両国散策


早咲き桜とミモザが彩る「藏前神社」、「鳥越神社」参拝した蔵前散策の後、「蔵前橋」を渡って両国へ。相撲の神様「野見宿禰神社」、相撲の定場所として明治末期までの76年間、いわゆる"回向院相撲"の時代を日本相撲史上に刻した「回向院」を参拝し、「国技館」横を通って「旧安田庭園」へ両国を散策してきました。 -2025.03.13-

蔵前散策は、 蔵前散策(Mar.2025) へ。

野見宿禰神社(墨田区亀沢)


野見宿禰神社パンフレット

野見宿禰(のみのすくね)とは

『日本書紀』に登場する相撲の神様。出雲国(島根県)出身と伝えられている。垂仁天皇7年7月7日、天皇の前で大和国(奈良県)に住んでいたという剛勇・當麻蹶速(たいまのけはや)と相撲を取って勝った。この対戦は相撲の起源説話として広く知られ、勝った宿禰はのちに相撲の神様として祀られるようになった。宿禰は蹶速の領地を賜り、長く垂仁天皇に仕え、埴輪を考案したという逸話もある。埴輪づくりや古墳の造営に携わった古代の豪族・土師氏は宿禰の後裔といわれている。~上記「野見宿禰神社パンフレット」より抜粋転載~

芳年武者无類 野見宿禰 當麻蹶速

月岡芳年画 明治16年~19年(1883~1886)

上記:「野見宿禰神社パンフレット」より転載

野見宿禰神社

 東京都墨田区亀沢にあり、野見宿禰を祀っている。明治17年(1884)、高砂浦五郎をはじめとする相撲関係者の尽力により津軽藩の上屋敷跡地に創建された。その後、大正12年(1923)の関東大震災や昭和20年(1945)の東京大空襲により全焼しますが、昭和28年に再建されます。再建の際には、日本相撲協会により歴代横綱記念碑も建てられた。東京での大相撲本場所開催前には、日本相撲協会の理事長・審判部長らが出席して例祭が行われ、新横綱の奉納土俵入りは話題を呼んでいる。大阪府高槻市の野見神社や鳥取市の大野見宿禰命(おおのみのすくねのみこと)神社をはじめとする各地の神社でも宿禰は祀られている。また奈良県桜井市・兵庫県たつの市・島根県松江市などには宿禰の墓と伝わる地がある。~上記「野見宿禰神社パンフレット」より抜粋転載~

「手水舎」

「拝殿」

野見宿禰と菅原道真

野見宿禰の子孫である豪族・土師氏のなかから菅原氏が現れ、平安時代には学問の家系として活躍。天満宮に祀られている学問の神様・菅原道真は、野見宿禰の子孫にあたる。梅を愛した道真にちなみ、全国の天満宮は梅鉢を社紋とするようになった。このような由来で、野見宿禰神社の社紋も梅鉢。

狛犬


「歴代横綱の石碑」

 

歴代横綱の名前を刻んだ二基の石碑は、昭和27年(1952)11月に日本相撲協会が建立。一基は、初代明石志賀之助から四十六代朝汐(潮)太郎までの名前を刻み、もう一基には、四十七代柏戸剛以降の名前が刻まれている。野見宿禰神社は、明治17年(1884)に初代高砂親方(高砂浦五郎)が相撲の始祖とされる「野見宿禰」を祀ったのが始まり。玉垣には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、今でも東京での本場所前には、必ず日本相撲協会の関係者が神事を執り行うなど、相撲界が信仰している神社です。創建当時は、神社の東側に初代高砂親方の部屋があったそうです。また、この地は、陸奥弘前藩津軽家の上屋敷跡でもある。墨田区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

歴代横綱之碑①

初代 明石志賀之助〜46代 朝潮太郎

歴代横綱之碑②

47代 柏戸剛〜73代 照ノ富士春雄


境内社「稲荷社」

回向院(墨田区両国)


諸宗山 回向院

明暦3年(1657)、江戸大火(振袖火事)に依る死者10万8千余人を弔うために建立された。本尊:阿弥陀如来(東京都重要文化財指定)安政大地震(1855)の死者2万5千人余を初めとして江戸府内の無縁佛、天災地変に因る死者も埋葬され、近くは大正12年の関東大地震の死者10万余人の分骨も納骨堂に安置されている。江戸時代の雰囲気を伝える史蹟記念碑墓地がある。

