紀尾井町通りの西側が「ホテルニューオータニ」、東側が「千代田区立清水谷公園」。「紀尾井清堂」見学の後に「清水谷公園」へ行ってきました。-2025.09.18-
「紀尾井町」
江戸時代の初期から、この界隈には大名屋敷が置かれていた。安政3年(1856)の絵図にも見られるとおり、紀伊和歌山藩徳川家上屋敷、尾張名古屋藩徳川家中屋敷、近江彦根藩井伊家中屋敷があった。紀尾井町の名前は、紀伊徳川・尾張徳川、彦根井伊の三家よりそれぞれ一字ずつ取って名付けられたもの。また、紀尾井坂より南、弁慶橋あたりまでの低地は、清水がわき出ることから「清水谷」と呼ばれていた。これらの大名屋敷は、明治5年(1872)、新たに麹町紀尾井町に生まれ変わり、明治11年(1878)、麹町区に所属。明治以降の紀尾井町は、政府用地、北白川宮邸(のちの李王邸、現・赤坂プリンスクラッシックハウス[旧・赤坂ぴリンスホテル])や伏見宮邸(現・ホテルニューオータニ)、行政裁判所(現・城西大学)、尾張徳川邸(現・上智大学)などになった。明治7年(1874)、赤坂喰違付近で岩倉具視が襲われ、同11年(1878)には清水谷前の道で、時の内務卿大久保利通が暗殺された。事件後、現場近くの地に大久保利通の哀悼碑が設置され、のちに整備されて清水谷公園となった。
明治44年(1911)、町名変更により紀尾井町と改め、昭和9年(1934)、区画整理により北側の一部が麹町五丁目、麹町六丁目に編入された。江戸時代は大名の、昭和初期までは宮家の閑静な邸宅地であった紀尾井町は、現在、高級ホテルやオフィスビルが立ち並び、皇居、政治の中心地である永田町、外国使臣を迎える迎賓館(げいひんかん)などに囲まれ、都心の中の憩いの場を提供している。~下記案内板より抜粋転載~
「清水谷」
江戸時代、この地域には紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家の屋敷があり、その頭文字から紀尾井町と呼ばれている。清水谷の名は、井伊家と紀州徳川家の屋敷境の谷筋から清水が湧き出ていたことに由来する。1878年(明治11年)、清水谷付近で大久保利通が暗殺され、この地に「贈右大臣大久保公哀悼碑」(千代田区指定文化財)が建てられた。清水谷公園は東京市によって整備され1890年(明治23年)に開園。1965年(昭和40年)に千代田区に移管されている。公園内には、大久保公哀悼碑の他に、江戸の水道施設である玉川上水の石枡(麹町三丁目2番地先出土)が展示されている。千代田区 ~下記案内板より抜粋転載~
「清水谷公園」
清水谷公園のあるこの辺りは、江戸時代の紀伊家、井伊家の屋敷境にあり、この境が谷であったことと、紀伊家屋敷内に霊水(清水)が湧き出ていたことから、清水谷と呼ばれていた。「清水谷公園」の名は、この地名から名付けられた。清水谷公園は麹町区清水谷の景勝地に建てられていた大久保利通遭難記念敷地一帯が、同碑建設発起人から寄贈されたのを受け、東京市が、明治22年(1889)5月、都市計画決定し、明治23年(1890)3月に開園した。開園された当時は、自然の地形を残した背景と、藤、桜、松、楓などの四季折々の風情があり、中央には、大久保公の追悼碑が配置され、この公園の歴史の尊さを感じさせるものになっている。園内には、江戸時代の水道に使われていた玉川上水桝が展示され、水にゆかりの深いところだったことを証明している。自然を色濃く残した清水谷公園は、周辺の業務・商業施設の安らぎの場として、また、緑豊かな都会のオアシスとして貴重なオープンスペースとなっている。~下記案内板より抜粋転載~
復元された「湧水井戸」
「顕彰碑」
