玉川上水散策の最終仕上げとして、新宿御苑(側道)に「玉川上水」の流れを偲ぶために整備された「玉川上水・内藤新宿分水散策道」を歩き、玉川上水の終着点、「四谷大木戸跡」へ行ってきました。 -2026.06.04-
上記:新宿区HPより転載
玉川上水・内藤新宿分水散策道入口
(新宿門側)
「玉川上水・内藤新宿分水散歩道」
□玉川上水の新しい分水路の誕生
新宿区では、「まちの記憶」として次世代に受け継ぐべき財産である「玉川上水」の流れを偲ぶため、環境省をはじめとした多くの関係者の協力のもと、新宿御苑内に玉川上水・内藤新宿分水散歩道を整備した。分水散歩道の延長は約540mあり、「旧新宿門」「大銀杏」「大木戸」の3区間から成り、水源には、国道20号新宿御苑トンネル内の共同溝に湧出した地下水を利用している。水路底には、粘土を使用し、自然な流れを再現した。また、既存の樹木を生かしながら林床には、武蔵野の雑木林で生育する草本類を中心に植栽している。新宿御苑の雄大な自然と四季折々の変化とあわせて散策をお楽しみください。~下記案内板より抜粋転載~ 平成21年度から23年度にかけ整備を行い、平成24年3月に完成。
上記:新宿区HPより転載
「旧新宿門区間」
玉石による石積護岸としている。設計施工に際しては、現存する分水(福生分水・熊川分水) の姿を参考にしている。
「旧門衛所」(旧新宿門衛所)
昭和2年(1927)に建てられた門衛所。当時の独特のデザイン性や、御苑の歴史的・景観的価値が評価されている建造物。
~新宿御苑HPより抜粋転載~
「旧新宿門」
「玉川上水の流れをたどる」
江戸の飲料水を確保するために、承応3年(1654)に開設された玉川上水は、多摩川の羽村堰(羽村市)から四谷大木戸(現在の四谷四丁目付近)までの43㎞の区間を、土を掘り抜いただけの開渠で造られていた。~下記案内板より抜粋転載~
上記:新宿区HPより転載
「玉川上水の生い立ちと新宿」
□玉川上水の歴史
玉川上水は、江戸の飲料水を確保するために、玉川兄弟の手により承応3(1654)年に開設された。取水口である多摩川の羽村堰(羽村市)から四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)までの約43Kmの区間は、土を掘り抜いただけの開渠で造られていた。四谷大木戸から市中へは、石や木でつくられた水道管を通じて水を供給し、淀橋浄水場の完成した明治31(1898)年頃まで、江戸、東京の人々にとって貴重な水資源でした。新宿区には、四谷大木戸に水番屋があり上水の管理を行っていた。また、四谷見付付近は、江戸城本丸、吹上御殿、市中の武家や町人の屋敷へ供給する分水の分岐点となっていた。これらの地域は上水管理の上で、大変重要な役割を持っていたことがわかる。
□新宿における玉川上水
新宿区内での上水の利用は、四谷などごく一部であった。四谷は下町と違い、水にめぐまれた地域であったことから、掘り抜きの井戸を多く使っていたためと思われる。水の確保のためにつくられた上水だが、内藤新宿界隈では、桜並木が続く江戸の名所を生み出し、多くの行楽客でにぎわった。明治になると、通船が行き交っていた時期もあった。
「玉川堤の花」3枚続
歌川広重 安政3年(1856)
上記:原書房HPより転載
「大銀杏区間・大木戸区間」
護岸は土の法面とし、植栽が繁茂しやすいよう配慮している。コンクリートは使用せず、粘土(刃金土)及び植栽土にて施工。
「玉川上水の水番屋」
□玉川上水を管理する水番屋
江戸の貴重な水資源を守るため、玉川上水は、厳重に管理されていた。上水で魚を捕ることや、水浴びをすること、洗いものをすることを禁じていた。このため、流域の村々の利用は厳しく制限され、羽村、代田村(現杉並区)、四谷大木戸には、水番屋が設置され、水質、水量や異物の監視を行っていた。四谷大木戸の水番屋は、構内の総坪数が630坪(約2082平方メートル)余りあり、流れてきたごみを止める「芥留(あくたどめ)」、満水時に渋谷川へ水を排出する「吐水門(はきみずもん)」、暗渠へ入る「水門(すいもん)」があった。「水門」では、水量を測定する「歩板(あゆみいた)」が設けられ、この板と水面までの間隔から水量の増減を調べた。
□水道碑記(すいどうのいしぶみのき)
四谷大木戸の水番屋は、現在の四谷地域センター内にあり、これを記念して、明治28(1895)年に石碑が建てられた。石碑は、高さ4.6メートルにおよび、篆額は徳川家達が書き、書は金井之恭が書いている。碑文には、漢文で玉川上水建設の理由や、工事を請け負った玉川兄妹の功績をたたえた内容が書かれている。 ~下記案内板より抜粋転載~
「玉川上水・内藤新宿分水散歩道」
玉川上水・内藤新宿分水散歩道入口
(大木戸門側)
「新宿御苑 大木戸門」
「旧門衛所」(旧大木戸門衛所)
昭和2年(1927)に建てられた門衛所。当時の独特のデザイン性や、御苑の歴史的・景観的価値が評価されている建造物。
~新宿御苑HPより抜粋転載~
「四谷区民センター」
東京都水道局の事務所と450席の区民ホールを含む新宿区施設との複合施設。地下鉄の振動から守るために9回まで持ち上げられたホールと、敷地南側の玉川上水暗渠を避けた片持ち吊り構造で構成されている。~現代建築研究所HPより抜粋転載~
