鳩森八幡神社(渋谷区千駄ヶ谷)


「縁起」

鳩森神社は、応神天皇神功皇后の二柱の神様をお祀している。大昔、この場所の林の深くに瑞雲(めでたいことの前兆として現れる雲)がたびたび現れていた。ある日、青空から雲がおりてきたので、不思議に思った村民が林の中に入ると、突然たくさんの白い鳩が西に向かって飛び去っていった。この霊瑞(不思議でめでたい現象)から、神様の宿る小さな祠を建て、鳩森「はとのもり」と名付けた。その後、貞観2年(860)に慈覚大師(円仁)が関東を巡り教えを広めている途中でこの地に寄った際、鳩森の御神体を求める村民たちの強い願いがあった。そのため、山城国石清水八幡宮に宇佐八幡宮を遷座し給った故事にのっとり、神功皇后・応神天皇・春日明神等の御尊像を作り添えて、正八幡宮として崇敬し奉ったと伝えられている。~鳩森八幡神社HPより抜粋転載~

「大鳥居」

「手水舎」

社殿前の「狛犬」


「社殿」

弘化2年(1845)に上棟した欅造りの荘厳な社殿は、昭和20年に戦災により消失。戦後の昭和23年(1948)より復興事業が始まり、境内諸建物も含め少しずつ復興が進んだが、戦後の資材不足や財政的な問題もあり、戦前の社殿への復元は難しい状況であった。その後時が経ち、消失から約45年時が経った平成2年に御大典を記念して、戦前の姿に復元する建設工事を行うことになり、平成5年6月に竣工。現在の51.8坪の総欅造りの社殿が完成。戦前の拝殿の天井には絵が描かれていたことにならい、108点の草花や暮らしの中の道具をテーマにした天井画が描かれている。 ~鳩森八幡神社HPより抜粋転載~

「能楽殿」

能楽殿は、木造入母屋造り(一部RC造り)で舞台三方浜縁付、後座壁面老松絵図、舞台、後座、橋掛りのある舞台。昭和30年代に建造された神楽殿の老朽化が進んだため、能も行うことができる能楽殿として、平成12年(2000)に建て替えられた。毎年5月と9月に薪能が行われ、元旦の午前0時には新年を祝い、謡が奉納される。~鳩森八幡神社HPより抜粋転載~

「将棋堂」

将棋堂は当社大鳥居を背に少し進んだところの右手側にある。この将棋堂には、昭和61年(1986)に当時日本将棋連盟の会長であった大山康晴十五世名人より奉納された、高さ1m20㎝の欅製の大駒が納められている。

 当社と日本将棋連盟様((以下将棋連盟) は道路を一つ挟んだ場所にあり、古くから将棋大会を開催するなど、様々な面で当社と協力関係にありました。その関係から、大駒の奉納をしていただくことになりました。大駒を納めて設置するための六角の御堂は当社と将棋連盟で協力し建立している。御堂内の大駒は御影石の将棋盤の上に設置されており、その奥には八幡神が祀られている。将棋の技術向上を目指す人の守護神として、さらには将棋界の繁栄を祈願するシンボルとして大切に守られている。毎年1月にこの御堂の前で将棋堂祈願祭が行われ、将棋連盟の会長をはじめ、プロ棋士の方々も参列される。その時には普段閉めている御堂を開いて祭典を行います。~鳩森八幡神社HPより抜粋転載~

標柱:「将棋堂」

十五世名人 大山康晴書

「将棋堂由来記」

昭和61年(1986)1月、社団法人日本将棋連盟(当時の会長 大山康晴十五世名人)より、山形県の駒師 香月氏の製作による、高さ一米二十糎の欅製の大駒が奉納された。この縁により、同年11月将棋の技術向上を目指す人々の守護神とし、更に将棋界の繁栄を願って、日本将棋連盟と神社が協力し、この大駒を納める六角の御堂を建立した。御堂の六角は天地四方を表わし、屋根の上の飾り金物は将棋盤の足の形、つまりくちなし(梔子)の実の形をしている。くちなしは口無しに通じ、助言無用の戒めからきていると古くから言い伝えられている。室内に安置された大駒は、御影石の将棋盤の上に立ち、その奥に氏神の八幡神が祀られている。毎年年頭に、この御堂の前で祈願祭が行われる。将棋上達を祈願する人は、いつでもその夢を絵馬札に托して奉納することができる。参拝者は棋力向上の願いが叶えられ、よろず勝運に恵まれると言われている。 鳩森八幡神社 社団法人 日本将棋連盟  ~下記案内板より抜粋転載~

