2024年5月に浦賀を散策。前回行けなかった場所を訪ねて浦賀を再訪。史跡東京湾要塞跡の「千代ケ崎砲台跡」、浦賀港西の灯台の役目をしていた「燈明堂」のある「燈明台」へ。バスで浦賀駅に戻り、「観音崎」へ。ここから海沿いの道を名所スポットを訪ねて「馬堀海岸駅」まで歩きました。「観音崎」から先は、海と緑に囲まれた"絶景美術館"「横須賀美術館」、日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘媛(おとたちばなひめ)の伝説の地「走水神社」、日本武尊がここから上総に渡ったといわれる「御所ケ崎」、東京湾防備のための「走水低砲台跡」へ。終点の駅までは、海沿いの「走水・馬堀海岸」を散策。お天気も良く、時折、浦賀水道を行き交う船が見えて気分も爽快!! -2025.3.22-
きままに散歩 04 馬堀海岸駅 … 観音崎
上記:横須賀市HPより転載
県立観音崎公園は、昭和50年に完成した、70.4haの広さを持つ県下最大の公園。この公園一帯は、明治時代から砲台が築かれたり、軍の要塞になっていたため、戦争が終わるまで〔昭和20年(1945)8月15日〕一般の人は立入禁止でした。そのため自然が良く残され、当時は、一抱以上もある大きな黒松が一帯を覆っていたが(昭和30年代)虫に侵され、今は1本も残っていない。公園は、変化に富んだ岩礁・砂浜や海岸線と、緑豊かな広葉樹で覆われた丘陵地帯でできている。レンガ造りの砲台跡、明治2年(1869)正月元旦に点灯された日本最初の洋式灯台(現在は三代目)をはじめ、東京湾を出入する船の安全を守る海上交通センター、展望台、三軒家園地、走水園地、戦没船員の碑、花の広場、うみの子とりで、腰越園地、噴水広場、遊歩道などがあり、よく晴れた日には、房総の山々や東京湾に出入りする船、横浜のランドマークタワーなどが眺められる。遊歩道の敷石は、元横浜市内を走っていた市電の軌道敷で花崗岩(ミカゲ石)。~横須賀市HPより抜粋転載~
横須賀美術館は、市制100周年を記念し、2007年に開館。建物は、県立観音崎公園の豊かな緑が三方を囲み、目の前には東京湾が広がる恵まれた環境の中にある。館内でも常に周囲の自然が感じられるよう、天井や壁面に大小の丸穴が開けられ、開放的な空間となっている。 海側からと山側からのどちらからもアプローチでき、通り抜けできるようにすることで、周辺散策と展覧会観覧のどちらも楽しめるのが特長。~横須賀美術館HPより抜粋転載~
横須賀美術館 おさんぽマップ
「谷内六郎館」
谷内六郎(1921-81)は家族と共にたびたび横須賀を訪れ、1975年に観音崎公園にほど近い場所にアトリエを構えた。そうした縁から、1998年に遺族から『週刊新潮』の表紙原画約1300点をはじめとする膨大な数の作品や関連資料が寄贈された。当館では年4回開催するテーマ展示を通じ、谷内六郎の作品をさまざまな視点から紹介している。~横須賀美術館HPより抜粋転載~
「海の広場」
建物前面に広がる芝生が「海の広場」。ワークショップ室と連動した活動や野外映画会などのイベントを行うこともある。若林奮の巨大な屋外彫刻《VALLEYS》(1989年制作/2006年設置)があるのもこちら。
屋外彫刻《VALLEYS(2nd stage)》-若林奮氏-
(1989年制作/2006年設置)
「美術館本館入口」
作品以外に何の装飾もない高い壁にあるのは、ところどころに設けられた丸い窓。窓の向こうにはレストランで食事している人が見えたり、海に浮かんでいる船も見える。
「らせん階段」
階段途中から
「恋人の聖地」
