浦和街並み散策


「与野公園のバラと与野散策」後、浦和で途中下車。浦和街並み散策をしてきました。「浦和駅」をスタートし、浦和宿の歴史を辿りながら史跡や古刹を、また、浦和らしいスポットを巡ってきました。 -2026.05.15-

玉蔵院(さいたま市浦和区仲町)


平安時代に弘法大師によって建立されたと伝わる真言宗の古刹。天正19年(1591)には、徳川家康より寺領を寄進され、江戸時代には新義真 言宗豊山派に属し、奈良長谷寺の移転寺として栄えたそう。元禄14年(1701)に再建されたと伝わる本堂は、何度か改修されたものの、骨組みや間取り、欄間彫刻などは当時のまま。さいたま市指定有形文化財となっている地蔵堂は、総ケヤキ造り三間、仏堂の様式で安永9年(1780)に建立。堂内には、埼玉県指定有形文化財の木造地蔵菩薩立像が安置されている。この仏像は、毎年4月23日のご開帳の時だけ拝することができる。玉蔵院で行われる大施餓鬼は、関東三大施餓鬼に数えられ、毎年8月23日に執り行われている。~広報誌「korekara」第30号から抜粋転載~

「山門」

<市指定有形文化財(建造物)>

総ケヤキ造り、本瓦葺き、四脚門

享和3年(1803)頃に建立されたと伝わる。

「鐘楼門」

「中門」

「本堂」

扁額:寶珠山

「玉蔵院地蔵堂」

<浦和市指定有形文化財(建造物)>

<構造・規模>三間四方、入母屋造り、一間向拝つき、桟瓦葺き、間口・奥行きとも8.34m。<概要>軸部は、ケヤキ材を用いた重厚な建築で、柱は円柱、柱上三手先の斗栱で桁を受ける。中備は、十二支の蟇股を配している。軒は二重繁種となる。内陣は、裏側壁面から半間出して来迎柱を建て、来迎壁に須弥壇をつけている。内陣の天井は、花鳥などを描く格天井となっている。他に、欄間の彫刻、外陣天井の画など装飾が多い。内陣蟇股墨書銘により安永9年(1780)の建立であることが知られる。三間仏堂ではあるが、本格的な造営を受けた仏堂建築でしかも建立年代が明らかであり、保存価値がきわめて高いと言える。   

さいたま市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

※地蔵堂には本尊とは別に平安時代末期の作となる地蔵菩薩立像(埼玉県指定有形文化財)が安置され、地蔵信仰の寺として長い歴史を持っている。

市場通り(さいたま市浦和区常盤)


「市場通り」

この通りの北側にある慈恵稲荷神社の社頭で、戦国時代以来、昭和の初めまで、毎月二・七の日に市が開かれた。そこでは、農産物や各種の生活必需品が取引された。現在もそのなごりとして、市神様と市場定抗がある。これにちなみ、昭和55年9月に当時の歴史をしのぶため、「市場通り」の愛称がつけられた。浦和市 ~下記青銅版説明文より抜粋転載~

野菜を売る女性の像

浦和宿二・七市場跡(さいたま市浦和区常盤)


「浦和宿二・七市場跡」

<さいたま市指定史跡>

浦和の市場は戦国時代に開設されたものと考えられ、天正18年(1590)には豊臣秀吉の家臣である浅野長吉から喧嘩口論などを禁じた「禁制」が「浦和市」に対して出されている。浦和市は月6回開かれる六斎市と呼ばれるもので、毎月2と7の日に開かれたため(2日・7日・12日・17日・22日・27日)、「二・七市場」といわれている。江戸時代、十返舎一九は「代ものを 積重ねしは 商人の おもてうらわの 宿の賑い」と詠み、浦和の市の賑いを表現している。また、川口芝の長徳寺住持である龍派禅珠は、ある歳の暮れ、浦和の宿で萩、屠蘇、麹、膠、末醤(味噌と醤油)、新暦などを購入している。周辺では、蕨(一・六の市)、鳩ヶ谷(三・八の市)、与野(四・九の市)、大宮(五・十の市)で市が設けられており、毎日どこかで市が開かれていたことになる。さいたま市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

