浦安を散策。浦安駅からスタート、ゴールの「郷土博物館」を目指して境川とともに発展した元町を歩く。残念ながら館内整備のため「郷土博物館」は休館でしたが、境川沿いの歴史と文化を垣間見られるポイントを巡ってきました。-2025.11.28-
「元町地域」(当代島・猫実・北栄・堀江・富士見地区)は、埋め立てによって市域が拡大する前からあった浦安の「もともとの町」。明治22年(1889)に堀江、猫実、当代島の3つの村が合併して、浦安村ができた。この3つの字を核とするエリアが「元町地域」。この地域には、釣宿や銭湯、のり屋、寿司屋が多く、貝類加工場で働く「むき手」の技は今でも顕在で、漁師のまちとして栄えた当時からの活気が残っている。東西線の開通や漁業権放棄を機にまちは大きく変ぼうしたが、「元町地域」には今でも昔ながらの漁師町の面影が残っている。~浦安市HPより抜粋転載~
上記:(一社)浦安観光コンベンション協会HPより転載
旧江戸川沿い
「東京メトロ東西線 江戸川第一橋梁」
「渡し場跡」
江戸末期から明治初期にかけて、旧江戸川対岸の堀江飛地(現江戸川区南葛西)の農地耕作のため、「堀江の渡し」が内田平次郎によってはじめられた。待合所は、堀江四丁目四六九番地地先(現境川西水門堀江側)にあった。その後、この渡しは廃止され、そのかわりにこの場所に待合所ができ、ここから対岸の東長島(現江戸川区東葛西)を往復する「浦安の渡し」が開かれた。所要時間は20分からから30分ほどかかったといわれている。町が営業権を所有していたが、明治43年(1910)から希望者を募って、入札で渡し船を請け負わせた。渡し船は、主に伝馬船を使っていた。大きさは、長さ三間(約5.4m)、幅一間半(約2.7m)くらいで、昭和初期の渡し賃は、大人ニ銭、子供一銭、自転車三銭、小車四銭であったという。(当時のアンパン一つの値段が三から五銭くらい)昭和15年(1940)の浦安橋開通により、対岸へは徒歩や自転車で渡れるようになったため、渡し船は、その役目を終えた。浦安市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「蒸気河岸」(じょうきがし)
このあたりは、かつて蒸気船「通運丸」の発着所があったところで、「蒸気河岸」と呼ばれていた。通運丸は、明治10年(1877)内国通運株式会社によって運航された大型蒸気船で、東京深川や両国などから小名木川、新川を経て、江戸川・利根川一帯を定期的に運航していた。大正8年(1919)には通運丸にかわり、東京通船株式会社<昭和3年(1928)に東京通運株式会社と改称>の定期船が、深川高橋から浦安を経由し行徳までを航行した。高橋から浦安までの所要時間は一時間から一時間半でした。その後、葛飾汽船株式会社の経営する「葛飾丸」も営業を開始。これらの定期船を地元の人は、通称「通船」と呼んでいた。浦安から東京方面への行商や通学には、この定期船が利用されていた。その後、葛飾汽船株式会社は、自動車の普及に伴い、経営が悪化してきたことから、昭和5年(1930)、東京通運株式会社に買収され、葛飾丸は就航を停止。さらに、昭和15年2月、浦安橋が開通し、昭和17年、東京市営バス(通称「青バス」)が浦安橋西詰まで開通したため、定期船の利用者は少なくなり、昭和19年に廃止された。浦安市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「船宿 吉野家」
文豪・山本周五郎氏は、青年の一時期を現在の千葉県浦安市で過ごした。その経験から生まれた名作『青べか物語』は、当時の浦安を舞台に庶民の人情、海辺の下町風景が切々と綴られている。作中度々登場する船宿「千本」は、吉野屋をモデルとしたもの。~船宿吉野家HPより抜粋転載~
境川「西水門」
地盤の低い元町地域では、境川の水位が一定以下になるよう、2つの水門(「西水門」、「東水門」)を操作。境川から見る「西水門」と東西線の陸橋は元町浦安を代表する景観として地元住民から親しまれている。
「浦安町役場跡」
ここ浦安町堀江古田四三六番の一の地は、明治28年(1895)4月5日浦安村以来大正時代を経て、昭和49年(1974)10月31日まで浦安町役場があった所。この銅板写真の役場庁舎は明治44年(1911)2月20日に完成し、今の六階建ての庁舎に移転するまで使用していた古い庁舎で、当時としては極めてモダンな建物で、瓦葺平家和洋折衷造りで浦安町の自慢の一つであった。またこの位置は豊かで清らかな江戸川の流れ込む境川に沿って、役場のほか、漁業組合、罐詰工場、貝むき場などが軒をならべ、魚貝や海苔を満載した舟の櫓耀のきしみは時代の移りと共にエンジンの響と変っていった。そしてこの七十余年の永い間、汐の香に育ぐくまれて、村政から町政へと自治の花が咲き続けてきた由緒ある所。今ここに往時を偲び碑を建て記念とする。