明暦3年 大火石塔安政2年 大地震石塔鼠小僧次郎吉墓水子塚(寛政5年)松平定信建立猫に小判の話 猫塚勧進相撲発祥の地記念 力塚呼び出 定火消墓 木遺塚諸動物供養塔竹本義太夫墓【岩瀨京傅、京山、加藤千陰墓】~下記案内板より抜粋転載~

江戸の町 回向院

明暦3年(1657)、江戸時代最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は10万人以上、未曾有の大惨事となった。遺体の多くが身元不明、引き取り手のない有様だった。そこで四代将軍徳川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立された。有縁・無縁、人、動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など、様々な天災地変、人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物などありとあらゆる生命が埋葬、供養されている。墨田区 ~下記案内板より抜粋転載~

「仁王像」

回向院』には関東大震災前まで仁王像があったが震災で焼失。これを復元すべく仏師・村上清氏に依頼し、残っていた元の仁王像の絵を基に構想から10年以上の歳月を掛け新しい仁王像が完成、令和元年(2019)に安置。


「参道」

「参道」と「本堂」(正面)

回向院全体マップ

本堂ホールの天井画「鳴き龍」

岩手県の陸前高田市の杉で作られた、降り注ぐような格子の櫓があり、真ん中には力強い「鳴き龍」が描かれている。寺院関係者の方が、「床の蓮の華が描かれたところで手を叩くと、龍が鳴くよ」と教えてくれました。

「本尊阿弥陀如来」

かつては本堂を背にして露天に安置されていた、いわゆる濡仏さまだった。通称「釜六」(釜屋六右衛門)の作で、宝永2年(1705)に安置され、身の丈六尺五寸五部、蓮座三尺四寸五分もある大きな銅作りの坐像でその慈悲に満ちたふくよかなお顔に特徴がある。また、都有形文化財にも指定されている。

「千体地蔵尊」

ご本尊の背面にある「千体地蔵尊」は、ご先祖の供養や家運や社運の隆昌・繁栄を祈願する人々によって奉安されたもので、後光さながらにご本尊を守護するさまは、まさに荘厳そのものといっても過言ではありません。関東大震災により焼失してしまった尊像で増上寺の黒本尊と同木といわれ、恵心僧都の作と伝えられた「備中千体阿弥陀如来像」をその由縁としている。

~回向院HPより抜粋転載~

上記写真:ザ・ゲートホテルHPより転載

「念仏堂」

皆で集まり念仏を唱える場として

平成25年(2013)に再建

「力塚」

大日本相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊のため

昭和11年(1936)建立

「力塚」は徳川家達の揮毫。

裏面には年寄及び行司名が刻まれている。

相撲関係石碑群〈力塚〉

墨田区と相撲の関わりは、明和5年(1768)9月の回向院における初めての興行にさかのぼる。以後、幾つかの他の開催場所とともに相撲が行われていた。天保4年(1833)10月からは、回向院境内の掛け小屋で相撲の定場所として、年に2度の興行が開かれ、賑わう人々の姿は版画にも残されている。 明治時代に入っても、相撲興行は回向院境内で続いていたが、欧風主義の影響で一時的に相撲の人気が衰えた。しかし、明治17年(1884)に行われた天覧相撲を契機に人気も復活し、多くの名力士が生まれた。そして、明治42年(1909)に回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく相撲が開催できるようになり、相撲の大衆化と隆盛に大きな役割を果たした。力塚は、昭和11年(1936)に歴代相撲年寄の慰霊のために建立された石碑。この時にこの場所に玉垣を巡らせ、大正5年(1916)に建てられた角力記と法界万霊塔もこの中に移動した。現在は、相撲興行自体は新国技館に移ったが、力塚を中心としたこの一画は、相撲の歴史が76年にわたり刻まれ、現在もなお相撲の街として両国の姿を象徴している。墨田区教育委員会  ~下記案内板より抜粋転載~