奥にある「慈恵稲荷神社」

慈恵稲荷神社(さいたま市浦和区常盤)


「慈恵稲荷神社 御由緒」

□御縁起(歴史):中山道の三番目の宿場であった浦和宿は、南北10町42間(約1165.6m)の規模を持ち、北から上町・仲町・下町の三つに分かれていた。当社は、そのうちの上町の人々によって祀られていた神社で、当初は単に稲荷社と称していたが、後に慈恵の文字を冠し、「慈恵稲荷神社」と呼ばれるようになった。慈恵の文字を冠するようになった時期は定かではないが、『明細帳』では「慈恵」の文字が後で加筆されていること、「慈恵稲荷社」の文字を刻んだ社号額や社号標が大正14年に奉納されていることから考えると、同年の境内整備や翌年の本殿改築・拝殿新築といった事業を機に改称したものと思われる。

一方『風土記稿』浦和宿の項を見ると、「稲荷社三宇 一は成就院持、二は村民持」とある。そのうちの「成就院持」の稲荷社が当社のことであり、「村民持」の稲荷社は常盤三丁目にある笹岡大稲荷・笹岡小稲荷のことと思われる。当社の北に隣接する成就院は、玉蔵院の末寺に当たる真言宗の寺で、通称を「上寺」といい、明治4年に一旦廃寺になったが、平成2年に復興された。

また、当社の境内と成就院の大門の所には、各々大きな樅(もみ)の木があり、中山道を通る人から見ると、それが一本にも二本にも見えたという。そこで、人々は「一本だ、いや二本だ」と言い争ったため、この樅の木は「争い樅の木」として知られていたが、明治9年9月の台風で倒れてしまった。□御祭神…倉稲魂命 □御祭日・例祭(初午祭)…2月初午・夏祭り…7月20日前後の日曜日 ~下記案内板より抜粋転載~

「手水舎」

常盤公園(さいたま市浦和区常盤)


浦和区文化の小径「常盤公園」

~鷹狩りの御殿も繰~

慶長年間、徳川家康が民情視察を兼ねた鷹狩りの際の休息、宿泊のため、この地に浦和御殿を設けた。明治26年には、浦和地方裁判所・検察庁が置かれた。昭和51年に常盤公園となったが、「赤レンガ囲塀」にその面影が偲ばれる。常盤公園は毎年「中山道浦和宿二七の市」の会場となっている。浦和区文化の小径づくり推進委員会 ~現地案内板より抜粋転載~

車止めポール上に

浦和レッズのマスコット「レディア」と

サッカーボール

別所沼公園(さいたま市南区別所)


別所沼公園は、2027年に開園100周年を迎える歴史ある公園であり、平日休日問わず多くの市民で賑わう、さいたま市を代表する都市公園。別所沼ができたのは、およそ100万年前、関東ローム層でも一番下の地層(沖積層)、大宮台地の浸食した谷から湧出した水が、低地に溜って出来たと考えられている。昭和の初めに東京市州崎の小島長治郎氏が、湿地として使い物にならなかった土地を借り受け 、名所としての遊覧地づくりに着手した。沼を掘り、島を造り弁財天をまつり、昭和26年に「遊園地・昭和園」として開設。昭和31年には浦和市から埼玉県へと移管され、県営の公園として、メキシコ州と埼玉県の姉妹提携 1周年を記念した「風の神」の建設や、保養施設として「別所沼会館」が設立された。また当時の別所沼はボート乗り場としても営業しており、休日はカップルや家族づれで賑わっていた。平成13年に埼玉県からさいたま市へ移管され、以後、詩人・立原道造の未完の夢であった「ヒアシンスハウス」が竣工され、平成26年には別所沼の水質改善を目的とした「かいぼり」が行われている。~さいたま市HPより抜粋転載~

「弁天島」前に「浦和うな子ちゃん」

「浦和うな子ちゃん」:江戸時代からの伝統の味「浦和のうなぎ」を広くPRするために誕生したマスコット。生みの親はアンパンマンの漫画家として知られる故やなせたかし氏。

