白旗神社」(義経を祭神とする)の三つが挙げられ、いずれも浮世絵に描かれたり、道中記(旅行案内書)に記されたりしている。「遊行寺」については寺院への参詣とともに、同寺ゆかりの「小栗判官照手姫」の旧跡が観光のメインであった。また、宿場の西の立場(たてば。宿と宿の間の休憩地、人馬の継ぎ立て場)であった四ツ谷(大山道の分岐点(追分)でもある)や南湖(茅ヶ崎市)の松並木、左富士も藤沢宿の名所として浮世絵などに紹介されている。

~ふじさわ宿交流館HPより抜粋転載~

旧東海道◆藤沢宿

上記:ふじさわ宿交流館

藤沢駅から"遊行寺通り"

江の島弁財天道標(藤沢市藤沢)


「江の島道・江の島弁財天道標」

藤沢宿内の遊行寺橋 (旧大鋸橋)で境川を越えた左手(南側)には、かつて「江の島弁財天一ノ鳥居」があり、ここから江の島へ向かう境川沿いの道が「江の島道」。鳥居の脇には「ゑのしま道」と刻まれた江島弁財天道標があった。元禄時代(17世紀後半)に杉山検校が沿道に奉納したと伝えられるもので現在も道沿い等に十数基が残っている。~下記案内板より抜粋転載~


「藤沢橋」

東海道6番目の宿場町、

「藤沢宿」近隣の境川にかかる橋。


「遊行寺橋」の袂にも

「江の島弁財天道標」がある。

「江の島弁財天道標」

<市指定重要文化財(建造物)>

この石柱は、江の島への道筋に建てられた道標の一つ。「江の島弁財天道標」は、管を用いて鍼をさす管鍼術(かんしんじゅつ)を、江の島で考案した杉山検校(杉山和一、1610-1694)が寄進したと伝えられている。現在、市内外に十数基が確認され、市内所在のうちで十二基が藤沢市の重要文化財に指定されている。いずれも頂部のとがった角柱型で、その多くが、正面の弁財天を表す梵字の下に「ゑのしま道」、右側面に「一切衆生」、左側面に「二世安楽」と掘られている。この文言には、江の島弁財天への道をたどるすべての人の現世・来世での安寧・極楽への願いが込められている。市役所新館脇歩道橋付近移設されたが、新庁舎建設にともなう歩道橋周辺の整備により、当時の浮世絵に描かれている江の島道入口の道標を参考として、この地に移設した。~下記案内板より抜粋転載~

「東海道五十三次之内 藤沢(行書東海道)」

歌川広重

上記:藤沢市藤澤浮世絵館HPより転載

「遊行寺橋(旧大鋸橋)」・「高札場跡」

江戸からの東海道を進むと、東海道第六の宿、藤沢宿内の「遊行寺橋(旧大鋸橋)」で境川 (片瀬川 )を越えて鎌倉郡から高座郡に入る。橋を渡って、右手が大久保町。橋のたもとに「高札場」があり、公定運賃の定め、キリシタン禁制など、徳川幕府の重要法令が掲示されていた。左手(南側)には「江の島一ノ島居」が建てられていた。江の島弁財天の遙拝の鳥居で、東海道と別れて鳥居をくぐれば、「江の島道」。~下記案内板より抜粋転載~

遊行寺橋(藤沢市西富)


江戸時代に大名行列が渡ったといわれる橋で、旧東海道が境川を渡るところに架けられていた。「旧大鋸橋」。擬宝珠のついた赤い欄干のこの橋は、時宗総本山「遊行寺」の門前の橋。歌川広重の浮世絵にも描かれている。

「東海道五拾三次之内 藤澤 遊行寺」

歌川広重

上記絵:東京富士美術館HPより転載

ふじさわ宿交流館(藤沢市西富)


旧東海道藤沢宿の歴史、文化等と触れ合う場を提供するとともに、地域の人及び当地を訪れる人の交流の推進を図ることにより、市民の文化の振興に寄与し、旧東海道藤沢宿及びその周辺地域の活性化及びにぎわいの創出に資するための施設。

遊行寺(藤沢市西富)


