足利散策 Ⅰ -足利学校・善徳寺-


今回は、前回訪れた群馬県桐生市の県境を挟んでお隣の栃木県足利市へ。昔から織物を通じて発展したふたつの街には、数々の歴史的な見どころがたくさん。「足利学校」「鑁阿寺」「足利舞姫神社」を中心に足利を散策してきました。-2025.05.13-

足利学校(足利市昌平町)


足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがあるが、歴史が明らかになるのは、室町時代の永享11年(1439)関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、鎌倉円覚寺から僧・快元(かいげん)を招いて初代の庠主(しょうしゅ=校長)とし、足利学校の経営にあたらせるなどして学校を再興してから。足利学校は、応仁の乱以後、引き続く戦乱の中、学問の灯を絶やすことなくともし続け、学徒三千といわれるほどに隆盛し、天文18年(1549)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして最も有名な坂東の大学」と世界に紹介された。江戸時代の末期には「坂東の大学」の役割を終え、明治5年に幕をおろしたが、廃校直後から有志による保存運動が展開されるなど、郷土のシンボル、心のよりどころとして足利学校の精神は市民の中に連綿として生き続け、平成2年の復元完成へとつながり、教育の原点、生涯学習の拠点として、新しい学びの心の灯をともしている。また、日本で最も古い学校として知られ、その遺跡は大正10年に国の史跡に指定されている。~足利市HPより抜粋転載~

足利学校史跡内マップ

上記マップ:足利市HPより転載

「入徳門」

足利学校に入る最初の門。天保2年(1831)鑁阿寺(ばんなじ)安養院の火災により焼失、同11年(1840)頃修築、それも腐朽し、明治42年(1909)に裏門を移転修築したと伝えられている。「入徳」と「徳に入る」という意味で道徳心を習得する所、すなわち学校に入るという意味。扁額「入徳」は、紀伊徳川家第十一代藩主大納言徳川斎順の書。~下記案内板より抜粋転載~

扁額

紀伊徳川家第十一代藩主大納言徳川斎順の書

史跡 足利学校跡

受付で入館料を支払う。入館券が「入学許可証」となっている。「入学許可証」と「学生証」のシールとパンフレットが貰える。


「孔子立像」

釈迦、キリストとともに世界の三聖人の一人として崇められている孔子は、中国春秋時代の魯国(現在の山東省済寧市曲阜)の人で、儒教の開祖として歴代の皇帝に尊崇され、後に「至聖先師」の称号を贈られた。儒学の経典『孟子』『大学』『中庸』と併せて四書の一つに数えられている『論語』は、孔子とその高弟の言行を、孔子の死後、弟子たちが論纂した書物。論語の名言は、2500年の時を経て、今なお燦然と輝いている。~足利市HPより抜粋転載~

「正一位霊験稲荷社」

足利学校第七世庠主玉崗瑞璵(九華)が書いた天文23(1554)9月、足利学校の鎮守である稲荷大明神の社殿を再建し、八幡大菩薩を合祀したとあることから、創建はこれよりさかのぼる。霊験あらたかで、江戸時代には足利の町をはじめ多くの人々の信仰をあつめた。伝えによれば、稲荷社の狐が異変を知らせてくれたことから、大切にされ、11月には、御供小豆飯をわらにのせ、狐穴に供えたという。明和7(1770)第十六世庠主千渓元泉が、稲荷大明神を改め、正一位霊験稲荷社とした。参道左右の石灯籠は、元文2年(1737)と明治40年(1907)、水屋の手水鉢は、天明7年(1787)に、神前にある佐野天明鋳物の灯籠は、安政4年(1857)に寄進されたものである。もとは遺跡図書館付近にあったが、天神などの諸神を合祀し、明治42年(1909)に現在地に移された。現在は学業成就の神として信仰されている。~下記案内板より抜粋転載~

絵馬

「学校門」

日本で唯一の「学校」の額がかけられた門。寛文8年(1668)に建てられ、足利学校のシンボルとして江戸時代から今日まで受け継げられてきた。「学校」という言葉は、儒学の教科書の一つである「孟子」の中にある言葉。扁額「學校」は、明の書家 蒋竜渓(しょうりゅうけい)の書を、江戸国史館助教授の狛高庸が縮小したもの。~下記案内板より抜粋転載~

