学習院大学と目白周辺散策


目白駅から出発。学習院大学の歴史的建造物を訪ね、キャンパス内散歩。その後目白周辺を散策してきました。 -2025.05.01-

学習院大学(豊島区目白)


学習院の起源:1847年、京都御所の東側に公家の学問所が設置され、1849年に孝明天皇より「学習院」の額(=勅額)が下賜され、学習院という校名が定まった。明治に入って1877年、華族学校が神田錦町に開設され、明治天皇の勅諭により、かつて京都にあった学習院の名が継承された。現在の学習院は、この時を創立としている。華族の教育を目的とした学習院は、1884年、宮内省立の官立学校となった。1945年、学制を改正してその目的から華族の教育を削除し、1947年、より開かれた私立学校として再出発。1949年に新制学習院大学が開学。大学は1960年代に順調に発展し、1964年には法・経済・文・理の4学部となり、キャンパスも整備が進められ、1977年には学習院創立100周年、1999年には大学開学50周年を迎えた。学習院大学の5学部17学科、大学院6研究科20専攻、専門職大学院 (法科大学院)が集うのは、都心でありながら緑豊かな目白のワンキャンパス。そして2024年、学習院大学は開学75周年を迎えた。~学習院大学HPより抜粋転載~

学習院大学 CAMPUS MAP

※ 見学の方法:個人(高校生および大学受験生本人やそのご家族、ご友人等)の見学は、人数によらず事前申し込み不要で自由見学が可能。見学可能日を構内見学カレンダーで確認の上、正門もしくは西門にある守衛所に「キャンパス見学」 に来た旨を伝え、記帳。「入構証」と「大学案内等一式」をもらって見学。

「正門」

<国登録有形文化財>

明治41年(1908)の目白校地移転とともに建設されて以来、当時のままの形状を残している。4本の煉瓦造の門柱と木製の扉で構成されている。門柱の基礎と頭部は花崗岩で、柱の煉瓦はイギリス積みである。煉瓦の焼き具合は均一で、保存状態は良好である。竣工当初は頭部に照明器具が設置されていたが、現在は取り外されている。左側にある「學習院大學」の門標は、卒業生の寄贈による。揮毫は初代学長安倍能成。煉瓦造の門柱と生垣からなる正門は明治期の学校の門としては簡素であるが、開校時の空間を継承している。~豊島区HPより抜粋転載~

「西門」

目白駅を右手に少し進んだ先にある横断歩道を渡ると学習院大学の西門が目の前にある。

「西1号館」(旧中等科教場)

<国指定登録有形文化財>

昭和5年(1930)中等科教場として竣工。大学開設後は文政学部の本館となり、2階と3階の北側に研究室が置かれた。東側の正面玄関を中心として、左右シンメトリーに建てられ、東、南、北側の3方には教室、西側には2箇所の階段室と付属棟の手洗い所がある。現在は、教室棟として使用されているが、玄関ホールの木製掲示板、竪羽目板張の腰壁、階段など、外観を含めて当時の雰囲気を伝えるものも多い。平成21年(2009)、国指定登録有形文化財に登録。~下記案内板(左)より抜粋転載~

「西1号館」(旧中等科教場)建物の特徴

鉄筋コンクリート造、地下2階(竣工時は地下1階)地上3階建。 宮内省内匠寮設計。昭和5年(1930)竣工。基本設計を担当したのは、朝香宮邸( 現東京都庭園美術館)等を設計した内匠寮技師権藤要吉。ネオ・ゴシック様式の外観に加え、2・3階の正方形の窓や、階段の丸窓など、アール・デコの要素も見ることができる。英語会話教室(現214室)にはステンドグラス入りの窓や、大理石を暖炉風に模したストーブ置場が設けられた。現在、窓は改修されたが、ストーブ置場は今も残っている。~上記案内板(右)より転載~

「南1号館」(旧理科特別教場)

<国指定登録有形文化財>

昭和2年(1927)中等科・高等科の理科特別教場として竣工。昭和24年に大学理学部の開設とともに理学部研究棟となった。正面玄関・1階窓の尖塔アーチ、2・3階の縦長の窓、外壁の付け柱を備えたネオ・ゴシック様式の建物で階段手すりや窓枠など各所に意匠が凝らされている。写真は、昭和2年度の卒業式に行幸した天皇陛下。平成21年(2009)、国登録有形文化財に登録。~下記案内板(左)より転載~