「遊行寺」

「遊行寺」は、正式名称を「藤澤山無量光院清浄光寺」と称し、正中2年(1325)、時宗宗祖一遍上人の法燈を継承した遊行四代呑海(どんかい)上人がこの地に開創して700年の歴史を誇る。時宗総本山であり、東海道・藤沢宿発祥の地、一遍上人が広められた踊り念仏を起源とした盆踊りの根元地としても知られている。現在の「遊行寺」は、東海道随一と謳われる木造本堂をはじめとした伽藍(平成27年(2015)に10棟が国の登録有形文化財に登録)や樹齢700年と推定される大銀杏などを有する修行道場として、また市民の憩いの場として今日に至っている。~遊行寺HPより抜粋転載~

上記境内図:遊行寺HPより転載

「惣門」(総門)<登録有形文化財>

大きな黒の冠木門(かぶきもん=門柱にぬきをかけたもの)が遊行寺の「惣門」(総門)で、右に「時宗総本山」、 左に「清浄光寺」と彫り込んだ大きな木札がかかっている。今日では遊行寺の「黒門」と呼ばれている。~遊行寺HPより抜粋転載~

参道「四十八段」(いろは坂)

「総門」から続く石段は、阿弥陀如来の四十八願にたとえて、「四十八段」と呼ばれている。春には両脇の桜で花のトンネルとなり、訪れる人々の憩いを与えている。地元の皆様には、「いろは坂」の愛称で親しまれている。~遊行寺HPより抜粋転載~

「青銅製燈籠」

<市指定文化財(建造物)>

浅草・芝などの江戸講中や戸塚宿など遠近の篤志者が一体となって建立、寄進した燈籠。高さ約2.8m、石製台座を含めて3.9mの大きさで、台座に五百名弱の寄進者の名が刻まれている。銘文には天保13年(1842)8月の建立とありますが、左側燈籠に「遊行五十七世 他阿上人一念書」の銘があるので、一念上人が遊行相続した嘉永元年(1848)以降に一対である現在の形に仕上がったと考えられる。製造師は江戸神田の西村和泉守藤原政時で、八代目となる。ほかに東京都千代田区の平河天満宮鳥居などを手がけている。藤沢市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~


「山門跡」

「いろは坂」を登りつめたところが「山門跡」。明治13年に焼けるまで銅屋根の仁王門あり、「藤沢山」と書かれた東山天皇の勅額(勅額=天皇などが寺院に特に与える直筆の書で記された額)があった。現在は本堂内にある。~遊行寺HPより抜粋転載~

 紋は「折敷に三文字紋」、「隅切三(すみきりさん)」。時宗(じしゅう)の宗紋で、一遍上人が出られた伊予の河野氏の家紋から採られた。【 時宗とは 】:一遍上人を宗祖、真教上人を二祖として両祖の教えを基に、名号「南無阿弥陀仏」を拠りどころにする浄土門の一流。~遊行寺HPより抜粋転載~

「大イチョウ」<市指定天然記念物>

樹高21m、幹回り710cm

ひときわ大きなイチョウで、遊行寺境内のシンボルとなっている。境内最大の巨木は、市内で一番太い木でもある。 かつては高さが約31mあったが、昭和57年(1982)8月の台風で地上6mの辺りで幹が折れてしまった。今、樹木全体がずんぐりとした形に見えるのは、この時の折損のため。折れた樹木の中は空洞で炭が入っていたので、過去に火災に遭ったことがあるよう。雨で腐らないよう折れた部分にトタン板を張って防いだところ、樹勢が回復した。平成4年(1992)の調査で686cmだった幹回りは平成20年の計測では710cmと太くなっていた。樹齢については、指定時の調査では幹の太さから約650~700年と推定された。その後、台風で幹が折れた際に行われた折損部材の年輪測定では250年だったので、それ以上の樹齢であることは確か。ただし、イチョウの古木は根元の外周から生えた若木が育ち、元の木が枯れて中心が空洞になることがあるので、元来の樹齢は不明とせざるをえない。イチョウは中国原産で、日本への渡来は早くても12世紀以降のこと、遊行寺の創建は正中2年(1325)なので、何れにせよこれをさかのぼることはないでしょう。 雄株なのでギンナンはならないが、晩秋の黄葉はみごと。例年11月下旬から12月上旬に色づく。藤沢市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「手水舎」<登録有形文化財>

