府中散策 -大國魂神社と多摩川かぜのみちの桜-


府中は、2020年9月30日に「府中郷土の森博物館」へ"彼岸花"、2025年3月1日には"梅の花"を観賞、併せて「東京競馬場」へ行っています。今回は府中本町駅から「府中郷土の森博物館」とは反対側の「大國魂神社」を参拝し、「馬場大門欅並木」、「国史跡 武蔵国府跡」を訪ねてから「多摩川かぜのみちの桜」のさくら🌸道を歩いてきました。「大國魂神社」の枝垂桜🌸も満開でした!! -2026.03.28-

上記:府中観光協会

大國魂神社(府中市宮町)


武蔵総社「大國魂神社」

(おおくにたまじんじゃ)

当神社は、大國魂神(おおくにたまのおおかみ)を武蔵の国魂と仰いで、鎮祭し祠った神社である。 第12代景行天皇41年(111年)5月5日大神の託宣によって創立せられ、武蔵国造が代々奉仕して祭務を司った。 其の後孝徳天皇の御代に至り、大化の改新(645年)により武蔵の国府がこの地に置かれて、当社を国衙の斎場として、 国司が祭祀を奉仕して国内の祭政を司った。 国司が国内諸社の奉幣巡拝等の便により側に国内の諸神を配祀したので「武蔵総社」と称し、又両側に国内著明の神社六社を奉祀したので 「六社明神」「六所宮」とも称された。 鎌倉幕府以後徳川幕府に至るまで代々幕府の崇敬厚く、再三社殿を造営し、徳川幕府より社領500石を寄進せられた。 明治18年より昭和21年迄官幣小社に列せられ、其の後宗教法人となる。(例題祭五月五日)大國魂神社・府中市観光協会 ~下記案内板より抜粋転載~

境内案内図

社号碑

「大鳥居」

高さ】10m重さ95t奉納年昭和26年 御影石製では日本一と言われている。大國魂神社HPより抜粋転載~

「稲荷神社」

旧町内神戸(ゴウド)の方々に崇敬されている神社。 神戸稲荷神社とも称される。大國魂神社HPより抜粋転載~

神社名 摂社 「宮之咩神社」

(みやのめじんじゃ)

主祭神名】天鈿女命(あめのうづめのみこと)由緒この神社の創立は御本社大國魂神社と同じ景行天皇の御代(111 年)であると伝えられ、古くから芸能の神、安産の神として崇敬されている。例祭日は七月十二日で、文治2年(1186 )源頼朝より武蔵野国中の神職に天下太平の祈願を行なうよう令して以来、毎年この日の夕刻より翌朝にかけて、国中の神職が参会し終夜神楽を奏し祈祷が行われた。この祭りは青袖・杉舞祭と言われる。(今は国中の神職は参加しない)、また、頼朝の妻政子が当社に安産を祈願したという伝えもある。安産祈願の折りに願いを託した絵馬を奉納し、無事願いが叶うと御礼に底のぬけたひしゃくを納める風習が今でも行われている。北多摩神道青年会~下記案内板より抜粋転載~

願いが叶った御礼の"底のぬけたひしゃく"

「日露戦役記念碑」

日露戦役記念碑(明治40年3月)石碑表には、元師・伯爵野津道貫の書により「日露戦役記念」裏面には米庵流の書家本田退庵の書による出征軍人の名が刻まれている。大國魂神社HPより抜粋転載~

