等覚院のつつじと長尾の里めぐりⅠ


"等覚院のつつじ"のアクセスを調べていたら、"長尾の里めぐり"のマップが目にとまりました。「久地駅」からスタート。「松寿弁天社」から「緑ヶ丘霊園」を横切り「東高根森林公園」へ。「等覚院」の"つつじ"を観賞してから「五所塚と権現台遺跡」「長尾神社」「妙楽寺」を経て、ゴールは「宿河原駅」。色とりどりの"つつじ"と緑をたっぷり感じた散策でした!! -2026.04.22-


松寿弁天神社(多摩区宿河原)


その昔、津田山の山腹に老松があった。稲毛三郎重成、豊臣秀吉らの武将がこの松に綱をかけて戦陣を進めたことから「綱下げ松」とその名前がついたとか。この松には白蛇の伝承(「洪水によって流された村人が、1本の松から下げられた白い布を頼りに丘へ避難してみると、その布は弁財天が遣わした白いヘビであった」)があり、松の下に松寿弁財天の祠を建立した。これが霊験あらたかと評判になり、天保の頃、たくさんの参詣人で賑わったという。(蛇は弁財天のお使いとされている)

緑ヶ丘霊園(高津区下作延)


川崎市の北⻄部、多摩丘陵の東端のJR南武線津⽥⼭駅から久地駅に⾄る丘陵地帯に位置しており、春には園内に植えられた数百本の桜が咲き誇る。

「緑ヶ丘霊園」の横の道を下りて

「東高根森林公園」の湿生植物園へ

東高根森林公園(宮前区神木本町)


県立東高根森林公園は、川崎市のほぼ中央部に位置している。弥生〜古墳時代の竪穴住居跡が発見された古代芝生広場や、学術上非常に価値の高いシラカシ林(推定樹齢150~200年)があり、集落跡とシラカシ林を文化財として保護するため、史跡及び天然記念物に指定する一方、これら文化財を含む周囲を一体として県立都市公園として整備した。■ 公園面積:11.8ヘクタール■ 文化財:県指定史跡「東高根遺跡」1.3ヘクタール■ 県指定天然記念物「東高根のシラカシ林」2.8ヘクタール ~東高根森林公園HPより抜粋転載~

「湿生植物園」

湿田の上に伸びる木製デッキは格好の散歩道になっており、湿生植物(ツリフネソウ、ミゾソバ、コガマ、オモダカ等)が観賞できる。春頃にはレンゲやナズナが花を咲かせ、湿田の脇を流れる小川では水辺を好む昆虫や小魚も見られる。湿生植物園は、弥生時代の水田跡と自然水を利用した湿田で、7,000平方メートルに稲作田ゾーン、湿生花園ゾーン、湿生樹林ゾーン、湿生野草ゾーン、梅林ゾーンの5つに区分している。~東高根森林公園HPより抜粋転載~

園内一番奥の北側にある

つづら折りのスロープ

スロープ登り切った上から

「古代芝生広場」

公園の中で頂上に位置し、芝生の下には弥生時代から古墳時代の遺跡(東高根遺跡)が眠っており、歴史の詰まった広場。

「東高根遺跡」

「古代芝生広場」には弥生時代後期(3世紀頃)から古墳時代後期(6世紀頃)にかけて営まれた集落が埋蔵されている。この遺跡は昭和40年代の住宅地の開発によって発見された。その後の調査では約60軒の竪穴住居跡が確認され、広場全域では約100~150軒の竪穴住居跡があると推定されている。神奈川県はこの貴重な遺跡とその周囲に広がるシラカシ林を保護するために、昭和46年12月、「東高根遺跡」を神奈川県指定史跡に、東高根のシラカシ林を県指定天然記念物に指定した。~東高根森林公園HPより抜粋転載~

「シラカシ林」

近年の都市開発の影響で、関東地方の台地や丘陵を広く覆っていたシラカシ林が姿を消しつつあるが、この公園には自然林に近い形で残存している。樹齢150年から200年になるものもあり、県指定の天然記念物になっている。シラカシ林に囲まれた高台は、県指定史跡「東高根遺跡」であり、弥生時代後期から古墳時代後期にかけての集落跡が眠っている。古代人はこの高台に住み、周囲のシラカシで農機具を作って耕作していたようです。~東高根森林公園HPより抜粋転載~

「古代植物園」

食料、衣料、染料、建物、薬、木製品、親しまれた植物の7つの部門に分類されており、縄文時代から平安時代の衣、食、住にかかわってきた主な植物を見ることができる。~東高根森林公園HPより抜粋転載~