「南1号館」(旧理科特別教場)建物の特徴

鉄筋コンクリート造、地上3階一部地下1階建。 宮内省内匠寮設計。昭和2年(1927)竣工。外観はネオ・ゴシック様式で、玄関ポーチのある中央棟をはさんで、左右H型に棟がある。外壁はスクラッチタイル張で、外壁の付け柱は、ゴシック様式の特徴であるバットレス(控壁:外壁に直角に取り付けられた補強のための支柱)の意匠。中央の階段には3階まで続く細長い3連のアーチ窓が並び、手すりや窓枠などにはアール・デコ調のデザインが施されている。~上記案内板(右)より転載~


「中央教室 頂部」

中央教室は、建築家前川國男設計事務所によって、昭和35年(1960)竣工した。大学のシンボル的存在として50年近く愛されたが、中央教育研究棟の建設のため、平成20年(2008)惜しまれつつ取り壊された。頂上まででの高さは25m、700名を収容できる大型階段教室で、その形状から「ピラミッド校舎」と称された。教壇を西南方向に設けた構造上、音響効果を最大限に活かすことができるよう、北東側に偏心していたことが、この頂部からもわかる。~下記案内板より転載~

「中央教室」(ピラミッド校舎)

上記写真:学習院大学HPより転載

「東別館」(旧皇族寮)

<国指定登録有形文化財>

当時全寮制だった学習院の皇族寮として、大正2年(1913)に建てられ、山階宮武彦王や秩父宮雍仁親王をはじめとする皇族たちに使用された。正面玄関には馬車を寄せる車寄せがあり、玄関庇に付けられた桜模様の飾りは、向かい合わせに建てられていた院長官舎(現在は愛知県犬山市の博物館明治村に移築)と対をなしていた。写真は馬車で当学する秩父宮雍仁親王。平成21年(2009)、国登録有形文化財に登録。~下記案内板(左)より転載~

「東別館」(旧皇族寮)建物の特徴

木造2階建て、桟瓦葺、北側が寄棟造、切妻及び寄棟造。宮内省内匠寮設計、大正2年(1913)竣工。玄関の庇が高く設けられているのは、馬車で登校した皇族に配慮してのもの。庇の正面や柱には、学習院の校章、桜の花がデザインされている。教室として改造されるにあたって、内装に手が加えられたが、間取りに大きな変化がなく、階段、廊下、手洗所などは建築当時の面影を残している。明治から大正期に建築された学校寄宿舎はあまり現存しておらず、貴重な建物である。~上記案内板(右)より転載~

「東別館」と「北別館」の間の小径

「北別館」の裏側

「北別館」(旧図書館)

<国指定登録有形文化財>

明治42年(1909)に図書館として建てられた。設計は、東京音楽学校奏楽堂(現東京藝術大学旧奏楽堂)や帝国図書館(現国際子ども図書館)と同じく久留正道による。元々は煉瓦造の書庫を持つ比翼型の建物であったが、文学部棟(北2号館)建設により、昭和53年(1978)右翼が切り離されてL字型となり、今の場所に移設された。現在は学習院アーカイブズとして使用されている。平成21年(2009)、国登録有形文化財に登録。~下記案内板(左)より転載~

「北別館」(旧図書館)建物の特徴

木造平屋建、桟瓦葺、切妻造。久留正道設計、明治42年(1909)竣工。中央部分には、採光のため天窓が設けられ、周囲の窓の一部には明治期の「ゆがみガラス」が残っている。床下通風口には、学習院の校章である桜のモチーフをかたどった金属格子がはめ込まれ、そのほか廊下の持送りや扉の蝶番などの各所にも、桜の意匠を見ることができる。竪羽目板張の腰壁、木製の建具、板天井などが、竣工当時の面影を今も伝えている。~上記案内板(右Iより転載~

床下通風口の学習院の校章である

桜のモチーフをかたどった金属格子

霞会館記念学習院ミュージアム/学習院大学史料館

(旧大学図書館)