「忠魂碑」

大東亜戦争における郷土出征戦没兵士の忠魂を偲んで建立。 毎年9月24日に府中市戦没者慰霊祭を行っている。大國魂神社HPより抜粋転載~


「手水舎」

当社にいつから「手水舎」が存在するか定かでは無いが、資料の中にその移り変わりを見ることが出来る。江戸名所図絵(天保5~7年)の境内図では随神門と拝殿の中間にそれらしきものが確認できる。また明治24年発行の境内図では現在の枝垂桜のあたりに移り、さらに明治37年発行の境内図では同じ場所に装いも新たに描かれている。現在のものは明治30年完成で、棟梁は当時拝殿や随神門の建築を手掛けた佐藤彌一、中村長作である。千鳥破風の屋根もさることながら、特筆すべきは獅子や龍、獏や鳳凰等の彫刻である。これは江戸彫工の飯田家四代目、飯田勇次郎によるものである。また水盤には文化10年(1813)の彫が入っており、江戸名所図絵に描かれているのはこの水盤で間違いないだろう。当社が明治18年に官幣小社に列格されてから、拝殿から神輿に至るまで様々なものが新調、改修されてきた。その流れで手水舎も新しく立派なものを拵えようとして、元々使っていた水盤を残し、その周りに新たな母屋を作ったのではないだろうか。現在も参拝者が利用しているこの手水舎は平成23年大國魂神社御鎮座壱千九百年記念の際に改修が行われ、随神門外側西参道角に移設された。その際、この工事を手掛けた田丸屋建設株式会社より新たな水盤が奉納されている。旧水盤は大國魂神社の所管社、国府八幡宮に旧随神門と共に移築されている。大國魂神社HPより抜粋転載~

「随神門」前の狛犬と桜

「随神門」(ずいじんもん)

平成23年に大國魂神社御鎮座壱千九百年事業として改築された。門は高さ8.5m幅25m、門扉は高さ4.5m幅4.7m。扉一枚は畳5畳分程。国産の檜で製作され、屋根は銅板葺き、木造の門としても希に見る大きさである。正面には随神像、後面には恵比寿・大国が納められている。随神像は大國魂神社氏子青年崇敬会が独自に浄財を集め、東京藝術大学で製作された。俗に右大臣左大臣と呼ばれる「豊磐間戸命」「櫛磐間戸命」という門の神様である。享保20年(1736)に押立村出身の代官川崎定孝により奉納された「随神像」に倣い製作された。製作には古くから伝わる顔料、材料を使用し、江戸時代に作られたであろう行程で製作された近年では類を見ない「随神像」である。門の設計にあたっては、くらやみ祭での神輿や大太鼓の出入りをスムーズにする為に、先ず間口と高さを決めてから全体の設計にあたった。~大國魂神社HPより抜粋転載~

上記写真:大國魂神社HPより転載

境内側から

干支大絵馬

<府中市指定文化財有形文化財(建造物)>

大國魂神社「鼓楼」(ころう)

鼓楼は太鼓を懸け時刻を知らせるための建物で、元来中国で発達し、わが国へは鎌倉時代に移入され、主として寺院に設けられた。そして江戸時代になると鐘楼と相対して造られることが多く、宇治の万福寺や日光東照宮のものがよく知られている。大國魂神社では慶長年間の造営の際に、三重塔と相対して建てられたが、正保3年(1646)の大火で焼失、200余年たった嘉永7年(1854)に再建された。現存するこの鼓楼は、その再建連社板によれば、府中をはじめ日野・多摩・町田の各市域の17名の人々によって寄進されたものであることがわかる。その後、数度の修理が加えられているが、よく当初の原形を保っており、神社では数少ない貴重な建築物です。 府中市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「宝物殿」

氏子崇敬者の協賛により昭和49年11月に落成。 校倉様式で内部は火災、盗難、防湿等最新の施設が設備され、一階には八基の神輿と大太鼓が格納され、二階には重要文化財の狛犬を始め御神宝等数々の宝物を展示。大國魂神社HPより抜粋転載~

「神楽殿」

常設の神楽殿は平安末期には見られ、鎌倉時代より普及し建築物の一部を利用したもの、独立専用の建造物の他に拝殿を兼ねる場合もある。独立した建築様式としての特徴は舞楽の影響の強い正方形に近い壁のない高舞台に匂欄の付いたものや能舞台に近いものなどがある。当神楽殿は昭和6年4月、内務省により昭和天皇の御大典記念事業として建設されたが、壁の剥離や銅屋根の雨漏りが酷いため平成7年4月御本殿屋根修理と同時に改修工事を行う。大國魂神社HPより抜粋転載~

