玉川上水の起点の「羽村の堰」から玉川上水沿いに散策。新緑からの木漏れ日や流れる玉川上水の水と橋ごとに変る景観を感じながら、気持ちよく歩いてきました。前回は、「静願院橋」(玉川上水駅)から「小金井橋」まで。本日の行程は、「小金井橋」から「三鷹橋」。三鷹でランチ後、「三鷹橋」から玉川上水に沿って設けられた"風の散歩道"を歩き、「三鷹市山本有三記念館」を訪問したり、「井の頭恩賜公園」の敷地内の玉川上水沿いの緑道を歩いて、玉川上水開渠終点の「浅間橋」まで。目標のGOALまで達成、歩き切りました💦 次は玉川上水の終着点「四谷大木戸」へ行く予定です。 -2026.05.19-
上記散策マップ:東京都水道局HPより転載
玉川上水は、江戸時代の承応3(1654)年、江戸市中への給水を目的として作られた上水で、多摩川中流の羽村取水口から四谷大木戸までの約43kmは素掘りの開渠、江戸市中は暗渠であった。承応元(1652)年、幕府は多摩川の水を江戸に引き入れる壮大な計画を立て、庄右衛門、清右衛門兄弟を工事請負人に任命した。承応2(1653)年工事着工、わずか8か月で開削し、翌年6月には虎ノ門まで地下に石樋、木樋による配水管を布設し、江戸城をはじめ、四谷、麹町、赤坂の台地や芝、京橋方面に至る市内の南西部一体に給水した。工事に尽力した兄弟は、褒賞として玉川の姓を賜った。約43kmの区間を約92mの標高差を利用して水を流すよう設計されており、当時の水利技術の高さがうかがえる。平成15年には開削350周年を迎えるとともに、国の史跡に指定され、現在でも、水道原水の導水路等として機能している。~東京都水道局HPより抜粋転載~
三鷹駅北口前の「欅橋」から暗渠になっていた玉川上水は、三鷹駅南口で出てきて開渠となる。
三鷹駅南口
右側が「旧三鷹橋」の親柱
「旧三鷹橋」
上記写真:みたかナビHPより転載
「三鷹橋」
玉川上水の三鷹市側には「風の散歩道」と名付けられた遊歩道が「三鷹橋」から「井の頭公園」(万助橋)まで続く。
「風の散歩道」
JR「三鷹」駅南口から「井の頭恩賜公園」の手前まで玉川上水に沿って設けられた約800mの歩道。1994(平成6)年度から約8年をかけて整備。その際、江戸時代の貴重な歴史的遺構である玉川上水に配慮して、歩道は天然の御影石を使ったブロック舗装、照明灯や車止めは色調をこげ茶色に統一し、全体が落ち着きのある高品質な道路づくりを目指した。道沿いには、歴史的、文化的に貴重な文化財や施設も数多くある。
玉川上水沿いに1.5mの散歩道、住宅側には3.5mの歩道
上記写真:みたかナビHPより転載
左側の玉川上水沿いの遊歩道
「Pokiのデザインマンホール蓋」
住宅側の歩道には"足あと"
「風の散歩道」の先にジブリ美術館がある
「玉鹿石」(ぎょっかせき)
青森県北津軽郡金木町産 1996年(平成8年)6月
太宰治を偲んで、故郷、青森県五所川原市金木町産の玉鹿石を石碑とした。このあたりの玉川上水で、太宰は入水した。
「太宰碑」
四月なかば、ひるごろの事である。頭を挙げて見ると、玉川上水は深くゆるゆると流れて、両岸の桜は、もう葉桜になっていて真青に茂り合い青い枝葉が両岸から覆いかぶさり、青葉のトンネルのようである。……… 太宰 治「乞食学生」より
1948年(昭和23年)6月 太宰 治は近くの玉川上水で自らその39年の生涯を終えた。 ~下記案内板より抜粋転載~
上記写真:上記写真:みたかナビHPより転載
「むらさき橋」
<三鷹市指定文化財>
「三鷹市山本有三記念館」(山本有三氏旧宅)
【種別】重宝【年代】大正15年(1926)頃【指定年月日】平成6年7月14日【所在地】三鷹市下連雀二丁目12番27号
著名な文学者で三鷹市名誉市民でもあり山本有三氏(明治20年~昭和49年)が、昭和11年から21年まで居住された建物。同氏はここで代表作「路傍の石」を執筆したが、進駐軍に接収され転居した。その後、昭和31年に土地とともに東京都に寄贈され、昭和60年には三鷹市に移管された。平成8年11月に、有三氏の業績を顕彰するとともに、貴重な文化財としての保存を目的として、「三鷹市山本有三記念館」が開館した。この建物は、当時導入された海外の近代的様式の折衷的表現を試みており、特色のあるデザインを示す洋風建築である。特に外部の暖炉煙突の石積みは、日本にはめずらしい表現である。三鷹市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
建物内に入らず庭を散歩するだけなら無料なので、今回は記念館の建物外観と庭園を観賞。
白を基調とした漆喰の壁の門
山本有三を顕彰する石碑
北側庭園
北側外観
玄関
北西側外観
南側外観
有三記念公園