平成19年(2007)に恋人の聖地選定委員会により「恋人の聖地」に選定された。アートと自然を一度に楽しめる当館は、デートにもおすすめの場所。屋上ペントハウスには、「恋人の聖地」銘板も。 東京湾の絶景をバックに、大切な人との写真をお撮りください。~横須賀美術館HPより抜粋転載~ とのこと。(笑)
「屋上広場」
山側からもアクセスできるよう、本館のガラス屋根の上にはグレーチング床の「屋上広場」がある。ペントハウスから館内に入ることができるので、山側からはいって1階に下り、正面入口に通り抜けることができる。
「山の広場」
「屋上広場」の先には県立観音崎公園へと続く「山の広場」を設けている。視線の先には東京湾が広がり、周囲の景観との一体感を味わえる。
「山の広場」より"森の散歩道"をあがる
「ビュースポット」
横須賀風物百選「走水神社」
走水の地名は、すでに古事記(712年)や日本書紀(720年)の中に表れている。大和朝廷時代には、上総(千葉県)を経て東北地方に渡る最も便利な道として、この地方に古東海道が通じていた。走水神社の祭神は、日本武尊とその后弟橘媛命の二柱。神社の創建された年代については、享保年間の火災で、神社の記録や社宝が焼失してしまったのでわからない。伝説では、景行天皇の即位四十年(110年)、東夷征討の命を受けた日本武尊が、この走水から上総へ渡られるにあたり、村民に「冠」を賜りましたので、冠を石櫃に納めて、その上に社殿を建て、武尊を祭ったことに始まると伝えている。日本武尊が渡海の際、海上が荒れ、いまにも舟が沈みそうになった。海神の怒りであると考えられた弟橘媛命は、"さねさしさがむのをぬにもゆるひの ほなかにたちてとひしきみはも"の歌を残し、日本武尊に代わって海に身を投じ、風波を鎮めた。弟橘媛命は、もと旗山崎に橘神社として祭られていたが、その地が軍用地に買収されたため、明治42年、この神社に祭られた。明治43年6月、弟橘媛命の歌碑が、東郷平八郎、乃木希典など七名士により、社殿の裏手に建てられた。社殿の階段下の右側にある「舵の碑」は、弟橘媛命の崇高な行いにあやかり、航海の安全を願って国際婦人年(昭和50年)を機に、また、左側にある「包丁塚」は、走水の住人大伴黒主が、日本武尊に料理を献じて喜ばれたとの古事により、包丁への感謝と鳥獣魚介類の霊を慰めるため、昭和48年に建てられたもの。~下記案内板より抜粋転載~
「鳥居」
明治維新となり神仏分離。明治6年(1873)、郷社に列した。現在も「郷社走水神社」の社号碑が残る。
狛犬
「手水舎」
湧水(由来):この水は深さ30mより湧き出ているミネラルを含んでいる真水。その昔、走水は宿場町として栄え船に積む飲料水に利用されていた。富士山より永い歳月を掛けてこの辺一帯に湧き出ていると云われている。 ~現地案内板より抜粋転載~
お砂取りができる「御砂倉」
後ろを振り返ると海まで一望できる。
「社殿」
社殿の右手「露國機械水雷」
左手に「稲荷神社」
社殿の裏手に「旧別宮」
さらにその奥に「水神社」
河童の恩返し <走水>
走水神社の裏山にあった清流は、どんなに日照りが続いても涸れることなくたくさんの河童が暮らしておったそうな。ところが多くの河童の中には、いたずら者もおって、時々里を下りてきては悪さをしたそうじゃ。心優しい村人たちも度重なる河童のいたずらに困り果てて、いつか折りがあったら懲らしめてやろうと思うことになったそうじゃ。ところがそんなある日、突然ゴーツと地鳴りがしたかと思うと、村じゅうがユッサユッサと大きく揺れだし、村は大騒ぎになりよった。目の前の海や神社の裏の水がボチャボチャと音をたてたそうな。