2024年5月に浦賀を散策。前回行けなかった場所を訪ねて浦賀を再訪。史跡東京湾要塞跡の「千代ケ崎砲台跡」、浦賀港西の灯台の役目をしていた「燈明堂」のある「燈明台」へ。バスで浦賀駅に戻り、「観音崎」へ。ここから海沿いの道を名所スポットを訪ねて「馬堀海岸駅」まで歩きました。「観音崎」から先は、海と緑に囲まれた"絶景美術館"「横須賀美術館」、日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘媛(おとたちばなひめ)の伝説の地「走水神社」、日本武尊がここから上総に渡ったといわれる「御所ケ崎」、東京湾防備のための「走水低砲台跡」へ。終点の駅までは、海沿いの「走水・馬堀海岸」を散策。お天気も良く、時折、浦賀水道を行き交う船が見えて気分も爽快!! -2025.3.22-
きままに散歩 05 浦賀駅
上記マップ:横須賀市HPより転載
千代ケ崎砲台跡パンフレット
国指定史跡東京湾要塞跡
「千代ケ崎砲台跡」
千代ヶ崎砲台は、江戸時代後期に会津藩により台場が造られた平根山に、明治25年(1892)から明治28年(1895)にかけて陸軍が建設した西洋式の砲台。東京湾内湾口を防御する観音崎砲台の援助や、浦賀湾前面海域への防御、また久里浜から上陸した敵に対する防御が任務で、榴弾砲の海正面防御砲台と臼砲・加農砲・機関砲からなる陸正面防御砲台で構成されている。
築造当初の姿を良好にとどめていること、日本の近代の軍事や築城技術を理解するうえで重要であることから、猿島砲台跡(横須賀市猿島1番)とあわせて平成27年(2015)に国の史跡に指定された。~下記案内板より抜粋転載~
「東京湾要塞とは」
日本で始めて西洋の築城技術と建築資材を導入して建設された砲台は観音崎砲台の第一・第二砲台で、明治13年(1880年)起工、明治17年(1884年)竣工。観音崎砲台の起工以後、明治政府は首都東京や軍港防衛のために東京湾岸に沿岸砲台群を建設。これらの砲台群によって守備する土地を「要塞」と定め、東京湾要塞と呼称した。東京湾要塞を構成する砲台群は、明治20年代後半までに20か所、大正から昭和にかけては火砲の能力向上に伴い防衛ラインを東京湾の南側に拡大して12か所の砲台が築かれた。
「千代ケ崎砲台の構造」
千代ケ崎砲台の海正面防御砲台は、3つの砲座が南北に並び、1砲座に2門ずつ、合計6門の28cm榴弾砲が配備されていた。地表からすり鉢状に深く掘りこまれた露天砲座の地下には、砲側弾薬庫や棲息掩蔽部が造られ、砲弾の供給や地上との連絡、砲台内での貯水や排水の仕組みが合理的に設計されている。地下施設の壁は煉瓦造で、天井は無筋コンクリート造となっている。千代ヶ崎砲台より11年前に建設を開始した猿島砲台は地下施設の壁・天井ともに煉瓦造であり、2つの砲台を比較することにより建築資材や技術の改良と発展を見ることができる。
「日本遺産」
千代ヶ崎砲台跡は、「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」の構成文化財として平成28年に日本遺産に認定された。横須賀市の歴史、文化、自然を「ルート」でつなぎ、市内全体を大きな「ミュージアム」として楽しむ「よこすかルートミュージアム」のサテライト施設でもある。
「土塁」
防御施設。柵門の内側を囲み、柵門の正面には高さ5mの土塁と堀井戸がある。この中央土塁の両側を回り込むと榴弾砲砲台の塁道に連絡している。
土塁下の堀井戸
自由見学も可能だが、自由見学では地下施設は入れないので案内所でガイドツアー(無料)に申し込み、砲台跡を見学。
案内所を出てスタート
地下施設へ
砲台の各施設を連絡する「塁道」へ。
「塁道」
砲台内の各施設を連絡する交通路。路面はコンクリートで舗装されている。幅員約4mの露店空間と隧道が繰り返され、地下施設の出入り口が接続している。
塁道と砲座を結ぶ「交通路」
「貯水所」
雨水を生活用水としてろ過し、貯水した施設。塁道脇に設置されたろ過下水溝で集水し、沈殿池とろ過池により浄水した水を貯水池に貯めて使用した。
「沈殿池」(手前)と「ろ過池」(奥)
「棲息掩蔽部」(せいそくえんぺいぶ)
訓練時や戦時の兵員の待避所・宿舎、または倉庫。塁道に面して出入口と採光窓、網戸を付けた通気口が、奥壁には地上への排気口が設置されている。
塁道南端付近から入口方面を臨む
塁道と砲座を結ぶ「交通路」
「砲側弾薬庫」
28cmの榴弾砲の砲弾と装薬の保管庫。天井と床に2ヶ所ずつ残る円形の孔は、砲弾と装薬を上部の高塁道へ供給する揚弾機の籠が設置された痕跡。
「揚弾井」
「点燈室」
ランプ室。奥側の砲側弾薬庫と掩蔽部の間に仕切り壁によって造られた空間。仕切り壁にはガラスをはめ込んだ小窓が設けられ、両室を照らした。