明治100年を記念して植樹された枝垂れ桜


「中雀門」

延べ】80m】2m軒高】2.5m 明治維新百年記念事業として昭和44年7月現在の物に建て替える。

上記写真:大國魂神社HPより転載

「中雀門」前の狛犬とさくら

「拝殿」

現在の拝殿は明治18年、当社が官幣小社に昇格した年に改築したものである。その後昭和53年に改修された。内部で拝殿と幣殿に分かれている。構造は流造・切妻千鳥破風・銅板葺素木造である。かつて将軍徳川家康が慶長年間に社殿を造営した際には拝殿と本殿の間に幣殿が建立されていたが大火で焼失し、再建後に拝殿と幣殿が一体となった。拝殿正面「総社六所宮」の扁額は江戸時代中期の書家勝間龍水によるものである。大國魂神社HPより抜粋転載~

上記写真:大國魂神社HPより転載

拝殿正面の扁額:「総社六所宮」

江戸時代中期の書家勝間龍水によるもの

「拝殿」横から

<東京都指定有形文化財(建造物)> 

「大国魂神社本殿」

律令時代国府にいた国司が国内における大社六社を一所に勧請祭祀したのが始まりで、当時は武蔵総社、六所社と称していた。源頼朝以降、歴代将軍家等武家の尊信が厚かったという。現存する本殿は、正保3年(1646)の火事による全焼の後、徳川四代将軍家綱の命によって、寛文7年(1667)3月完成した。その後何度か修理を行なっているが、古式を伝えている。構造は一間社流造の社殿三棟を横に連結した三間社流造の相殿造。流造とは前面の屋根が長く伸びて庇(向拝)となったもの。流造自体は神社の建築様式しては最も一般的な形だが、三棟合わさった構造様式は、遺例が少なく珍しいものです。三棟の社殿は一つ屋根の下にあるがそれぞれ別々の神を祀っている。東京都教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「水神社」(みずじんじゃ)

祭神水波能売命(みづはのめのみこと)加茂別雷命(かもわきいかづちのみこと)玉依姫命(たまよりひめのみこと)

加茂建角身命(かもたけつぬみのみこと) 【例祭】12月16日 創立年代不明。社殿は嘉永2年(1849)のもの。かつては祠が御供所(現休憩所)の東側に鎮座し、本殿と同じく北を向いていた。昭和58年12月16日に境外末社滝神社より御霊分けをされ、平成17年に現在の場所に移設され祠の下に岩の台座が設けられた。大國魂神社奉賛会記念事業の一つとして作られた深井戸を利用して地下水を竜頭口より流している。御水取りに来る参拝者で賑わう。大國魂神社HPより抜粋転載~

「松尾神社」(まつおじんじゃ)

祭神】大山咋命(おおやまくいのみこと)例祭】9月13日 当神社は寛政12年(1800)武蔵国の醸造家の懇請により京都の松尾大社より勧請された神社。鳥居は文化4年(1807)に建立されており、奉納した醸造家達の名前が彫られている。御祭神である大山咋命は、太古より醸造の守護神であると共に開拓の粗神として御神徳高き神で、酒、醤油、味噌、麹等の業者及び開拓関係者の信仰厚く霊験顕著で有名である。昭和31年(1956)に東京都酒造組合により現在の覆屋が奉納された。大國魂神社HPより抜粋転載~

「巽神社」(たつみじんじゃ)

祭神】市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)俗に弁財天 例祭】4月1日 当神社の創立は不明だが、社伝によると享保の頃再興したとある。元は市川にあった市神社で、市場にはその守護神即ち市神社(俗に弁財天)祀った社があった。その社を当神社の御本殿から辰巳南東の方向に遷座されたので巽神社という社号がついた。花柳界の信仰が厚い。一時は久しく廃せられていたが享保年中に小祠として再興された。氏子崇敬者により昭和57年2月に御影石製の神明鳥居と石灯籠2基が奉納された。大國魂神社HPより抜粋転載~

「東照宮」(とうしょうぐう)