浦安町 ~下記案内板より抜粋転載~
神は大綿積神(おおわたづみのみこと)。創建については定かではないが、建久7年(1196年)の創建と伝えられている。その後永仁元年に津波に遭い、本殿が破損し再築、さらに元禄・享保・寛政の各年間に度重なる同様の難に遭っている。また、拝殿においては明治29年(1896)に建立。大正12年(1923)に拝殿を修繕、神輿・灯籠が奉献されており、昭和46年(1971)には現社務所と境内周囲の玉垣が建築され、今に至っている。「清瀧神社」の「御本殿」は、昭和57年(1982)に市指定の有形文化財に指定されており、特徴としてはケヤキの大木を上総国から買い求め、棟梁の肥前松五郎によるものとされており、安政2年(1855年)に造営されている。~清瀧神社HPより抜粋転載~
「手水舎」
狛犬
「拝殿」
扁額
清瀧神社本殿
<市指定有形文化財>
この本殿は、安政2年(1855)9月に建て替えられたが、建築にかかった費用は、村人達が長年にわたり、毎年少しずつ積み立てて用意したそうです。祭神は海の神様の大綿津見神。絵図師高間惣次郎が図を描き、ケヤキの大木を上総国(現千葉県中央部)から買い求め、棟梁肥前松五郎が一本の木で建築したといわれる。建築様式は、木造三間社(正面の柱間が三つあるもの)、流造り(屋根の面前を長くしたつくり)で、精巧華麗な彫刻が施されている点が大きな特色。なかでも正面の龍の彫刻および浦島太郎や竜宮城などの浮き彫りは見事で、高欄の下には海の神社にふさわしく、波間に千鳥の彫刻がある。浦安市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「石門」
「龍神社」
御祭神:豊玉彦命(とよたまひこのみこと)
「浅間神社」
御祭神:木花開耶姫(このはなさくやひめのみこと)
「富士塚」
この山は、富士山を模したもので大正11年(1922年)7月従来からあった山を清瀧神社世話人や、富士講中達が住民から墨石の寄贈を受け、改築造したもので、頂上に木花咲耶姫命を祀った石造りの浅間神社があり、登山口の灯篭一対と明神鳥居は地区有志の奉納による。毎年6月30日には神前に神楽が奉納され、富士講の人達は境川で水行をとり、体を浄めたあと、真っ白な行衣に白の帯を締め、手甲、脚絆に身を固め、菅笠をかぶり、金剛杖とりんを持って、六根清浄と唱えながら神社に参拝し、翌7月1日富士山の山開きに出発する。盛況を極めた富士登山も昭和初期には次第にさびれ、今日ではほとんど影をひそめている。
浦安市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「八坂神社」
御祭神:建速須佐之男神(たてはやすさのをのみこと)
「道祖神社」
御祭神:猿田彦神(さるたひこのみこと)
大蓮寺は天文13年(1544)に小田原から行脚してきた覚誉存栄上人によって建てられた浄土宗のお寺。当時の浦安は江戸もまだ開けていない頃で、現在の江戸川河口の小さな漁師町でした。その町のはずれ境川のお堂に、行基大僧正という名僧が彫られた勢至菩薩像(せいしぼさつぞう)が奉られていて、そのあまりの見事さに覚誉上人が惹かれ、この勢至菩薩像を守るために小田原にあった自分のお寺と同じ名前の大蓮寺を創建。
「表門」
「本堂」
池泉庭園
「大蓮寺鐘楼」
鐘楼とは、鐘つき堂のこと。この鐘楼は享保19年(1734)、芝増上寺の住職になった高僧「学誉」の遺徳を惜しんでつくられた。この鐘楼にある梵鐘(つりがね)は、毎年5月23日から7月23日までの農繁期に、農作業に従事する人のための時報(時の鐘)や12月31日の除夜の鐘として利用されてきた。鐘楼は腐朽のため、明治10年(1877)に再築され、鐘は昭和18年(1943)11月には、太平洋戦争下の金属供出運動によって、献納されてしまった。現在の梵鐘は、檀家四百余名が毎月30円ずつ積み立てて、帝室技芸員の香取秀真、正彦父子に依頼して昭和26年(1951)に再鋳されたもので、現在に至っている。浦安市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「裏門」(黒門)
「久助稲荷」