「砲側弾薬庫」から砲座に向けて階段を上がると「高塁道」。
「高塁道」
3つの砲座を連絡する交通路。揚弾井と揚弾機が左右の側壁に設置され、揚弾機で地階の砲側弾薬庫から引き揚げた砲弾を砲座へ供給。
揚弾井の上部
「砲座」
28cm榴弾砲を据え付けた場所。第三砲座の発掘調査では、砲床下部構造の石組みの基礎を検出。砲座間や観測所からの連絡は伝声管を用いた。
「砲座」へ。
「第三砲座」
「第二砲座」
「第一砲座」
28cm榴弾砲を据え付けた場所。地上からコンクリートの床面まで約6mの深さ。1つの砲座に2門の榴弾砲が設置された。
「千代ケ崎砲台の立地」
千代ケ崎砲台は、眼下に東京湾を一望できる標高約65mの山の上に建設された。要塞建設期(明治時代)に建設された砲台群の中では最も南に位置し、当時の防御線の外側。28cm榴弾砲が据え付けられた海正面砲台は、東京湾内湾に侵入しようとする艦船と最初に対峙することが想定されていた。対岸の房総半島側は水深が浅く、大型の艦船は三浦半島寄りを航行。そのため、三浦半島側に集中して砲台が建設された。大型艦が通行する航路は浦賀水道とも呼ばれ、現在では世界有数の海上交通量を誇っている。~下記案内板より抜粋転載~
「燈明堂」へ
「燈明堂跡及び周辺地域」
<横須賀市指定史跡>
燈明堂は慶安元年(1648)から明治5年(1872年)まで、浦賀に出入りする船の安全を守った燈台。~以下略~この史跡は、燈明堂跡とその周辺の土地を指定している。指定地内には、築造当時から残る石垣とその上に復元した燈明堂のほかに、3基の石碑が建立している。①地蔵菩薩像供養塔:天保11年(1840年)建立。死者を供養する碑で、台石左側面から裏面には世話人願主名が記されている。②題目塔:天保11年(1840年)建立。大きく「南無妙法蓮華経」の髭題目が刻まれた碑。③千代岬瘞骨志碑:嘉永2年(1849年)建立。碑文には千代ケ崎台場の工事中に出土した人骨を埋葬したこと、その他に北条氏と里見氏の合戦による戦死者ではないかと推測していることが記されている。横須賀市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
「題目塔」
天保11年(1840)建立
「南無妙法蓮華経」の髭題目が刻まれた碑
燈明堂とその周辺
慶安元年(1648)幕府の命でつくられた日本式の灯台である燈明堂は明治5年(1872)までその役割を果たした。燈明堂の背後の山には平根山台場がつくられ外国船に備えた。平根山台場は天保8年(1837)日本人漂流民を送り届けに来航した米商船モリソン号を最初に砲撃した台場として知られている。ここから海岸線沿いに海に突き出た所には幕末期に、千代ケ崎台場がつくられた。燈明堂付近には供養碑などが立ち並び、かつてここが首切場と呼ばれた浦賀奉行所の処刑場だったことが偲ばれる。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ ~下記案内板より抜粋転載~
「燈明堂跡」(浦賀燈明堂)
<横須賀市指定史跡>
復元なった浦賀燈明堂の建つこの場所は、江戸時代に浦賀港の入口、燈明崎に建っていた燈明堂の跡地である。燈明堂は、今日の灯台のような役割をする航路標識の施設であった。燈明堂は、慶安元年(1648)幕府の命によって、幕史石川文左衛門重勝や能勢小十郎頼隆らが築造したと伝えられている。石垣を土台にして、上に二階建ての建物があった。階下は番人小屋で、階上は四方を紙張障子とその上に、金網をめぐらしてあった。その中には、直径36.4cm、深さ12.2cmの銅製の大きな燈明皿が置かれ、一晩に、灯心百筋と菜種油一升(1.8ℓ)が灯され、その光は四海里(7.2km)に達したという。当初は勘定奉行の所管となっていたが、後に、浦賀奉行に所管替えとなり明治になり神奈川府の所管となった。経費は元禄3年(1690)までは徳川幕府が賄っていたが、同4年から、東浦賀の干鰯問屋が、一切を負担するようになった。明治5年(1872)4月に廃止になるまで、約220年間にわたって、1日も休まず夜間の海上安全の守り役として活躍し、我が国の灯台史の上で、極めて貴重なものである。建物は明治20年代まで残っていたというが風雨で崩壊してしまい、一抱えもある、大きな石で、高さ約1.8m、幅3.6m四方に組み合わされた「切り込みハギ石垣」だけが残された。燈明堂跡は、大正13年3月、国の史跡に仮指定されたが、太平洋戦争後解除され、昭和43年2月に市の史跡に指定された。この石垣を利用して、浦賀燈明堂が近代建築の粋を結集して、当時の姿そのままに復元された。(起工:昭和63年10月、竣工:平成元年3月) 横須賀市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
燈明堂海岸