祭神】徳川家康公【例祭】6月1日 元和4年(1618)二代将軍秀忠の命によって造営された。徳川家康公は大國魂神社の西、今の府中本町駅付近に御殿を建て鷹狩りを行っていたなど神社と縁が深く、歿後、駿河国久能山から下野国二荒山に霊輿を遷された時、その途次この国府の斎場に一夜逗留せられ、当社の宮司が祭祀を務めたのでその遺跡を後世に伝える為造営された。平成26年に市指定有形文化財に指定された。大國魂神社HPより抜粋転載~

「住吉神社」・「大鷲神社」

「住吉神社」:【祭神表筒男命(うはづつおのみこと)中筒男命(なかづつおのみこと)底筒男命(そこづつおのみこと)

例祭10月1日 御本社は大阪住吉にあり、その御分霊を祭祀している。海上守護の神、除災招福の神として崇敬せられている。大阪の住吉神社境内にある燈台、高燈籠に油商人が菜種油を献上したため民間信仰となり、府中近郊の油商ら18名が世話人となり嘉永2年に当社境内に勧請せられ、油の神とも称された。

「大鷲神社」:【祭神大鷲大神(おおとりのおおかみ)例祭11月酉の日 御本社は大阪堺の大鳥神社でその御分霊を祭祀している。元は武運を守護する神として信仰されたが、現在では【おとりさま】と称され開運の神・商売繁盛の神として信仰が厚い。文久3年に府中新宿町に祭祀された大鷲神社を明治43年町内有志者により当社境内の住吉神社に合祀せられ現在に至る。毎年11月の酉の日には熊手市が立ち、多くの参拝者で大変にぎわう。

狛犬


絵馬:「御祭神の大国主命と白兎」

府中の名木百選「大國魂神社のケヤキ」

大鳥居前のケヤキ

樹高:7.0m 幹周:6.8m 

馬場大門欅並木


「大魂神社と馬場大門欅並木」

馬場大門 ケヤキ並木は大國魂神社の参道であり、江戸時代には並木北端(都立農業高校付近、ケヤキ並木南端から550m余北)に大魂神社の木製の一之鳥居が建立されていた。現在では昭和26年に寄進された大鳥居(二之鳥居)が境内に建立されている。ケヤキ並木の起源は 源頼義 ・義家父子が奥州・安部氏反乱(「前九年の役」と呼ばれ、永承6年(1051)から康平5年(1062)までの乱)の平定の途中、大魂神社に戦勝を祈願し、平定後も参拝してケヤキの苗千本を奉植したのが始まりと伝えられている。現在のケヤキ並木は天正18年(1590)に徳川家康が江戸に入り、慶長年中(1596~1615)に二筋の馬場を寄進し、両側に土手を築いてその上にケヤキの苗を植えたのが始まり。その後、寛文7年(1667)に老中久世大和守(くぜやまとのかみ)が府中宿の大火(正保3年(1646))で焼失した六所宮(大魂神社)の再興とともにケヤキ並木の補植を行っている。なお、徳川家康によるケヤキ並木馬場の寄進は、府中で伝統ある馬市が開かれていたことにもよる。とくに、府中の馬市は戦国時代から江戸時代初期にかけて、関東でも有数の軍馬の供給地であり、馬市は5月3日の「駒くらべ」の日から始まり、9月晦日(みそか)まで5ヶ月にわたって開催された。ケヤキ並木は大正13年、国の2番目の天然記念物に地域指定されている。毎年5月の例大祭(くらやみ祭り)では、3日にケヤキ並木で夕方から囃子の競演、競馬式(駒くらべ)が執り行なわれている。 大魂神社・ 府中市観光協会 ~下記案内板より抜粋転載~

<府中市指定文化財有形文化財>

「ケヤキ並木馬場寄進の碑」

馬場大門のケヤキ並木両側の歩道部分はかつて馬場であり、「馬場大門」の名称もこれに由来。馬場は、慶長年間(1596~1615)に徳川家康が六所宮(現大國魂神社)に寄進したものと伝えられている。この碑は由緒ある馬場を長く後世に伝えるために建てられたもので、花崗岩の石に「従是一之鳥居迄五町余 左右慶長年中御寄附之馬場」と刻まれている。石碑がいつ誰によって建てられたかは不明ですが、江戸時代後期の地誌「武蔵名勝図会」に図入りで紹介されており、その頃には有名であったことが知られている。~下記案内板より抜粋転載~