上記写真:鳩森八幡神社HPより転載

~都指定有形民俗文化財~

「千駄ヶ谷の富士塚」

富士塚とは富士山に行くことが難しい人達のために作られた、富士山を模した塚。江戸時代中期多くの冨士塚が作られたが、当社の富士塚もその一つで、寛政元年(1789)の築造と言われている。大正12年(1923)の関東大震災後に修復されているが、旧態をよくとどめ、都内に現存するものでは最も古く、江戸中期以降、江戸市中を中心に広く庶民の間で信仰されていた富士信仰の在り方を理解する上で貴重な遺構。この富士塚は円墳形に土を盛り上げて作られており、富士山の溶岩は頂上近くに配置されている。山腹には要所要所に丸石を配置し、土が露出している部分には、クマザサが植えられている。頂上には奥宮を安置し、山裾の向かって左側に御影石の里宮の建物がある。頂上に至る登山道は、自然石を用いて階段としている。七合目には洞窟が作られ、その中には身祿像が安置されている。塚の前面には富士塚を築造した際に、土を採掘した凹地を利用して造られた池もある。円墳状の盛り土と前方の池という形は、江戸築造の富士塚の基本様式となっている。~鳩森八幡神社HPより抜粋転載~

「富士塚の鳥居の前の狛犬」

資料が残っておらず建立の経緯などはわかっていないが、建てられたのは享保20年(1735)と台座に記されていたとのこと。この狛犬は「カッパ狛犬」と一部で呼ばれている。頭部にくぼみがあり水が溜まるようになっていることから。頭のくぼみの理由も不明だが、ある寺院で火災が起きたときにカッパが火消しを手伝いその労をねぎらうために造られたという説や、隠れキリシタンの洗礼盤だったという説など、諸説あるよう。~鳩森八幡神社HPより抜粋転載~

上記写真:鳩森八幡神社HPより転載

 「千駄ヶ谷の富士塚」

<東京都指定有形民俗文化財>

この富士塚は寛政元年(1789)の築造といわれ、円墳形に土を盛り上げ、黒ばく(富士山の熔岩)は頂上近くのみ配されている。山腹には要所要所に丸石を配置しており、土の露出している部分には熊笹が植えられている。頂上には奥宮を安置し、山裾の向って左側に木造の里宮の建物がある。頂上に至る登山道は正面に「く」の字形に設けられ、自然石を用いて階段としている。七合目には洞窟がつくられ、その中には身禄像が安置されている。塚の全面には池があるが、この池は塚築造のため土を採掘した跡を利用したもので、円墳状の盛り土、前方の池という形は江戸築造の富士塚の基本様式を示している。この富士塚は大正12年(1923)の関東大震災後に修復されているが、築造当時の旧態をよく留めており、東京都内に現存するものではもっとも古く、江戸中期以降、江戸市中を中心に広く庶民の間で信仰されていた富士信仰の在り方を理解する上で貴重な資料である。

東京都教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

末社「甲賀稲荷社」

御祭神:宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

江戸時代に甲賀組(現在の滋賀県である近江国の甲賀地方出身者が所属していた江戸幕府の組織)が崇敬していたのが甲賀稲荷社。元々、青山権田原(明治神宮外苑)の御鉄砲場付近に鎮座していたが、明治18年(1885)に青山練兵場設置のため、当社境内に遷座された。昭和20年(1945)5月の戦災で社殿を焼失し、しばらく本殿の中に八幡神宮、諏訪大神とともに祀られていた。その後、復興を望む声が高まり、昭和45年(1970)に欅造りの社殿が作られ、再び境内に遷座された。~鳩森八幡神社HPより抜粋転載~