その時、村の長が大声で叫んだと。「津波がくるぞー。船を上げて神社の裏山に逃げろー」村はまたまた大騒ぎになりよった。この騒ぎを聞いた河童たちは集まって、いつも村人たちに迷惑をかけていたのだから「村人たちが困っている今、みんなで恩返しをしよう」、と相談したそうな。河童たちは山の上から大きな石をゴロゴロ押して浜まで運び、村の海岸に沿って大きな堤防を作ったそうじゃ。そして一匹残らず水の中に入り、岩を押さえて村を守ろうとしたんじゃと。ところがその日の津波は今までにない大きなものじゃった。それでも、河童たちが、岩を必死に押さえてくれたお陰で、村は大きな被害にあわずにすんだそうな。しかし、必死に村を守った河童は一匹残らず、津波の犠牲になってしまったそうじゃ。村人たちは、命をかけて村を守ってくれた「いたずら河童」を思い涙を流し、感謝の心を忘れんように「村の守り神」になってもらおうと、神社の樟の根元に「河童の神禄」を祀ったそうじゃ。『走水古老のはなし』より
「別宮」
(十王・侍女を祀る)
西暦110年10月15日弟橘媛は、日本武尊の東征成功を願い、荒波の走水海に入水された。その時に、同伴の侍女たちが媛の後を追い入水された。この別宮には同行の武勇士十人(十王)も合祀。十王様も社宝としている。~下記案内板より抜粋転載~
「弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)記念碑」
明治43年6月5日除幕。伊豆石高さ一丈四尺。東郷平八郎、乃木希典他7名により建立される。
「弟橘媛命記念碑」
日本武尊 弟橘媛命の御遺蹟を偲奉りて(弟橘媛命の記念碑裏面 東郷平八郎閣下の草案に成ると曰ふ)~以下略~
この石碑は伊豆石で高さは42m。走水港に陸揚げされここ迄運んで建てたもの。昌子内親王は明治天皇の第六皇女。裏面に解説や建立年月日及び東郷平八郎以下発起人七名の名前が書いてある。走水神社氏子会 ~下記案内板より抜粋転載~
記念碑は明治42年(1909)10月に勲一等昌子内親王(明治天皇第六皇女)御染筆により弟橘媛命の今際の御歌が刻まれ、碑背には発起人による撰文と氏名が刻まれている。除幕式は明治43年6月5日に行われている。
さねさしさがむのをぬにもゆるひの ほなかにたちてとひしきみはも 勲一等昌子内親王書
嗚呼此は 弟橘比賣命いまはの御歌なり命夫君 日本武尊の東征し給ふ伴われ 駿河にては危き野火の禍を免れ 此の走水の海を渡り給う時端無く暴風に遭ひ 御身を犠牲として尊の御命を全からしめ奉りし其のいまはの御歌なり御歌に溢るゝ真情はすべて夫君の御上に注ぎ露ばかりも他に及ばず其の貞烈忠誠まことに女子の亀鑑たるのみならず 亦以て男子の模範たるべし平八郎等七人相議り同感者の賛成を得記念を不朽ならしめむと御歌の御書を 常宮昌子内親王殿下に乞ひ奉り彫りてこの石を建つ 明治42年10月
「神明社」扁額の鳥居
「古代稲荷社」と記された祠
境内社
左から「諏訪神社」・「神明社」・「須賀神社」
社殿への長い石段の手前
「弟橘媛の舵の碑」
弟橘媛命が崇高な情熱をもって守られたこの浦賀水道は近年世界の船の航行もはげしく海難を防ぐことは各方面から要望されるところです。国際婦人年に当たり由緒あるこの大舵に航海の安全を託してゆかりの地走水に建立海への関心を高めたいと思います。遠つ世に弟橘の鎮ませるこの海原よやすらけくこそ 昭和50年11月吉日 弟橘媛命舵の碑を建てる会発起人一同
「宝物殿」
「針の碑」
草枕 旅の丸寝の紐絶えば あが手とつけろ これの針持し
「御神木」
参道の左手に「庖丁塚」
ここからも振り返えってみると
絵馬も"弟橘媛命さま"