明治100年記念として昭和44年(1969)に

発起人6名によって寄進建立

「一遍上人銅像」

本堂前右手の高台に時宗の宗祖、「一遍上人銅像」がある。戦中に鉄材供出のため撤収されたが、昭和45(1970)年5月23日、林霊雲作「宗祖銅像」が宮城県仙台市阿弥陀寺から寄進建立された。また台石は川越浄国寺檀徒、さらに築山庭石も信徒から寄進された。~遊行寺HPより抜粋転載~

上記写真:遊行寺HPより転載

「本堂」<登録有形文化財>

木造銅葺、木造としては東海道随一といわれている。関東大震災で倒壊したのち、昭和10年(1935)上棟、同12年(1937)に落成した。外陣長押に後光厳天皇の勅額「清浄光寺」を掲げている。阿弥陀如来坐像を本尊として安置。

扁額:紀伊藩主徳川治宝の染筆「登霊臺」

「本堂内」

時宗寺の御本尊は「阿弥陀如来坐像」。創建以来、数度にわたる戦火、火災により堂宇を度々焼失してきたため、創建当初の御本尊は今日伝わっていない。現在、本堂に安置されている御本尊は阿弥陀如来坐像で、高さ六尺一寸(184cm)、浅草日輪寺塔頭(たっちゅう)の宝珠院が浅草寺からゆずり受けたもの。宝永5年(1708)夏、遊行48代賦国(ふこく)上人が日輪寺に滞在したとき、この仏像をみて大仏であるから、本山の本堂に安置するのがふさわしいとおっしゃられ、元文2年(1737)10月に遊行寺に移されたもの。~遊行寺HPより抜粋転載~

「藤沢山」(とうたくさん)の下に

外陣長押に後光厳天皇の勅額「清浄光寺」

「本堂」横

「清浄光寺銅鐘」

<県指定重要文化財(工芸品)>

総高167cm、口径92cm。鋳造は、銘文によると延文元年(1356)。遊行八代渡船上人の時にあたる。遊行寺開山以来、ようやく時宗が隆盛期に達した時代であった。冶工は、中世の関東地方で活躍した鋳物師の物部氏の一人、光連と考えられる。この他の光連の遺作には伊勢原市日向宝城坊の暦応3年(1340)銘梵鐘、鎌倉市東慶寺蔵の観応元年(1350)銘梵鐘がある。この銅鐘は、五段五列の乳の配列、上帯の飛雲文下帯の蓮華唐草文、撞座の蓮華文などに物部様式の特徴を持つが、竜頭部や宝珠の表現にはすでに形式化がみえる。銅鐘の銘文は、藤沢市伝来の梵鐘の中で最古のものであり、中世の時宗の姿や遊行寺を有する当時の藤沢の様子をつたえる貴重な史料である。この銅鐘は、永正10年(1513)に後北条氏によって小田原へ持ち去られ、陣鐘として使用された。さらに足柄下郡の寿昌寺に移転されたが、江戸時代初めの寛永3年(1626)、遊行寺の檀徒の手により取り戻され、再びここに設置されたものである。藤沢市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「中雀門」

<藤沢市市指定重要文化財(建造物)>

安政6年(1859)に紀伊大納言徳川治宝 (とくがわはるとみ)が寄進、建立された。清浄光寺はたびたび火災にあっているが、この中雀門は明治13年(1880)の藤沢宿大火の際にも焼失を免れた境内現存最古の建物。大正12年(1923)の関東大震災で倒壊したものを引き起こして補修し、今に至っている。向唐門造りで高さ6.4m、幅は2.7m(左右柱間内寸)。正面破風及び屋根大棟側面と鬼瓦に菊の御紋、下り棟鬼瓦に徳川家の葵紋が刻まれている。勅使門として選常は閉門しているが、現在は遊行上人が出立帰山する時や、開山忌行列等の諸行事に合わせて開門されている。藤沢市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~


「黒門」

「御番方」<登録有形文化財>

遊行寺の受付は近侍司寮と呼ばれ、信徒・団参の方々は、この「御番方」(ごばんかた)と呼ばれる入口から入る。現在の建物は関東大震災後、古材をもって再建された。建物に施されている彫刻類は、一部江戸時代の彫り物を使用したと言われている。

「放生池」(ほうじょういけ)