「かなふり松のデザインマンホール」

関ヶ原の戦いの際、徳川家康の本陣に参陣した庠主(足利学校の校長先生)が家康から直筆の丸に学の字が書かれた旗をもらったという記録があることや、足利学校では易経や兵学、医学、天文学などが教えられ、国宝に指定されている易占いの本が伝わることから、開運大吉や学業成就を表す卦が選ばれ、マンホール蓋のデザインができた。史跡内に設置するため、周りの石畳の色になじませるように着色されている。蓋の中央には、徳川家康から足利学校の庠主へ贈られた旗に記されていた○に学の字。ただし旗が現存しないため、足利学校中興の祖、上杉憲実の字を使った。その背面には、学徒が読めない字などを紙に書いて枝に結ぶと、ふりがなや注釈が付けられていたという伝説が残る「かなふり松」が覆い、外周は開運大吉や学業成就のほかに「水が流れるように物事が良く進む」という意味のある易占いの卦が取り囲んでいる。また、松葉のデザインには漢数字の『五』が隠されている。見つけたら、指でなぞると「五を書く」=「ごをかく」=「合格」と、合格の願いを込めることができる。

~足利市HPより抜粋転載~

「字降松(かなふりまつ)」

足利学校の第七世庠主(校長)九華和尚のころのこと。学生が読めない字に出会ったとき紙に書いてこれを廟前の松の枝につけておくと和尚がみて、ふり仮名や注釈がつけてくれたので、「字降松」と呼ぶようになった。当時学問を志して、足利学校に学んだ学生と庠主との交流が偲ばれ、心温まる足利学校の伝説。~下記案内板より抜粋転載~

「孔子廟(聖廟)」

孔子廟(聖廟)は、孔子を祀る廟。「大成殿」と「杏壇門」・築地塀からなる。大成殿は、寛文8年(1668)の建造で、正面五間、側面六間、屋根は寄棟造で本瓦葺、周囲に裳階(もこし)と呼ぶ庇を付けている。正面には「格子座像」、右側には「小野篁公座像」を安置している。「杏壇門」は、明治25年(1892)近隣の火災で焼失したが、明治33年に再建された。毎年11月23日には、この聖廟で孔子とその高弟を祀る釋奠が行われる。~下記案内板より抜粋転載~

「杏壇門」(きょうだんもん)

孔子廟の門が「杏壇門」。寛文8年(1668)創建だが、明治25年(1892)学校西方の火災により屋根、門扉が焼け、その後再建したもの。柱等に、この時の焼けた跡が残っている。

扁額:「杏壇」

紀伊徳川家第十代藩主大納言徳川治宝(とくがわはるとみ:1771~1852)の書。


「孔子廟」

建物の名称は「大成殿」。寛文8年(1668)足利学校第13世庠主伝英元教の時に造営された。

「木造 孔子坐像」

室町時代 天文4年(1535) 県指定文化財 寄木造  玉眼嵌入  座高78cm

頭巾をかぶり儒服を着けた像で、この姿は「行教像」といわれている。像の内側に墨書きがあり、当時の足利庄代官・長尾憲長(1503-1550)など造像に関わった人の名や、学校の様子が記されている。日本最古の孔子の彫像として大変貴重。~下記案内板より抜粋転載~

「木造 小野篁(おののたかむら)座像」

江戸時代延亨3年(1746) 市指定文化財 寄木造  玉眼嵌入  座高71.5cm

小野篁(802-852)は、平安時代の公卿、歌人で学問にすぐれ、野相公とよばれた人で、足利学校の創建者とする説がある。本像の制作にあたり、小野篁の子孫がお金を足利学校に寄付した記述が『足利学校記録』にある。~下記案内板より抜粋転載~

「方丈、庫裡、書院等」

主屋は、左の方丈と右の庫裡、書院を玄関と北廊下でつないだ建物。方丈は、六部屋からなり儀式や行事に使われた。庫裡は、竈のある土間、板敷きの台所、畳敷の四部屋からなり、日常の生活空間であった。書院には床、棚、付書院が設けられ、庠主の接客の場所などに用いられた。屋根は方丈と庫裡は茅葺、書院が板葺、玄関が本瓦葺。(宝暦年間の姿に復原)~下記案内板より抜粋転載~

「玄関」

本瓦葺きで唐破風が付いている。鬼瓦の「學」の字は足利学校を中興した上杉憲実の筆跡を模写したもの。

「玄関」から「方丈」

「方丈」

梁間11m、桁行17m、軒桁までの高さ5m、外側の柱から茅の先(軒先)までが2.8m

「庫裡」の入口から「方丈」へ。「庫裡」入口の前にあった「宥座之器(ゆうざのき)」。

「宥座之器(ゆうざのき)」

針生清司作 銅製 【高さ】210.0cm【奥行】125.0cm【幅】82.0cm 平成24年(2012)