昭和38年(1963)竣工。設計は日本のモダニズム建築の先駆者で、東京文化会館などを手がけた建築家・前川國男(1905-1986)による。昭和35年(1960)から3年におよぶ大学キャンパス計画の一環として北1号館、南2号館、本部棟(1991年解体)、中央教室(2008年解体)とともに設計された。構造は旧図書館(北別館)の比翼型を継承したものといわれる。令和6年(2024)、大学図書館の移転に改修し、令和7年(2025)霞会館記念学習院ミュージアム/学習院大学史料館としてリニューアルオープンした。~下記案内板より転載~

リニューアルオープン記念展

学習院コレクション「華族文化 美の玉手箱」

芸術と伝統文化のパトロネージュ

昭和50(1975)年、学習院大学内に開館した「学習院大学史料館」は、令和7(2025)年春、「霞会館記念学習院ミュージアム」としてリニューアルオープン。これを記念して、特別展「学習院コレクション 華族文化 美の玉手箱 ―芸術と伝統文化のパトロネージュ」を2025年3月14日(金)より開催。当館には、天皇家、皇族、華族の学び舎であった学習院ゆかりの史・資料、美術作品など約25万点が収蔵されている。本展ではそのコレクションの中から、芸術と伝統文化のパトロネージュをテーマに6つのコーナーを設け、絵画、工芸品、古文書、文学資料など約100件を展覧。開催期間:2025年3月14日(金)〜2025年5月17日(土) ~学習院大学HPより抜粋転載~ ※展示室内撮影禁止🚫。

「乃木館」(旧総寮部)

<国指定登録有形文化財>

明治41年(1908)、目白校地移転を機に6棟の寄宿舎・食堂・衛生病棟とともに、総寮部として建てられた。全寮制を導入した第10代乃木希典院長は、院長官舎ではなく、この総寮部内の一室に起居して、学生と寝食をともにした。昭和19年(1944)、総寮部取り壊しの際、乃木院長の居室部分が「乃木館」として保存され、この場所に移築された。現在は、学生の部活動に使用されている。平成21年(2009)、国登録有形文化財に登録。~下記案内板(左)より転載~

「乃木館」(旧総寮部)建物の特徴

木造平屋建で、桟瓦葺、寄棟造。久留正道設計。明治41年(1908)竣工。竣工当初の総寮部はL字型の建物で、乃木院長室、会議室、事務室、購買部、倉庫などで構成されていた。板張の床、長押と柱が配された壁、棹縁天井をしつらえた和風の内装で、現在は床のみが畳敷きに変わっている。北東部の玄関、手洗所、流しは昭和53年(1978)に増築された。現在はこの玄関が出入口として使用されている。写真は、竣工当時の会議室と乃木院長室。~上記案内板(右)より転載~

「榊壇・榊壇碑・国境採集石塊碑」

榊壇は、明治42年(1909)明治天皇の学習院行幸を記念し、翌年乃木希典院長の私費によって築造された。壇の中央には展覧榊が植えられ、周囲は当時の国境から集められた80個の石で前方後円型に築かれている。石には1から80までの番号が刻まれ、国境採集石塊碑にある石の採集地と対照できる。榊壇は大正9年(1920)東京都指定文化財に指定。榊壇碑と国境採収石塊碑は、大正5年(1916)に第11代院長大迫尚敏によって建立された。~下記案内板より転載~

乃木大将経営榊壇

<東京都指定旧跡>

乃木大将経営榊壇は、明治43年(1910)3月、陸軍大将であり学習院第十代院長でもある乃木希典自らが設計、私費を投じて建設したもの。壇は全長約7m、後円部高約1.4mの前方後円形で、147個の礫石で築かれている。このうち番号が刻まれた80個は、小樽市、八丈島、小笠原諸島や、樺太、朝鮮半島、遼東半島、台湾など当時の四境から採集したものを用いている。

後円部の頂には、明治42年(1909)、この地に学習院校舎が新築され、その落成式で明治天皇が展覧した榊が植えられている。

榊壇外の左手前には、榊壇に関する由来が記された石碑が建立されている。碑背には石碑基礎の礫石が四境から運び込まれたものの一部であることなど、石碑建立の事情が刻まれており、石碑の前には、榊壇の石番号と採集地が列記された板石がある。