「源義家公とけやき並木」

国の天然記念物「馬場大門けやき並木」は、九百四十有余年前、源頼義公・義家公父子が奥州平定の「前九年の役」の途次、大國魂神社に戦勝を祈願し、同役平定後の康平5年(1062)勝利の報賽として、神社にけやきの苗木千本を寄進したことにはじまる。その後、徳川家康公により、補植されて現在の姿になったが、この場所にあった周囲9mに及んだ大けやきは、頼義公・義家公父子が奉植されたものと伝えられ、ご神木として氏子から敬愛されていた大けやきであった。その大けやきも、度々の暴風雨と、近くは昭和24年のキティ台風によって、幹や大枝が折れ、その後、残った幹の空洞内の出火で枯死してしまった。義家公は、清和源氏に発する河内源氏の嫡流として、七歳の時、岩清水八幡宮で元服、よって八幡太郎と号したが、前九年の役・後三年の役で卓抜した武勇をあらわした公の代に、源氏の武威の最盛期を迎えた。このような大国、武蔵の国の国府であった府中、大國魂神社、けやき並木と源義家公の史実を後世に伝えるため、当時の若さあふれる公の像をこの地に建立するものである。この「八幡太郎源義家公之像」が府中の歴史を伝え、永く市民各位の心に生き続けることを願いたい。制作は、高岡市在住、勅許御鋳物師藤原朝臣喜多家第三十代当主の三男、喜多敏勝先生 題字は、財団法人日本書道美術院審査員、鹿島敬帆先生の揮毫による。東京府中ロータリークラブ ~下記案内板より抜粋転載~

国史跡 武蔵国府跡(国司館地区)(府中市本町)


ここは、今から1300年ほど前に武蔵国府の国司館(こくしのたち)があったところ。さらに今から430年ほど前に、徳川家康の府中も置かれた府中市の歴史を象徴する国の史跡。保存・整備にあたっては、発掘調査の成果をもとに、国指定を受けている国司館跡を中心に整備を行った。~下記案内板より抜粋転載~

「国司館」とは

国司館(こくしのたち)とは、奈良時代前期に、都から武蔵国の国府に赴任してきた国司の居宅。そこでは、国司が宿泊逗留するだけでなく、様々な儀式や饗宴が行われ、都から最先端の文化が伝えられた国府の重要な施設でした。国司館は、発掘調査の成果から、国司館のもっとも中心的な建物で、居宅兼執務室、宴の場などの機能があった主殿、日常の執務や様々な儀式に対応する脇殿、それらの物品の保管などの機能があった付属建物を10分の1サイズで復元した。~府中市役所HPより抜粋転載~

国司館を1/10サイズで再現した模型

原寸大で復元した国司館の柱

「徳川家康府中御殿」とは

府中御殿は、豊臣政権下の天正18(1590)年に造営され、徳川政権下に引き継がれ、家康、秀忠、家光の三代にわたって使われ、正保3(1646)年、府中大火で焼失し、その後は再建されませんでした。御殿とは、徳川将軍家が鷹狩りなどの際に宿泊逗留した施設で、家康、秀忠も府中御殿に滞在したことがわかっている。発掘調査で、徳川将軍家の初期の三葉葵紋鬼瓦が発見されたことから、ここに府中御殿があったことが考えられている。~府中市役所HPより抜粋転載~

徳川将軍家の初期の三葉葵紋鬼瓦

上記:府中市

府中多摩川かぜのみち(府中市是政)


市の南側を流れる多摩川沿いの堤防上、東西約10キロメートルにわたる歩行者・自転車専用の道。(市立公園として管理)

桜並木が続くのは、関戸大橋から下流あたり。土手沿いに植えられた470本の染井吉野が春の散策路を彩る。