久助稲荷は、相模国小田原の大蓮寺境内に祀られている福徳稲荷の分身として、天文13年(1544)、堀江村の大蓮寺創建と同時に建られたものといわれている。大蓮寺第五代住職頓誉上人には、学誉という弟子がいた。仏門において一心に勉学に励んだ学誉は、後に、芝増上寺の第三十九代法主を務める大僧正になった。ある日のこと、学誉上人の住まいの庭先に、大蓮寺にいたころ仕えていた使用人の久助が立っていた。久助は、大蓮寺の稲荷様が荒れ果ててしまったので復興したいと、学誉上人に頼みにきた。学誉上人は、大蓮寺にいた若いころ、稲荷様に祈願したことを思い出し、久助に改築を約束。 学誉上人は、早速京都伏見稲荷へ使者を出し、正一位の神位を受けると、久助との約束を果たすという手紙を添えて、稲荷神社の建設費用を大蓮寺に送る。ところが、久助は二十数年前に亡くなっていた。学誉上人は、稲荷様の身代わりになって現れた久助の志に深く感動し、享保13年(1728)、「久助稲荷」と名前を改め社殿を新築した。毎年5月中旬には、お稲荷様のお祭りが行われている。浦安市教育委員会 ~現地案内板より抜粋転載~
「旧宇田川家住宅」
<市指定有形文化財>
旧宇田川家住宅は、残された棟札から明治2年(1869)に宇田川吉蔵が建てた家で、現存する民家で建築年代がはっきりわかるものとしては、市内最古のもの。本家の宇田川家は、扇谷上杉家を継いだ上杉定正の末孫と伝えられる家で、姓の宇田川は定正愛用の名刀「宇田丸」にちなんで名付けられたといわれている。宇田川家は江戸時代に名主の家から分家し、屋号を「藤村屋」といった。米屋、油屋、雑貨屋、呉服屋と商家として使われてきたが、大正3年(1914)、店の一部を改造し、浦安郵便局を開局。その後、昭和21年(1946)には宇田川喜作が診療所を開き、48年(1973)まで医院として使われてきた。この家は、道路に面した店舗部分と奥の住居部分から成っている。一階正面の揚戸、かぎの手の土間、二階軒の桁など、幕末から明治に至る江戸付近の町家の形をよく伝えており、商家遺構の少ない関東では、非常に貴重な建物です。旧宇田川住宅は、昭和58年(1983)、喜作氏より寄贈され、翌年7月1日より一般公開されている。浦安市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「旧大塚家住宅」
<千葉県指定有形文化財>
この住宅は、建築の構造や様式などの特徴から、江戸時代末期の建築と推定されている。大塚家は屋号を「兵左衛門」と称し、周囲からは「ショウゼムドン」と呼ばれていた。埋め立て以前は、冬季に海苔を生産し、農業も営んだ半農半漁の家でした。
建築様式は、木造平屋建寄棟造りで茅葺屋根。間取りは、中央に大きな居間があり、右手に土間、境川に近い方に寝室、左手前には小部屋、左手奥に客座敷などがある。この家の大きな特徴は、屋根裏2階を設けているところ。これは洪水などの被害に悩まされた人たちの知恵で、家財道具などの避難場所として、被害を最小限にする工夫がされている。建坪は27.5坪あり、当時の漁家と比べて規模の大きい住宅。浦安では境川に漁業や水運あるいは生活用水を依存してきた歴史がある。この境川に接して建てられ、境川との関係によって維持されてきた「旧大塚家住宅」は、歴史的、文化的に貴重な住宅。浦安市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「境川」沿いにほぼ南面して建つ
「猫実(ねこざね)の庚申塔」
<市指定有形文化財>
この庚申塔は、正徳5年(1715)1月、猫実村の庚申講の信者によって建てられた。青面金剛菩薩を刻んだ庚申塔では、市内で最も古いものです。塔の正面には、邪鬼(たたりをする神)を踏みつけておさえている青面金剛菩薩、庚申の干支にちなんで「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の三猿が刻まれている。庚申信仰は、もともと道教(中国の民間信仰から発達した宗教)の三尸(さんし)説に始まったもの。三尸説では、六十日に一度の庚申の夜に、人の体内にいる三尸の虫が抜け出し、天の神様にその人が犯してきた罪を告げるのだといわれている。これを聞いた天の神様は、その分だけその人の命を削りとり、早死にさせるので、この虫が抜け出ないよう、信者たちは夜どおし話や会食をして過ごした。ただし、この地域では、庚申の晩に祭礼を行ったというような記録は残っていない。大正時代には、毎月二十五日が祭礼日とされ、現在でもこの日に病気の回復などが祈願されている。かつては、祭礼の日には、お堂の前の道に露店が立ち並び、多くの参拝者でたいへん賑わったといわれている。今日でも、先人たちの信仰心が脈々と受け継がれ、この塔は「猫実の庚申様」として、地域の人々に大切されている。浦安市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「手水舎」