この石碑や榊壇入口の2本の柱石、榊壇前の踏み石は、第十一代院長大迫尚敏が、大正5年(1916)に整備したもの。榊壇は、乃木希典の教育理念に基づいて造られたもので、訓育上重要な場所であったと考えられている。明治期の学習院の教育理念を当時のままに伝える遺跡。 東京都教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「青木義比(ぎひ)歌碑」

夏月涼 かくはかり すゝしきよはの 月かけを しはしさゝへよ にはのまつかえ (鶴山)

山家夏 世のうさの みちもはなれて やまさとの なつのゆふへは すゝしかりけり (義比)

江戸末期の旗本青木寅之助義比と、その父鶴山の歌を、一首ずつ刻んである。義比が文久2年(1862)に没した翌年に、家臣らによって、義比が好んで逍遥したこの地に建立された。背面には、歌碑建立の経緯を記した今治藩医半井梧庵の文が刻まれている。~下記案内板より抜粋転載~

「芭蕉句碑・富士見茶屋跡」

"目にかゝる 時や殊更 五月富士」"

江戸時代、眺望に勝れたこの地は富士見台と呼ばれていた。ここには、富士見茶屋(別名珍々亭)があって、多くの風流人が訪れた。初代歌川広重の連作「富士三十六景」の一つ「雑司ヶ谷不二見茶屋」は、ここからの風景を描いたものといわれている。句碑に刻まれているのは松尾芭蕉の句で、文化7年(1810)、雑司ヶ谷の俳人金子直徳によって、富士見茶屋の傍らに建てられた。~下記案内板より転載~

「富士見茶屋跡」

この場所は、江戸時代には富士見台と呼ばれ、眺望の最もすぐれた場所のひとつで、富士見茶屋があった。多くの風流人が訪れ、四季折々の風景を称賛した。~下記案内板より転載~

「芭蕉の句碑」

文化7年(1810)に、雑司ヶ谷の俳人金子直徳(俳号は宗周)が建てたもので、「目にかゝる 時や殊更 五月富士」の句が刻まれている。~下記案内板より転載~

「鳩魂碑」(きゅうこんひ)

昭和13年(1938)、学習院輔仁会伝書鳩部の卒業生有志によって建立された、亡くなった約300羽の鳩の魂を鎮めるための碑である。伝書鳩部は昭和6年(1931)に陸軍からフランス製大型移動鳩舎と鳩20羽余が贈られたことを機に、伝書鳩研究会として発足し、同11年輔仁会へ加入、同18年軍用鳩部と改称した。同20年、中等科教場(現西1号館)屋上にあった鳩舎が空襲で焼失したこともあり、終戦とともに廃部となった。写真は当時の学生が描いた鳩舎の版画。~下記案内板より転載~

「血洗いの池」

赤穂浪士の一人堀部安兵衛が、高田馬場の決闘で、叔父の仇を討った際、この池で刀を洗ったことから名付けられた-。いつの頃からか、先輩から後輩へ伝えられているこのエピソードは、大正時代の高等科生たちによって作られたもの。元々は湧水でできた池で、かつては灌漑に用いられ、水門があった。目白校地の中でも特に緑豊かな場所で、水鳥をはじめとして、多くの動物の姿を見ることができ、今も昔も学生たちにとっての憩いの場所となっている。~下記案内板より転載~

旧近衛邸のケヤキ(新宿区下落合)


旧近衛邸のケヤキ

<新宿区地域文化財第10号>

樹齢100年を超えるケヤキの大木で、近衛家屋敷の車廻しにあったと伝えられている。地元の要望により残された。

目白ヶ丘教会(新宿区下落合)


1911年、小石川バプテスト教会として誕生し、戦中に現在地へ移転し、目白ケ丘教会となった。1951年から幼稚園も開園し、新宿区下落合の地に親しまれている。礼拝堂は遠藤新のフランク.ロイド.ライト様式建造物として親しまれている。~目白ヶ丘教会HPより抜粋転載~

日立目白クラブ(新宿区下落合)


日立目白クラブ(本館及び別館)