少年、少女に心の糧を与え、育成しようとした故山本有三の意思を受け継ぎ、情操を高めるための公園として、昭和62年7月22日に開園した。建物の前庭から芝生のある自然空間がひろがり、有三が愛した築山の竹林、故郷栃木から運ばれた石で造った池が園路で区分された、有三の好んだ読書と休息の庭である。
「…私は、昔から竹が好きです。前のうちでも、今の住まいでも、私は庭や入り口に竹を植えております。」…「雪もちの竹」より ~下記案内板より抜粋転載~
門の前に「路傍の石」
名作を記念する“路傍の石”
小説「路傍の石」執筆当時の昭和12年、有三は中野旧陸軍電信隊付近の道ばたでこの大きな石を見つけ、この家の裏庭に運び込んだと伝えられている。この石は、作品の名に因み、いつしか“路傍の石”と呼ばれ親しまれるようになり、その後、東京都に寄附された山本邸が昭和33年有三青少年文庫として開設されるときに現在の位置に移された。山本有三記念館の開館にあたり、有三の名作「路傍の石」を記念するものとして、この石の由来を記します。三鷹市 ~下記案内板より抜粋転載~
「萬助橋」(まんすけばし)
「萬助橋」で吉祥寺通りと玉川上水と交差する。交差点を渡ると、「井の頭恩賜公園」の敷地内に入る。
「ほたる橋」
「幸橋」(さいわいばし)
「井の頭恩賜公園 第二公園」
「ナザレ修女会緑地」
玉川上水と都立井の頭恩賜公園の間にある小さな森。この緑地はナザレ修道院の境内地で、宗教法人日本聖公会ナザレ修女会のご厚意により市民へ開放している。
「新橋」
「松影橋」(まつかげばし)
緑豊かな玉川上水緑道が続く
玉川上水と井の頭公園通りが交わる交差点
交差点に架かる「井の頭橋」
「若草橋」
「宮下橋」
「東橋」
「長兵衛橋」
木が張り出しています
「どんどん橋」(旧牟礼橋)
上記写真:東京都水道局HPより転載
「どんどん橋」から見た「牟礼橋」
「牟礼橋」(むれはし)
「久我山水衛所跡」
木々が生い茂り見えず…
後ほど調べました!!
上記写真:東京都水道局HPより転載
「兵庫橋」
「岩崎橋」
「玉川上水」
玉川上水は、多摩川の水を江戸市中に供給するため、承応2(1653)年、庄右衛門・清右衛門兄弟(後の玉川兄弟)が江戸幕府から下命され開削した上水路。西多摩郡羽村(羽村市)から四谷大木戸(新宿区内藤町)まで約43kmを開水路で導水し、そこから先は石管や木管によって江戸市内に給水した。杉並区内の流れは、牟礼橋から代田橋に至る約6km。工事はわずか一年有余といういおどろくべき早さで完成した。江戸市内への都市生活用水の供給というい本来の目的を果たす以外に、水の乏しかった武蔵野台地の村々に分水することで、飲料水・潅漑用水・水車の動力として新田開発をうながし、武蔵野台地の原野を畑作地帯へと変化させた。玉川上水の分水口の数は、『上水記』によると、最古の野火止用水をはじめ最盛期には総数33ヶ所にものぼり、杉並区内には、下高井戸村分水・烏山村分水・上北沢村分水の取水口があった。この説明版の前方にみえるのが烏山分水口跡で、上北沢村分水口跡(現在地より下流へ約40m)とともに貴重な遺構。このうち上北沢村分水には途中に三左衛門水車が設置され、近郷近在の人々に親しまれ、「車堀」と呼ばれた。江戸の人々の暮らしを支えた玉川上水は、明治31(1898)年、東京に近代水道が完成したため、同34(1901)年に廃止されたが、水路は大部分がそのまま淀橋浄水場への導水路として使用されていた。新宿副都心計画にともない、昭和40(1965)年に淀橋浄水場が廃止されると、流路はさらに短縮され、現在では小平監視所(小平市中島町)から上流域のみを水道導水路とし、中流域は東京都の清流復活事業により、水再生センターの高度処理水が導水されている。玉川上水は、平成15(2003)年8月、江戸・東京の発展を支えた歴史的価値を有する土木施設・遺構として、国の史跡に指定された。説明版の右手にある「岩崎橋」は、明治の中頃まで通称「庄ちゃん橋」と呼ばれ、農作業用に使用されていた。その後「樋口橋」と名を変えるが、昭和14(1939)年、現在の烏山に工場を建設した「岩崎通信機株式会社」の名をとって、現在に至っている。杉並区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~
GOAL!!までもう少し💦
「玉川上水緑道」入口
前方に「中央自動車道」の高速道路
開渠区間の終点「浅間橋」
「浅間橋」とマップには記載されているが、橋はなく、現在橋名だけが残っている。ここで、玉川上水は暗渠になる。
上記写真:東京都水道局HPより転載
「高井戸公園」交差点
下流方向。玉川上水はこれより下流は、ほぼ暗渠化されている。