水盤を2匹の猿が担いでいる
猿像
青面金剛菩薩を刻んだ「庚申塔」
足元の「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の三猿
「地蔵堂」
「三峰神社」
「浦安大師像」
「猫実の庚申堂」
「旧医院の特徴」
フラワー通りにあり、背後は境川に面している。昭和4年(1929)建築の医院併用住宅であるが、当時の浦安では洋館風建築物第1号だったと言う。建物は、一部2階建ての洋館と平屋の和風住宅を合わせた形だが、和風住宅の方も洋館部分と同様に屋根はストレート葺きである。向かって右手の洋館部分1階の正面手前は待合室、薬局診察室からなる医院部分で、その裏手に中廊下を隔てて和室の客座敷がある。客座敷の境川に面した外観は洋館の意匠だが、庭に面した側と内部は和風の意匠を見せている。洋館部分の2階には2つの寝室がある。そのうちの南側の部屋の窓は、洋風の外観に合わせた上げ下げ窓で、全体的に造りが良く、補修工事前の時点でも、丁寧に維持されていた。
「旧医院とは」
明治20年頃(1887)浦安において西洋医学の医院第1号として、濱野鼎氏が堀江に開業し、明治40年(1907)に子の濱野太郎氏に引き継がれ、現在の場所に移転。昭和に入り、孫の濱野久雄氏が平成8年(1996)まで診療を続けられ、明治・大正・昭和・平成と100年以上、3代に渡り地域医療に貢献した。 ~現地添付の案内書から抜粋転載~
「境川」
昭和33年(1958)、準用河川として指定 昭和40年(1965)、一級河川として指定
「境川」は、江戸川の支流で、本市の中央を西から東へ流れ、東京湾に注いでいる。かつての「境川」は、長さ1.7㎞ほどの小さな川であったが、昭和40年(1965)からの海面埋立事業によって、川の長さも三倍の約4.8㎞になった。江戸時代には、人々は「境川」の両岸に密集して民家を建て、北側が猫実村、南側が堀江村として、それぞれ集落を発展させてきた。川の水は、昭和20年代ごろまでは、川底が透けて見えるほど美しかったという。人々は、長い間この川の水を飲み水や炊事洗濯などの生活用水として利用してきた。また、漁業を生業としていた人々にとって、境川は「海への玄関口」として大切な役割を果たしていた。かつては、二千艘近くの船がびっしりと係留されており、とってきた魚介類を荷揚げする光景があちらこちらで見られた。しかし、昭和46年(1971)に漁業権が全面放棄されると、それらの船は役目を終えて姿を消していった。こうして、境川の風景も次第に漁師町の面影を失っていった。浦安市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「境橋」
「おっぱらみ」
ここ境橋附近は、境川のなかで最も川幅が狭いところで、かつては「おっぱらみ」と呼ばれていた。「おっぱらみ」という地名が生まれたのは江戸時代で、隣の行徳地域が徳川幕府に保護された塩の生産地だったころのこと。塩づくりは、5月から9月にかけて行われる。しかし、入梅時期で雨量が多くなると、江戸川が増水し、淡水が境川を経て海に流れ込むため、行徳地先の海水は塩分が薄くなり、よい塩ができなくなった。そこで、行徳で塩をつくる人たちは、毎年梅雨どきには、川幅が最も狭いこのあたりを土砂や板を使ってふさいでしまうことを恒例としていた。しかし、堀江・猫実の漁師たちは、海への玄関口である境川が通れなくなってしまうので、漁にでることができず大変困っていた。ある年、漁師たちは相談して、このあたりの土砂や板を強引に取り去ってしまった。これを知った行徳の人たちが大勢おしかけて、再びふさいでしまおうとしたのだが、浦安の漁師たちは、団結してこれを追い払った。それ以来、行徳の人たちもあきらめたのか、ここがふさがれることはなくなったといわれている。この「追い払い」が「おっぱらみ」とかわり、このあたりをあらわす地名になったという。浦安市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
浦安散策はまだ続きます。つづきは、 浦安散策Ⅱ(Nov.2025) へ。