<東京都選定歴史的建造物>

この建物は、大正末期まで近衛公爵邸のあった地に、昭和3年(1928)、宮内省が学習院旧高等科に通う男子生徒の為の寄宿舎として建築したもので、当時は「昭和寮」と呼ばれていた。昭和28年(1953)からは日立製作所の所有となり、日立目白クラブとなった。隣接する別館は、現在、教会として使用されている。本館の特徴は、白い壁と赤いスペイン瓦、縦長のアーチ窓や段々状に変化を持たせたスカイライン、その先に高く伸びた煙突である。敷地内の建物は、本館と一体でデザインされており、アーチ型の窓をもつ端正な姿で統一されている。東京都 ~下記案内板より抜粋転載~

本館玄関


※ 日立の社員でなくとも予約をすると、ここでランチ&ディナーも出来るとのこと。

おとめ山公園(新宿区下落合)


おとめ山公園は落合崖線に残された斜面緑地。江戸時代、おとめ山公園の敷地周辺は、将軍家の鷹狩や猪狩などの狩猟場であった。一帯を立ち入り禁止として「おとめ山(御留山、御禁止山)」と呼ばれ、現在の公園の名称の由来となっている。大正期に入り、相馬家が広大な庭園をもつ屋敷を造成。のちに売却され、森林の喪失を憂えた地元の人たちが「落合の秘境」を保存する運動を起こし、昭和44年(1969)にその一部が公園として開園した。その後、自然と歴史豊かなおとめ山公園を核に緑や湧水の保全拡充を図り、あわせて地域のレクリエーションの場や防災拠点を創出するため、公園の隣接地を取得し「区民ふれあいの森」として公園の拡張整備を行った。(平成26年10月拡張区域開園)園内は、湧水による流れや池、樹林地、原っぱなど様々な自然があふれており、新宿区の貴重な財産となっている。~新宿区HPより転載~

「下の池」(弁天池)

「上の池」

「林間デッキ」


新宿区「おとめ山通り」

江戸時代、おとめ山一帯は将軍家の狩猟地で一般の人の立ち入りが禁止されていたため、御留山(おとめやま)と呼ばれていた。~下記案内板より転載~

自由学園明日館(豊島区西池袋)


「自由学園明日館」

<国指定重要文化財>

自由学園は、羽仁吉一・もと子により大正10年(1921)に女学校として創立された。明日館はその自由学園誕生の校舎で、その設計は羽仁夫妻の教育思想に共鳴した世界的建築家フランク・ロイド・ライトで、彼は自らの建築思想を融合させて校舎を建築した。自由学園は生徒の増加に伴い、昭和9年(1934)に東京都東久留米市に移転し、この建物は卒業生の活動の場として使われ、羽仁夫妻が自由学園と日本の教育の明日を託して「明日館」と命名した。太平洋戦争末期の空襲で池袋周辺は壊滅的被害を受けるが、幸い明日館は被災を免れた。その後老朽化が進み、昭和40年代になると取り壊しの可能性もあったが、卒業生・建築家をはじめ多くの関係者らの保存への思いが実り、この地における保存が決定した。建築の特徴は高さを抑えて水平線を強調した屋根、窓やドアなどをはじめ多用されている幾何学的デザイン、建物の中に入ると床の高さを少しずつ変えた部屋を連続させた空間構成など、「プレイリースタイル(草原様式)」というライトの第一期黄金期の作風をよく表している。

昭和2年(1927)に道路を隔てて竣工したライトの弟子、遠藤新設計の講堂とともに、これら一連の建物がライトの作風を示す典型的な建築として重要であると評価され、平成9年5月29日に重要文化財に指定された。その後、約3年間の保存修理工事が実施され、現在は「使いながら保存する文化財」として、見学はもちろん結婚式・コンサート・展示会・公開講座など多くの人が利用し、文化財建築物として保存されている。豊島区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

目白庭園(豊島区目白)


豊島区立目白庭園は、作庭を伊藤邦衛(くにえ)がおこない、庭の中心に大きな池を配し、周囲に園路を巡らせた伝統的な池泉回遊式の日本庭園。池の周りを巡りながら、限られた空間の中に様々な自然を凝縮した風景を楽しめる。「赤鳥庵」は数寄屋建築の伝統的な建物で、茶会や句会、その他文化的な目的で利用することができ、窓からは美しい庭園の景色を眺めることができる。~区立目白庭園HPより抜粋転載~

「長屋門」