「東高根森林公園」を後にします

「長尾の里めぐり」案内板

「高橋橋」

下は東名高速道路

「等覚院」へ

「等覚院」境内上から

「等覚院」の詳細は、 

                   等覚院のつつじと長尾の里めぐりⅡ -等覚院-(Apr.2026)   へ。

五所塚と権現台遺跡(宮前区五所塚)


「五所塚と権現台遺跡」

五所塚は、直径4m・高さ2m前後の五つの塚が南北に並んでいることから、地元では古くから、こう呼ばれてきた。外観は古墳時代の円墳に似ているが、実際は、中・近世に村境や尾根筋に築かれた十三塚などと同様の、民俗信仰に基づく塚であると考えられている。この五所塚から「長尾神社」境内につづく舌状台地上の平坦部は、「権現台遺跡」と呼ばれる縄文時代中・後期の集落跡。昭和33年(1958)に実施された発掘調査では、竪穴住居四軒、炉跡二基、配石遺構一基が発見された。なかでも、平面形が五角形という特異な形状をした縄文中期の竪穴住居跡や、男根を模した二本の石棒が据えられ、狩猟にまつわる祭りを行ったと思われる縄文後期の配石遺構は重要な発見であった。ここ「五所塚第一公園」に、地上に中・近世の信仰塚が、地下には狩猟祭祀をした縄文時代のムラの跡が重複している。川崎市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「長尾の里めぐり」案内板

長尾神社


「長尾神社」は、川崎市多摩区長尾(旧橘樹郡長尾村字西高根)の最高丘陵(海抜約82m)に鎮座。当神社は江戸時代徳川幕府より、江戸近隣一帯の神主不在の神社を受け持つ白幡八幡大神(稲毛領稲毛総社総鎮守白幡八幡大神)のもと庇護されていた。もとは、耕地長尾地域の鎮守で五所神社(五所権現)と称していた。五所権現は、天文18年(1549)に鎮座とも言われるが、武蔵野風土記稿に記されるよう明らかではない。明治時代となり神主も増え、白幡八幡大神は地元8つの神社を兼務する神社となった。明治42年(1909)12月、長尾村字長峰宮谷 (現在の宮前区神木本町三丁目)にあった谷(神木)長尾地域の鎮守、赤城神社(赤城明神)と合併し、村社・長尾神社と改称され今日に至っている。なお、この地方は、遠く戦国時代の戦火による災害を被ったためか、妙楽寺をはじめ多くの民家とともに文書その他の資料が消失してしまい、言い伝えによる他に由緒を知ることができない。~長尾神社HPより抜粋転載~

「長尾神社」

この神社は、五所権現社と赤城社が合祀されたもので、豊作を祈る射的祭が今も伝えられ、毎年1月7日に行われている。これは、氏子から選ばれた稚児2人が鳥烏帽子(えぼし)・直垂(ひたたれ)を着飾り、的に向かって矢を射る(実際には付人が射る)もので、みごと的の鬼の字を貫くとその年は豊作といわれている。境内のクス・イヌシデ・シラカシなどの樹木は保存樹林に指定されている。~下記案内板より抜粋転載~

「手水舎」

「手水鉢」<川崎市 地域文化財>

正面に「奉献」、 右側面に「文政十一 戊子年 二月吉日」、 左側面に「惣氏子中」と刻まれている。江戸時代 文政11(1828)年に奉納された手水鉢。

「社殿」

「本殿」


「石祠」<川崎市地域文化財>

 

【石祠①】

背面銘によると、「賽暦四甲戌歳(1754)5月吉日、江戸北八町堀石工和泉屋三良左衛門」、浅間神社と伝えられる。「富士浅間神社 村の東にあり、この辺の小名を富士谷と言えり」(武蔵野風土記稿)及び「無格社富士太神(東高根)を長尾神社に移転合併の聞届(明治44年7月)」の記録等はあるが、この祠そのものが富士太神浅間神社であるか定かではない。

【石祠②】

側面銘によると、「明治13年辰(1880)9月」、御嶽神社と伝えられるが由来は不明である。

【石祠③】

側面銘によると、「明治22年辰(1889)6月建造 氏子中」白山社と伝えられる。「白山社 山王社(妙楽寺の前にあり)の西に並べり」(武蔵野風土記稿) 及び「無格社日枝大神及び同稲荷明神(東高根) 石祠2基、無格社天照大神及び同白山神社(西高根)石祠1基、の4社を長尾神社地内に移転の願い聞届(明治41年1月)の記録等はあるが、事情は定かではない。