元禄7年(1694)五代将軍徳川綱吉の時代に「生類憐れみの令」が発布され、江戸市中の金魚・銀魚がこの遊行寺の池に放生された。現在も、毎年、春の開山忌に放生会などでこの放生池で行われている。東国花の寺100ヶ寺に選ばれているのは、この放生池そばの「ハクモクレン」。~遊行寺HPより抜粋転載~

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この池は一名放生の池とも称し、江戸幕府の記録である「徳川実紀」元禄7年(1694)10月の日記によれば、"金魚、銀魚等を放生せんと思わば清浄光寺(遊行寺)道場の池へと命され、かつ放生の際は、その員数をしるし目付へ届出づべし"と記録されている。古来より由緒あるこの池に金魚、鯉等を放生すれば、その功徳により家内の繁栄は勿論のこと長寿を保つとされている。~下記案内板より抜粋転載~

「百間廊下」「太鼓堂」

「宇賀神社」<登録有形文化財>

「宇賀神社」に祀られる宇賀弁財天は、徳川氏の祖とされる有親の守り本尊と伝わる。寛政6年(1764)焼失した際、幕府より白銀30枚が寄進され、天保年間の再興にあたっても同様の寄進があった。現在の建物は明治13年(1880)に焼失し、その後、再建されたもの。~遊行寺HPより抜粋転載~

「遊行寺の宇賀神」

遊行寺の宇賀神は、徳川家の祖先、有親公の守り本尊といわれている。有親公は、遊行十二代尊観法親王の弟子となり、名を徳阿弥と改めた。応永3年(1396)徳阿弥は、宇賀神に子孫繁栄を請い自筆の願文を添えて当山に勧請した。宇賀神は、天女の様で頭上には白玉と白蛇を刻した宝冠をのせていた。のちに、徳川幕府により神殿を奉納されたが、明治13年遊行寺が類焼にあった時に焼失し、現在の神殿はのちに再建されたもの。宇賀神には財施の意味があり、この宇賀神を供養尊信する者は、金・衣・食・住・田畑・豊穣の福を授かり、特に金福の徳を授かると伝えられている。寛政6年(1794)11月に当山が焼失した際に宇賀神も類焼し、徳川幕府より白銀参拾枚を再建費としていただいている。時宗総本山 遊行寺 ~下記案内板より抜粋転載~

「地蔵堂」

関東大震災で「地蔵堂」も倒壊したため、地蔵菩薩は応急処置を施して本堂内に安置されてきた。平成の大修理で解体修理しましたところ、胎内から「少病少悩」等の文字と「享保六年辛丑年四月廿四日」の日付が発見された。平成26年(2014)6月に修復を終え、関東大震災から約百年ぶりに再建された「地蔵堂」に安置された。~遊行寺HPより抜粋転載~

「俣野大権現」(またのおだいごんげん)

時宗総本山清浄光寺(遊行寺)は正中2年(1325)に遊行第四代呑海上人によって創建された。遊行寺は呑海上人の実兄に当る地頭俣野五郎景平公が大檀越となって広大な敷地と大殿堂を寄進され総本山としての基礎を創られたものである。景平公は貞和年中(1345-49)に没しているが後に俣野大権現として山内に祀られ今日に至っている。藤沢山~下記案内板より抜粋転載~

「明治天皇御膳水井」

明治天皇はたびたび遊行寺にお泊りになったことがあり

その時に使われた井戸

眞徳寺(藤沢市西富)


遊行寺山門を入っていろは坂右手に「眞徳寺」がある。以前は、本山役僧が住職を務めており、講中の宿泊所でもあった。遊行寺の塔頭である真光院・栖徳院・善徳院・貞松院が昭和19年に「眞徳寺」と寺号を公称した。俗称「赤門」と呼ばれる。「眞徳寺」の本堂天井には、当寺住職でもあった画家「吉川清(喜善師)」作の花鳥が描かれている。

「本堂」

眞浄院(藤沢市西富)


遊行寺山門を入って左手に「眞浄院」がある。「眞浄院」は遊行寺山内の筆頭寺院で、本山役僧が住職を務めていた。講中宿泊所でもある。創建については、遊行寺の創建された正中2年(1325)と、ほぼ同時であったと伝えられている。そのため開山は呑海上人で「遊行寺」と同じ。

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