「聖観音」

「木遣塚」(きやりづか)火消 第六区五番組

「慈母観音」

「魚供養塔」

「馬頭観音堂」

回向院の開創間もない頃、将軍家綱公の愛馬が死亡し上意によってその骸を当院に葬ることになった。その供養をする為、回向院二世信誉貞存上人は「馬頭堂」を建て自らが鑿をとって刻し安置した「馬頭観世音菩薩像」は、享保年中(1716~35)の頃から「江戸三十三観音」に数えられており、「江戸砂子拾遺」によると、回向院はその二十六番札所と記されている。当院の馬頭観世音菩薩に祈願をこめると、当時最も恐れられた瘧疾(熱病)や疱瘡(天然痘)にかからぬといわれ、時代が下るにつれて諸病平癒の霊験顕かな観音様として、人々の厚い信仰を集めた。幾多の災難にあい当時のものは焼失してしまったが、現在も昭和新撰「江戸三十三所観音参り」での第四番札所として今も多くの巡拝者で賑わっている。

「馬頭観音堂」

「馬頭観世音菩薩像」


「石造海難供養碑」

<墨田区登録文化財>

回向院は、明暦の大火を契機に開かれた寺院で、様々な災害による犠牲者を弔う供養碑が多く建立されている。それらの中に六基の海難供養碑を見ることができる。六基のうち三基は伊勢白子(現三重県鈴鹿市)関係の碑。江戸時代の白子港は木綿を主力商品とした伊勢商人の物資輸送の拠点として繁栄していた。①「南無阿弥陀仏」海上溺死群生追福之塔 ②「溺死四十七人墓」

③「南無阿弥陀仏」勢州白子参州平坂溺死者供養塔 ④「紀州大川徳福丸富蔵船溺死人之墓」 ⑤「勢州白子三州高濱船溺死一切精霊」 ⑥勢州白子戎屋専吉船溺死者等供養塔  墨田区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「石造明暦大火横死者等供養塔」

<東京都指定有形文化財(歴史資料)>

明暦3年(1657)1月、江戸市中の繁華街を焼いた有名な明暦の大火による焼死者・溺死者をはじめとして、入水者・牢死者・行路病死者・処刑者その他の横死者に対する供養のために造立されたものである。もと、回向院本堂の向って右に存した三仏堂の前に建てられていたが、堂舎の位置がその後移転したにもかかわらず、この供養塔の位置はほとんど動いていないものと思われる。総高3.05m、延宝3年(1675)頃建立された。願主は回向院第二世住持信誉貞存。東京都教育委員会 ~現地案内板より抜粋転載~

「塩地蔵」

当院と庶民信仰の関わりを称す像として左の地蔵菩薩がある。右手に錫杖、左手に宝珠を持たれており、参詣者は願い事が成就すると塩を供えたことから、「塩地蔵」と呼ばれ親しまれてきた。腐食がひどく年代など判明しませんが古いもので、「東都歳時記」所載の江戸東方四十八ヶ所地蔵尊参りには、その四十二番目として数えられている。~回向院HPより抜粋転載~

「鼠小僧供養墓 」<墨田区民俗文化財指定>

碑の正面には「天保2年8月18日」 「俗名 中村 次良吉之墓」  「教覚速善居士」「道一書」

裏面には 「大正15年12月15日 建立」  左側には「永代法養料金 五拾圓也 細川 仁三」と刻まれている。

鼠小僧は、寛政9年(1797)生まれの実在の盗賊であり「武江年表」によると天保3年(1832)8月19日に浅草で処刑されている。「甲子夜話」によれば 武家屋敷にのみ押し入ったため、庶民からは義賊扱いされていると記されている。後に幕末の戯作者 河竹 黙阿弥が、権力者である大名家に自在に侵入し被権力者側である庶民に盗んだ金を配るという虚構の鼠小僧を主人公とした作品を世に送り出したことから人気に火がついた。演劇界においては、現在まで続く当り狂言の一つとなった。明治12年1月の「朝野新聞」によると歌舞伎の市川一門の一人である。市川団升が狂言が当った礼として碑と永代供養料10円の寄付を行うほどの熱の入れようであったと伝えており、施主として刻まれ墓の横にも石灯籠を寄進している。細川仁三とは市川団升のことであるとみる説もある。文学界においても芥川龍之介が「戯作三昧」・「鼠小僧次郎吉」・「復習」と三度題材に取り上げるなどしており、虚構の鼠小僧の人気は高い。江戸時代、犯罪者には墓を作ることが禁止されていた。しかし歌舞伎や狂言での成功によって、祈願対象物としての墓の必要性が生じこの供養碑が作られたと思われる。※他方、供養塔の前にある小さな供養塔は正面に供養墓同様「教 覚 速 善 居 士」と刻まれているが別名「欠き石」とも呼ばれるものである。鼠小僧の墓石を欠き、財布や裾に入れておけば、金回りが良くなる、あるいは持病が治るとも言われ、成就した人々の奉納した欠き石は数年ごとに建て替えられ続け、現在までに数百基にも及んでいるという。発生時期は不明であるが、明治18年(1885)に初演された河竹黙阿弥の「四千両小判梅集」には台詞の中で、この信仰の事が触れられている。「この供養碑は変貌著しい墨田区と歌舞伎とのかかわりを示す資料でもあり、そこにはまた庶民のささやかな幸福追求の対象物としての価値も含まれる。~下記案内板より抜粋転載~