「別所沼弁財天由来記」

落羽松が沼の周囲を巡るこの島は、古くから弁天島と呼ばれるように「別所沼弁財天」が奉祀されている。昭和2年この島を構築した小島長次郎氏によって東京、深川の洲崎神社から分祀された。その後、昭和40年に氏子・有志により覆屋・向拝宮を改築、手水舎も建立し現在に至る。御祭神は「市杵島姫命」で、仏教との習合により弁財天として祀られている。福徳財宝の神として親しまれている七福神のなかの女神で「妙音天」ともいわれている。その起源を遡れば、インドの河川神「薩羅薩伐底」であり水辺に多く祀られている。「金光明最勝王経」によれば「弁財天を信奉する者は、弁舌、知恵を授けられ、その庇護により長寿と繁栄を得て福徳の山を築き、技芸に熟達するであろう、さらに弁財天の主誓願は転禍為福であるから、一切の苦難も鎮められよう」と説かれている。この向拝宮内には、八本の御手の左に槍、輪、弓、宝珠、右に棒、鍵、矢、刀を持し荘厳の中にも慈悲をたたえた八臂弁財天座像が安置されている。別所沼観光協会 ~下記案内板より抜粋転載~

調神社(さいたま市浦和区岸町)


「調神社」(つきじんじゃ)

南北朝時代の延元2年(1337)に、足利尊氏が一色範行に命じて荒廃した社殿を復興したと伝えられている。その後戦国時代末期の天正18年(1590)小田原兵乱で、再び焼失したが、徳川家康の関東入部後から江戸時代初期にかけて次第に再建された。現在の社殿は、安政6年(1859)竣工で、総欅の権現造り。一代前の本殿も、境内末社の稲荷社本殿として現存しており、こちらも総欅で一間社流造りという建築様式。社名を調(つき)神社と云い、地元では「つきのみや」と愛称されている。

~公益社団法人さいたま観光国際協会HPより抜粋転載

由緒 略記

当社は天照大御神、豊宇気姫命、素戔鳴尊の三柱を祭神とする。延喜式内の古社にして、より朝廷及び武門の崇敬篤く調宮縁起によれば、第九代開化天皇乙酉三月所祭奉幣の社として創建され、第十代崇神天皇の勅命により、神宮斎主倭姫命が参向此の清らかな地を選び神宮に献る調物を納める御倉を建てられ、武総野の初穂米調集納蒼運搬所と定めらる。倭姫命の御伝により御倉より調物斎清の為め当社に搬入する妨げと為、鳥居、門を取拂はれたる事が起因となり現今に到る。~下記案内板抜粋転載~

上記由緒書きにあるように、この神社には鳥居がない。搬入の妨げになる為、鳥居や門は取り払ったと伝えられている。

狛犬のかわりに「兎」が鎮座。社名の調(つき)の名が、月と同じ読みであるところから、月の動物と云われた兎が神の使いとされ、中世の月待信仰(月のもつ神秘に畏敬をなし、月の出を待って祈る信仰)の広がりと結びつき、江戸時代には月読社とも呼ばれていたよう。今も兎の石像や社殿に飾られた兎の彫物、兎の絵馬など所々に兎が配されている。


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上記の狛兎は、比較的新しいもので、平成25年(2013)に奉納されたもの。先代のうさぎ[萬延2年(1861)・板橋宿兼吉作]は、境内の屋根付の場所に大切に保存(公開)されている。

「手水舎」

「社殿」

現在の社殿は、安政6年(1859)竣工、総欅の権現造り

「神楽殿」に飾られている

本年の干支""の大絵馬

「神池」

「神池」にも兎さん

「旧本殿・稲荷神社」

境内の旧本殿・稲荷神社には鳥居がある。調(つき)神社旧本殿(市指定文化財)は、享保18年(1733)に建立されたもの。新本殿建設の際に現在地に移設され、「稲荷神社」として祀られている。平成29年(2017)に修理が完了し、ガラス張りの覆屋(おおいや)の外から見学できる。~ふぉとさいたまHPより抜粋転載~

「調宮天神社」

「金毘羅神社」

「四柱神社」

「神明神社」「四柱神社」