「玉川上水水番所」のあった所は、現在新宿区の「四谷区民センター」になっている。各種案内板や「水道碑記」、「四谷大木戸跡碑」などが設置されている。
「玉川上水」
玉川上水は幕府が江戸市中の拡大発展と人口の増加にともなう水不足を解消するために、承応2年(1653)から翌3年(1654)にかけて開削した水路である。上水は多摩川の羽村に堰を設けて取水し、ここ内藤新宿の水番所までの43㎞は掘割で、ここより江戸市中へは地下に石樋、木樋といった水道管を埋設して給水した。また途中30余ヶ所で分水され、武蔵野台地の新田開発に利用された。工事は江戸の町人である庄右衛門、清右衛門が請負い、川越藩主松平信綱が総奉行を、関東郡代伊奈忠治が水道奉行を命ぜられ、これを監督した。玉川上水の工事は、途中幾多の困難に遭遇したが、川越藩士、安松金右衛門の協力もあり、1年5ヶ月程という、短期間で完成した。掘削りによってでた土砂は掘割の両側に堤として積み上げ、桜並木などをつくり(小金井など)、当時の江戸の人々の行楽の場所となった。新宿区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
史跡「玉川上水水番所跡」
(たまがわじょうすいみずばんしょあと)
所在地 新宿区内藤町八十七番地
玉川上水は、多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは開渠で、四谷大木戸から江戸市中へは石樋・木樋といった水道管を近く埋設して通水した。水番所には、水番人一名が置かれ、水門を調節して水量を管理したほか、ごみの除去を行い水質を保持した。当時、水番所構内には次のような高札が立っていた。
定 一、此上水道において魚を取水をあび ちり芥捨べからず 何にても物あらひ申間敷 並両側三間通に在来候並木下草 其外草刈取申間敷候事 右之通相背輩あらば可為曲事者也 元文四巳未年十二月 奉行
「水道碑記(すいどうのいしぶみのき)」
<東京都指定有形文化財(古文書)>
指定年月日 昭和5年12月
玉川上水開削の由来を記した記念碑で、高さ460cm、幅230cm。上部の篆(てん)字は徳川家達、撰文は肝付兼武、書は金井之恭、刻字は井亀泉によるもので、表面に780字、裏面に130字が陰刻されている。碑の表面には明治18年の年紀が刻まれているが、建立計画中に発起人西座真治が死亡したため、一時中断し、真治の妻の努力により、明治28年(1895)に完成したものである(裏面銘文)。
「四谷大木戸跡碑」(よつやおおきどあとひ)
四谷大木戸碑(この説明版の裏側にある)は、昭和34年11月、地下鉄丸ノ内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して作られた記念碑である。実際の大木戸の位置は、ここより約80m東の四谷四丁目交差点のところで、東京都指定旧跡に指定されている。新宿区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「水道碑記」
<東京都指定有形文化財(古文書)>
玉川上水開削の由来を記した記念碑で、高さ460cm、幅230cm。明治28年(1895)に完成。
上部の篆(てん)字は徳川家達
「水道碑記」裏面
『水道記念碑之裏銘』
裏側に「四谷大木戸跡碑」
この石碑は、昭和34年に地下鉄丸の内線の工事の際に出土した、玉川上水の石樋を利用して作られたもの。実際の大木戸の位置は、ここより約80m東の四谷四丁目交差点のところにある。
国道20号(甲州街道)と418号(外苑西通り)が交差している四谷四丁目の交差点
「四谷大木戸跡」
<東京都指定旧跡>
現在の四谷4丁目交差点付近に甲州街道の「四谷大木戸」が置かれていた。四谷区民センター内に記念碑「四谷大木戸跡碑」が立っている。元和2年(1616)甲州街道の大木戸として設けられたもので、道の両側に石垣を築き、その間に木戸を設けて旅人を調べ、夜間の通行は原則として許さなかった。寛政4年(1792)に木戸が撤去されるまで、江戸の玄関口として重要な役割を担っていた。~日本観光協会HPより抜粋転載~
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紀尾井町にある「清水谷公園」に麹町で発見されたという「玉川上水の石桝」が残されている。 -2025.09.18に撮影-
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「玉川上水の石枡(麹町三丁目2番地先出土)
<千代田区指定文化財>
2018年(平成30年)4月1日指定
この石枡は1970年(昭和45年)に国道20号線(麹町大通り)の共同溝拡幅工事の際に麹町3丁目2番地先で発見された玉川上水施設の一部です。玉川上水は、4代将軍徳川家綱の命で1653年(承応2年)に着工し、翌年に竣工したと伝えられている。取水地は羽村の多摩川上流で、四谷大木戸に至る約43㎞を開渠で導水し、江戸市中へは石樋や木樋による暗渠で配水していた。この石枡は江戸市中における本管の一部で、地中深く4段に積んだ大規模な構造を持っていた。1段目と2段目にまたがる部分に木樋の挿入口がある。石枡とともに出土した木樋は千代田区立日比谷図書文化館で展示されている。 千代田区 ~下記案内板より抜粋転載~