鼠小僧が長年捕まらなかったため、その運にあやかろうと、墓石を削りその粉をお守りにする風習が江戸時代から盛んだったとのこと。が、そのままではお墓が無くなってしまうので、お墓の前に削り専用の石「お前立ち」を置くようになった。現在、墓石を削り、お守りに持つ風習が当時より盛んで、特に合格祈願に来る受験生方があとをたたないとのこと。

「猫塚」

文化13(1816)年建立とあり、その後文政期(1818〜1829)に猫の恩返し(俗にいう猫に小判)の話に結びつけられて今に伝わるのだとされる。

 

「両国物語」

猫の恩返し(猫塚)

猫を大変かわいがっていた魚屋が、病気で商売ができなくなり、生活が困窮してしまいます。すると猫が、どこからともなく二両のお金をくわえてき、魚屋を助けます。ある日、猫は姿を消し戻ってきません。ある商家で、二両くわえて逃げようとしたところを見つかり、奉公人に殴り殺されたのです。それを知った魚屋は、商家の主人に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋とともにその遺体を回向院に葬りました。江戸時代のいくつかの本に紹介されている話ですが、本によって人名や地名の設定が違っています。江戸っ子の間に広まった昔話ですが、実在した猫の墓として貴重な文化財の一つに挙げられます。墨田区 ~現地案内板より抜粋転載~

「三味観世音犬猫供養塔」(糸塚)

義太夫協会が建立。下部に犬と猫の銅像、向かって左に並んだ石柱(糸塚)まゆ形の枠に糸塚と書かれている。

「水子塚」

陽の目をみずに葬られた水子の霊を供養するため寛政五年(1793)、時の老中松平定信の命によって造立されたもので、水子供養の発祥とされている。江戸市民に知られていたこの矩形の板石の塔は、正面に小作りながら端正なお顔の地蔵菩薩坐像が浮彫りされ、その下に「水子塚」という大字が刻まれている。~回向院HPより抜粋転載~

「三界萬霊碑」

「檀信徒塚」

「清長碑」

六大浮世絵師の一人として世界的にも高く評価されている「鳥居清長」。現実的な背景に美人を群像的に配する清長の作風は美人風俗画と称され、後の大判続物の発展の基礎を築き、「天明のビーナス」とうたわれる、長身のすらりとして美しい清長美人は、浮世絵黄金期の華となった。また、芝居絵に伝統のある鳥居家の四代目を継承した清長は、歌麿と並ぶ美人画家として活躍する一方、歌舞伎関係の作画にも献身して、浮世絵界に多大な貢献を果たした。今では国際的な知名度を得ている鳥居清長は、文化12年(1815)5月21日に、数え年64歳で没し、回向院に葬られた。その後、回向院は地震や戦災など度重なる災禍にあって、清長の墓碑を失い、今日に至っている。没後200年の記念すべき節目に、清長の歴史的な画業とその信義を重んじた人間性を讃える墓碑を再建しようという声が、回向院をはじめとする有志の間から、湧き上がり、日本の誇る浮世絵を愛好し、清長を追慕する方々のご賛同を得て、平成25年(2013)4月慰霊碑「清長碑」を建立。~回向院HPより抜粋転載~

ブロンズプレート

平木浮世絵美術館蔵「大川端夕涼み」を参考に作成


「回向院」の門前に


「旧国技館跡」

旧国技館は、天保4年(1833)から回向院で相撲興行が行われていたことから、明治42年(1909)に、その境内に建設された。建設費は28万円(現在の価値では75億円程度)。ドーム型屋根の洋風建築で、収容人員は1万3千人。開館当時は両国元町常設館という名前だったが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称された。しかし、東京大空襲まで3度の火災に見舞われるなど御難続きで、戦後は進駐軍に接収された。返還後は日大講堂として利用されていたが、昭和58年(1983)に解体された。左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を示している。墨田区 ~下記案内板より抜粋転載~