清水谷公園は、北白川宮家の邸があった場所で、明治23年に東京市へ下腸され、同年東京市立清水谷公園となった。昭和31年(1956)都立公園となり、昭和40年、千代田区に当公園が移管され、「千代田区立清水谷公園」となる。移管後、公園内に先代秋元馨氏が現建物である「偕香苑」(かいこうえん)を昭和59年(1984)に建設、以降茶室として利用され、広く日本文化の伝承と地域貢献に努めてきた。平成18年(2006)3月に御子息である、秋元裕氏から「偕香苑」をより多くの方々に利用されたいとのことから、千代田区に寄贈された。千代田区として、秋元氏の意志を尊重し、「偕香苑」を茶道や生け花を始めとした各種の催し物に利用するなど、区民等の方々に愛される施設として活用するものである。秋元氏への寄贈に対する御礼と、これまでのご功績とご貢献に対し、衷心より感謝を申し上げ、ここに顕彰するものである。千代田区 ~下記案内板より抜粋転載~
「偕香苑」
「心字池」
「贈右大臣大久保公哀悼碑」
<千代田指定文化財> 1992年(平成4)年4月1日指定
1878年(明治11年)に暗殺された大久保利通をしのんで1888年(明治21年)5月に建立された碑。大久保利通(1830-1878)は薩摩藩(現在の鹿児島県)出身の政治家で、明治維新後は版籍奉還や廃藩置県などを主導し、初代内務卿に就任。
西南戦争の終結後、一部の士族らが大久保の政策に反発し、1878年5月14日朝、麹町清水谷において赤坂仮皇居内の太政官へ出仕する途中の馬車を襲い暗殺した。この事件は「紀尾井坂の変」と呼ばれている。湧水があったことから清水谷と呼ばれるこの周辺は、1890年(明治23年)に東京市によって整備され清水谷公園となった。 千代田区 ~下記案内板より抜粋転載~
「贈右大臣大久保公哀悼碑」
明治11年(1878)5月14日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺された。現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保の暗殺は、一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ、人々に衝撃を与えた。また、大久保の同僚であった明治政府の官僚たち(西村捨三・金井之恭・奈良原繁ら)の間からは、彼の遺徳をしのび、業績を称える石碑を建設しようとの動きが生じ、暗殺現場の周辺であるこの地に、明治21年(1888)5月「贈右大臣大久保公哀悼碑」が完成した。「哀悼碑」の高さは、台座の部分も含めると6.27mにもなる。石碑の材質は緑泥片岩、台座の材質は、硬砂岩と思われる。「贈右大臣大久保公哀悼碑」は、大久保利通暗殺事件という衝撃的な日本近代史の一段面を後世に伝えつつ、そしてこの碑に関係した明治の人々の痕跡を残しつつ、この地に佇んでいる。
大久保利通公記念碑の裏面碑文の内容説明
ここは、大久保利通公が命を落とされた場所。大久保公は天下の重大事に身を投じ天皇陛下の信頼を得て重きをなした元勲。突然の暗殺という悲運に会い命を落とした。昔から忠臣や烈士といわれる人々が犠牲の死に会うのは悲しいことだが、乱世や騒乱の常。大久保公は明治維新の功績で名を挙げ、国がこれから栄え平和を迎える時に、この災いに会った。大久保公の死は、都の人達は勿論のこと天皇陛下も深く悲しまれた。大久保公を知る人で、悲しまない人はありませんでした。大久保公の悲しい凶変から七年の年月が流れたが、この地を通る人々は、今でも嘆き悲しみ頭を垂れて行きつ戻りつ立ち去ろうとしません。ここに、仕事で働く仲間達が皆で相談して、碑を建て大久保利通公への哀悼の意を示すことにした。 ~下記案内板より抜粋転載~
「玉川上水の石枡(麹町三丁目2番地先出土)
<千代田区指定文化財>
2018年(平成30年)4月1日指定
この石枡は1970年(昭和45年)に国道20号線(麹町大通り)の共同溝拡幅工事の際に麹町三丁目2番地先で発見された玉川上水施設の一部です。玉川上水は、4代将軍徳川家綱の命で1653年(承応2年)に着工し、翌年に竣工したと伝えられている。取水地は羽村の多摩川上流で、四谷大木戸に至る約43㎞を開渠で導水し、江戸市中へは石樋や木樋による暗渠で配水していた。この石枡は江戸市中における本管の一部で、地中深く4段に積んだ大規模な構造を持っていた。1段目と2段目にまたがる部分に木樋の挿入口がある。石枡とともに出土した木樋は千代田区立日比谷図書文化館で展示されている。 千代田区 ~下記案内板より抜粋転載~