【石祠同型3基④】

台正面銘「氏子中」側面銘「明治22年6月建造」由来は不明である。上記移転4社の日枝大神(山王社)や稲荷明神が含まれるのかも知れない。

妙楽寺(多摩区長尾)


天台宗「妙楽寺」は、多摩川を眼下に見下ろす長尾丘陵の一角にある。最近の研究によれば、同寺は中世初期に存在し、『吾妻鏡(あづまかがみ)』に登場する源家累代の祈祷所であった「威光寺」(いこうじ)との関連が指摘され、注目をあつめている。源頼朝は、鎌倉幕府草創期に弟の全成(ぜんじょう)を威光寺院主として派遣し、所領を安堵するなど同寺を厚く保護している。これは、幕府の所在する鎌倉の外郭の境界線として、多摩川とその右岸丘陵の軍事的位置を重視したためと考えられる。しかし、幕府の滅亡によって、威光寺も次第に衰微したらしく、応永12(1405)年8月の梵鐘鋳造の勧進に関する記録を最後として、史上から姿を消し現存しない。ただし、この勧進文には「武州立花郡長尾山威光寺」の表記があり、『吾妻鏡』以来長尾の丘陵に存在したことが確認される。「妙楽寺」の土蔵に安置されている木造薬師如来両脇侍像(市重要歴史記念物)を修理した際に、日光菩薩像の胎内から天文14(1545)年の紀年と、「武州立花郡太田郷長尾山 威光寺」以下の墨書銘が発見された。このことにより、16世紀中頃にも「威光寺」が存在していたこと、同寺のある地域が太田郷といわれていたこと等が判明した。また、これらの仏像が「妙楽寺」に客仏として伝世していたことから、「威光寺」と「妙楽寺」との間の因果関係が推定されることになった。かつて広い寺域を占め、幾つかの坊や付属寺院を擁していたであろう「威光寺」も、上述のように有力壇越を失い、かろうじて残された上記仏像も、いつの頃か「妙楽寺」に移されたものと推定される。「妙楽寺」あるいは「威光寺」の一坊であったのかもしれない。同寺付近には、別所、堀の内、竹の沢等の中世地名や、五輪塔や板碑が伝世し、渥美製大形甕(かめ)の一部が出土するなど、中世的な色彩を色濃くとどめており、ありし日の威光寺の姿を投影しているかのようにみえる。~川崎市教育委員会HPより抜粋転載~ 

参道

「六地蔵」

「山門」

「手水舎」

「本堂」

扁額

「薬師堂」

扁額

「鐘楼」

「閻魔堂」

閻魔様は元インド・バラモン教の神の流れをくみ、後に仏教に帰依し冥界(死後の世界)において、生前の善悪により罪を裁く十王の総司と言われている。因みに十王は「秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・泰山王・平等王・都市王・五道転輪王」をいう。死者を裁く十王の世界には、生前の人間が犯した全ての罪が映しだされる鏡があり、それに応じた罰を受けると言われている。(中略)~下記案内板より抜粋転載~

「妙楽寺の文化財」

天台宗長尾山妙楽寺所蔵の木造薬師如来及び両脇侍像(寄木造)のうち、薬師如来坐像は胎内背面の墨書から永正6年(1509)9月の制作で、顔の表情・寄木の構造も室町時代末期の特徴がよく表れている。日光菩薩像は胎内の墨書から、薬師如来像よりおくれて天文16年(1547)に制作されたことと、妙楽寺が長尾山威光寺の旧跡であることがわかった。威光寺は文徳天皇の仁寿年中(851〜4)の創建と伝えられ、源氏代々の祈願寺として保護されてきた。とくに頼朝が弟全成(幼名今若丸)をこの寺の住職にしたこともあり、鎌倉時代初期におけるこの寺の隆盛は吾妻鏡(鎌倉時代の記録)からも知ることができる。同じく当寺所蔵の五趣生死輪図は明治25年(1892)に描かれた大型の肉筆彩色画で、仏教の示す輪廻転生の思想とこの世の無情が難解な教典によらずわかりやすい画像で表現されている。川崎市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

❀ 梅雨のシーズンになると、約1,000株・約30種類のあじさいが咲き、川崎の"あじさい寺"として親しまれている。

長尾丘陵からの眺め