「旧国技館(大鉄傘)跡」

旧国技館は、江戸時代以来の相撲興行の歴史を刻む回向院の境内に、明治42年(1909)に竣工・開館。1万3千人を収容する当時最大規模の相撲常設館で、設計は、日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾と葛西萬司が手がけた。日本初のドーム型鉄骨の建物であったことから、大鉄傘とも呼ばれた。開館当初は両国元町常設館が正式名称だったが、翌年から国技館という名称が定着した。開館後は菊人形祭りや講演会などを開催するイベントホールとしても利用された。この建物は、大正6年(1917)の火災と同12年(1923)の関東大震災、そして昭和20年(1945)の東京大空襲などで被害を受けたが、そのたびに修理され、昭和58年(1983)に老朽化に伴い解体されるまで使用された。ただし、相撲常設館としての役割は、横綱双葉山の引退披露大相撲として開催された昭和21年(1946)秋場所を最後とし、その後はメモリアルホールと称してプロレスやボクシングなどの格闘技の試合会場として使用された。また、昭和33年(1958)以降は、日本大学講堂として使用された。なお、旧国技館の解体後、地元の方々が台東区の蔵前国技館に移転していた本場所の誘致に尽力され、昭和60年(1985)1月に現在の両国国技館が開館。旧国技館の跡地は、現在複合商業施設となり、その中庭にはタイル貼りでかつての土俵の位置が示されている。墨田区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~


国技館通りの力士像と手形


JR両国駅


国技館(墨田区横綱)


現在の国技館は昭和60年(1985)に老朽化した蔵前国技館から移転した「新国技館」。JR両国駅の北側にそびえ、緑の銅版葺きの大屋根はひときわ目立つ外観となっている。地上3階、地下3階の延べ面積3万5千平方メートル、収容人員1万1千人を誇る。内部は最新技術を駆使した新鉄傘造り、土俵も電動式で上下できるので、多角活用できる場となっている。~墨田区観光協会HPより抜粋転載~

上記写真:墨田区観光協会HPより転載

旧安田庭園


「旧安田庭園の沿革」

元禄年間(1688~1703)に、徳川五代将軍綱吉の生母である桂昌院 の実弟で、後の常陸笠間藩5万石の藩主、本庄因幡守宗資 が下屋敷として拝領し、この庭園を築造したと伝えられている。中央に「心」字をかたどった池を配し、かつては隅田川の水を引き入れ、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる潮入り池泉回遊式庭園である。明治になって旧備前岡山藩主池田章政侯爵邸となり、明治24年(1891)には、安田財閥の創始者である初代安田善次郎の所有となった。安田翁の逝去後、故人の遺志により大正11年(1922)に家屋及び庭園は、東京市に寄付された。大正12年(1923)9月1日の関東大震災により壊滅的な被害を受けたが、残った地割り石組みを基にして復元工事が行われた。旧安田邸跡地は寄付者の名を冠して「旧安田庭園 」と命名され、昭和2年(1927)に民間篤志家の寄付による和風庭園として都内初の一般公開となった。昭和42年(1967)、東京都から墨田区に移管されたのを機に、全面的な改修工事を行い、昭和46年(1971)に新装開園し、現在に至っている。明治時代の文献の中で記載されている姿を今日までよくとどめており、清澄庭園に匹敵する明治時代の代表的庭園の一つであることから、平成8年(1996)、東京都の「名勝 」に指定された。~下記案内板より抜粋転載~

「旧安田庭園」と東京スカイツリー

両国物語 「駒止石」

三代将軍家光の寛永年間の半ばにあたる8年(1631)に秋の台風に見舞われ隅田川は大洪水となった。本所側の被害は特に甚大で、これを憂慮した家光は、その状況を調べさせようとした。しかし、あまりの濁流に誰もが尻込みをする中、旗本阿部豊後守忠秋が進み出て、現在の柳橋の辺りから、馬を乗り入れた。忠秋は、馬を巧みに操って川を渡り、被害状況を調べて回ったが、その際、馬を止めて休憩したところが駒止石。当時、この辺りに住んでいた人々が忠秋の徳を敬い、この地に駒止稲荷を祀った。~下記案内板より抜粋転載~

「駒止稲荷」

「旧安田庭園」と「国技館」