史跡足利学校所蔵の『欹器図』を参考にして、群馬県館林市在住の針生清司氏(現代の名工)が制作し足利市に寄贈された。

~下記案内板より抜粋転載~

「体験してみませんか!」

①この器に、水を少しずつ、ゆっくりと入れてみて下さい。②傾いている器がだんだん水平になってきます。③さらに、入れつづけると、器は傾いて、水はこぼれてしまいます。

この「宥座の器」は、孔子の説いた"中庸"ということを教えるものです。よく言う言葉に"腹八分目"というのがあります。人は食べ過ぎれば、お腹をこわします。といって、食べ足りなければ、体力がつきません。食べ過ぎもせず、食べ足りなくもない、腹八分目の状態が理想なのです。それを中庸といいます。入れ足りなくてもだめ、入れ過ぎてもだめ。ちょうど、よい分量のとき、器は水平を保ちます。これを中庸というのです。

「欹器図(ききず)」

史跡足利学校蔵 紙本墨刷 縦56.2cm 横77.4cm 

江戸時代 寛政3年(1791)

孔子が魯の国の桓公廟に行くと、金属の器である欹器(斜めに立つ器の意)があった。役人に問うと「座右の戒めをなす器である」という。孔子は「宥座の器は、水が空のときは傾き、ちょうどよいときはまっすぐに立ち、水をいっぱいに入れたときはひっくり返ってしまうと聞いている」と述べると、果たしてその通りだった。孔子は「いっぱいに満ちて覆らないものは無い」と慢心や無理を戒めた。画面左下の銘文によると、この画題を好んだ北越の人内藤北涯が模刻し、幕臣で文学者として活躍した太田南畝(1749~1823)がそのことを記した作品である。


「庫裡」の中に入る。

扁額「學校」

寛文8年(1668) 蒋竜渓 筆

上左兵衛尉狛高康 縮模 土井能登守利房 寄進

扁額「学校」は寛文8年以来のもので孔子廟とともに現存する最も古いものの一つ。当時足利学校には蒋竜渓(一説には明の公使)による「学校」の書があったが、新しい門に掛けるには大きすぎたため書家として知られていた上左兵衛尉狛高康に縮小模写を依頼し、この扁額が完成。現在の門に掛っている扁額はこれを元に複製されたもの。以来、扁額の掛けられている中門は学校門と呼ばれ人々に親しまれている。

扁額「杏壇」

天保14年(1843) 徳川治宝 筆

扁額「杏壇」の二文字は紀伊従一位前大納言徳川治宝(和歌山藩10代藩主)の筆によるもので、天保14年5月24日に足利町の小林彦右衛門らによって寄進された。この扁額は明治25年、足利町に起きた大火の折黒焦げとなってしまった。現在の門にある扁額はこれを元に複製されたもの。「杏檀」とは杏の木の多く生えている高台という意味で、孔子が弟子に教えを説いた場所をさすようになり、さらには広く学問・研究をするところを意味するようになった。


「脇玄関」に賢者の像が五体が鎮座

左から、孟子、曾子、孔子、顔子、子思子

「方丈」

「方丈」の縁側から「南庭園」を見る

渡り廊下の脇の「中庭」

奥が「書院」

「北庭園」

奥の庭として、南庭園より格が高く、大きく、形式は南庭園と同じく築山泉水庭(つきやませんすいてい)。池は湧水をたくわえ亀の形の中島を置き、そこに弁天を祀る石祠がある。築山が四つの峰からなる。かつては、鑁阿寺(ばんなじ)の森や、遠く両崖山の峰が借景になったと思われる。発掘調査の結果、この庭は南庭園より古く、三回に渡って改修されたことがわかった。(江戸時代中期の姿に復原)~下記案内板より抜粋転載~

「天文図」

拓本 中国南宋時代 淳祐7年(1247) (財)アンタレス山浦国際交流基金寄贈

これは中国の「黄裳」が作成した天文図を、今から760年ほど前に「王致遠」が石碑に刻んだものの拓本。上部には北極星を中心に1440個の星の位置が記され、下部には古代中国の世界観などが、天文現象などとあわせて書かれている。現在この石碑は蘇州市碑刻博物館に所蔵されている。~下記案内板より抜粋転載~

「南庭園」

足利学校には、方丈の北と南にそれぞれに池のある築山泉水庭がある。この庭は、湧水をたたえた池の入り組んだ水際と巨大な立石、それにかぶさる松が特色です。三つの峰をもつ築山は比較的高く、池に映えてよく調和している。発掘調査の結果と江戸時代の絵図によって復原した。(江戸時代中期の姿に復原)~下記案内板より抜粋転載~

「土蔵」

土蔵は、大切なものを格納する堅牢な耐火建築として建てられた。桁行三間、梁間二間の土蔵造。外壁から屋根にかけて土で塗り固め、漆喰で仕上げている。栗板を使った切妻造の鞘屋根を載せている。内部は、壁が漆喰仕上、床が板敷となっている。(宝暦年間の姿に復原)~下記案内板より抜粋転載~

「木小屋」

木小屋は物置で、煮炊きに使う燃料用の「木」などを格納する建物と言われている。桁行五間、梁間二間、屋根は寄棟造の茅葺、外壁は上が土嚢の中塗仕上、下が板壁。床は三和土の土間。薪のほかには、日常使う用具や食料なども保管してておいたと思われる。(宝暦年間の姿に復原)~下記案内板より抜粋転載~

「衆寮(しゅりょう)」

衆寮は、僧房または学生寮。学生が寄宿し、あるいは遠くから通う学生が写本をするために泊まったと思われる。桁行八間、梁間二間半、屋根は切妻造で板葺、外壁は上が土壁の漆喰仕上、下が板張。内部は、六畳の間に、一間の土間がついて一部屋になる。それが四部屋続く長屋となっている。(宝暦年間の姿に復原)~下記案内板より抜粋転載~

旧足利学校遺蹟図書館

<足利市重要文化財>

この建物は、大正4年(1915)8月に建設されたもので、屋根は入母屋造桟瓦葺で基礎及び外壁はレンガ積みをした上にそれぞれ石材や漆喰で仕上げてある。和風の屋根、洋風の外壁・内装など和洋折衷の様式やポーチの懸魚・蟇股・格天井などの造りや飾り瓦(水煙)などに意匠的特徴の見られる大正時代の建造物として貴重な存在。足利学校保存整備事業の一環として、平成6年度県の「輝くまちづくり事業」により屋根を中心に改修した。~下記案内板より抜粋転載~

※「遺蹟図書館」補修中のため、下記写真を転載

上記写真:足利市HPより転載

「遺蹟図書館」の側面

「収蔵庫」

国宝などの典籍を保管するために昭和42年(1967)に建てられた。

「裏門、堀、土塁」

裏門は、一般の人や学生が出入りをしていた往時の通用門。土塁は、幅6m、高さ2m、総延長約210mで「おかめ笹」に覆われている。堀は、幅2~7m、深さは平均40cmで土塁の外側をめぐらしている。

「太平記館」近くの「足利学校」への入口

「足利まちなか遊学館」角の「足利学校」への入口

善徳寺(足利市大町)


国道293号を挟んで「足利学校」の東に位置する臨済宗妙心寺派東光山善徳寺。1368年(応安元年)、室町幕府初代将軍足利尊氏を開基、 仏満禅師を開山として創建された。見事な本堂天井板絵とともに、尊氏の衣冠装束姿の木坐像も置かれている。

「山門」

「山門」から境内をのぞむ

「本堂」

扁額

本堂壁面に施された彫刻

足利家の"丸に二つ引両"

「玄関」

「客殿」

「鐘楼」

「開運稲荷大明神」

「足利学校」前に戻り、「鑁阿寺(ばんなじ)」へ向かう。

「征夷大将軍足利尊公像」

足利尊氏公  西暦1305年~1358年

八幡太郎源義家の流れをくむ源姓足利氏は、永く当地足利の領主として、また鎌倉幕府にあっては、将軍に次ぐ武家の名門としての地位を得ていたのである。ここに当地ゆかりの足利氏を顕彰し、過ぎし昔をしのぶよすがとするため、歴代の中で室町幕府の創設者として最も名声の高い尊氏公を選び、束帯姿の像を建立するものである。尊氏公は、天性慈悲深く、人を憎まず、和歌や書画などにも通じ、また幕府十五代にわたる基礎を築いた偉大な政治家であった。この像は、「ふるさと足利づくり事業」として平成元年に国から交付された資金を活用し、市民から募集したアイデアをもとに尊氏公の事績を永く後世につたえようと建立したものである。なお、この像は本市出身で日展会員の中村宏先生の制作による。足利市 ~下記台座より抜粋転載~

「鑁阿寺(ばんなじ)」

「鑁阿寺」は、 足利散策Ⅱ-「鑁阿寺」-(May.2025)  ヘ。