今回は、前回訪れた群馬県桐生市の県境を挟んでお隣の栃木県足利市へ。昔から織物を通じて発展したふたつの街には、数々の歴史的な見どころがたくさん。「足利学校」「鑁阿寺」「足利舞姫神社」を中心に足利を散策してきました。-2025.05.13-
上記MAP:足利観光協会
「ばん阿寺・足利学校周辺の石畳の道」
栃木県・道と川百選に選定された。史跡足利学校の前の「孔子様通り」と大日様(鑁阿寺)正面の「大日大門通り」は古都足利を楽しめる石畳の道が続き、着物や布などの店や相田みつをゆかりのお店などが並ぶ。
鑁阿寺手前に立つ「征夷大将軍足利尊公像」
足利尊氏公 西暦1305年~1358年
八幡太郎源義家の流れをくむ源姓足利氏は、永く当地足利の領主として、また鎌倉幕府にあっては、将軍に次ぐ武家の名門としての地位を得ていたのである。ここに当地ゆかりの足利氏を顕彰し、過ぎし昔をしのぶよすがとするため、歴代の中で室町幕府の創設者として最も名声の高い尊氏公を選び、束帯姿の像を建立するものである。尊氏公は、天性慈悲深く、人を憎まず、和歌や書画などにも通じ、また幕府十五代にわたる基礎を築いた偉大な政治家であった。この像は、「ふるさと足利づくり事業」として平成元年に国から交付された資金を活用し、市民から募集したアイデアをもとに尊氏公の事績を永く後世につたえようと建立したものである。なお、この像は本市出身で日展会員の中村宏先生の制作による。足利市 ~下記台座より抜粋転載~
国宝「鑁阿寺」
「鑁阿寺(ばんなじ)」は、鎌倉時代、建久7年(1196)に足利義兼によって建立された真言宗大日派の本山。山号は金剛山。本尊は源氏、足利氏の守り本尊である大日如来(だいにちにょらい)を祀る。約4万平方メートルに及ぶ敷地は、元々は足利氏の館であり、現在でも、四方に門を設け、土塁と堀がめぐらされており、平安時代後期の武士の館の面影が残されている。またこの事から「史跡足利氏宅跡」として、大正10年3月に、国の史跡に指定されており、現在では「日本の名城百選」にもなっている。寺院としては、鎌倉時代初期、建久7年(1196)源姓足利氏二代目の足利義兼が発心得度し、邸宅内に持仏堂を建てたのが始まりとされる。義兼死後、その子義氏が建立した本堂は、正安元年(1229)に落雷により、焼失したが、足利貞氏が禅宗様式を取り入れ改修した。日本としては禅宗様式への転換期の最初期にあたる。鎌倉時代から室町時代にかけて寺院として次第に整備され、室町将軍家、鎌倉公方家などにより、足利氏の氏寺として手厚く庇護された。境内には、本堂のほかにも、鐘楼、一切経堂が国の重要文化財、東門、西門、楼門、多宝塔、御霊屋、太鼓橋が栃木県指定の建造物で、その他、市指定の建造物も多数あり、その他建造物以外にも、彫刻や文書、美術工芸品など、中世来の貴重な宝物類も多数残され、今に伝わっている。また市民の方々には古くより「大日様」と呼ばれている。~鑁阿寺HPより抜粋転載~
「楼門」の手前に屋根付きの「反橋」が掛かる
「土塁」と「堀」
土塁と堀により四周が囲まれ、中世の地方豪族の邸宅の様子を知ることができる。土塁、堀など軍事的要素を持っており、その規模から当時の足利氏の権威が伺える。~とちぎいにしえの回廊HPより抜粋転載~
「楼門」及び「反橋」
<県指定文化財>
「楼門」は、当山では仁王門又は山門ともいう。開基足利義兼公が建久7年(1196)創建せるも室町時代兵火にあい永禄7年(1564)足利幕府十三代将軍足利義輝の再建である。構造雄大、手法剛健、入母屋造、行基葺き。両側の仁王尊像は此の建物より古く鎌倉時代運慶の作といわれている。「反橋」は、俗に太鼓橋といい江戸時代安政年間の再修である。当山境内は面積1万2千3百坪(40.467㎡)四周に濠と土塁をめぐらし四門あり。当山開基足利義兼公の祖父源義国(八幡太郎源義家の子、足利・新田両家の祖)が別業として平安時代末に構築せるものにして上古の一家族の居館を原形のまま今日に残したもの。実に近世城郭の原始を示しており、足利氏宅趾として大正11年国が史蹟に指定した。「楼門」及び「反橋」は、栃木県指定文化財である。真言宗大本山 金剛山 鑁阿寺 ~下記案内板より抜粋転載~
「反橋」
<県指定文化財>
俗に「太鼓橋」といい江戸時代安政年間の再修。
「楼門」
<県指定文化財>
三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺 室町時代 唐様という建築様式で、礎盤(そばん:柱と礎石の間に置かれる台石)の上に柱を建て、上層には高欄という手すりを廻し、三ツ斗組とした楼門造り。とても大きな楼門で、県内では一番大きい物と思われる。お寺の言い伝えによると、建てられたのは本堂と同じ時期であるということだが、現在の建物は永禄7年(1564)に十三代将軍 足利義輝の再建。鎌倉時代に建てられた本堂や鐘楼と比べると、彫刻や屋根の形態が違っていて、後の年代に建てられた特徴がみられる。~足利市HPより抜粋転載~
「木造 金剛力士立像」
鑁阿寺「楼門」の両側に立っている。ともに上半身裸の姿で、頭の上に髷を結っている。金剛力士は仁王様ともいい、仏法の守護をつとめとしている神様。向って右側の口を「あ」の形に開けているのが阿行像で、左手に金剛杵(こんごうしょ)を持っている。左の口を「ん」の形に閉じているのが吽行像。この鑁阿寺の金剛力士像は、高い技術で彫られていて、つくられた当時の面影をよく残している。なお、栃木県内にある鎌倉時代作の仁王像は、ここ鑁阿寺と鹿沼市の医王寺のものだけ。~足利市HPより抜粋転載~
「金剛山鑁阿寺伽藍図」
【境内地】1. 平安時代後期、源氏の祖、八幡太郎源義家の子義国、その子足利義康(足利氏祖)の二代にわたって堀と土手を築いて邸宅とした。2. 境内地(お堀の中全域と土手及び外側の堀のまわりの歩道全体)が足利氏宅跡として国の史跡に指定されている。(大正11年指定)3.此の境内にお入りの方、必ず本堂をお詣り下さい。
【境内の建物】1.義康の子、足利義兼(尊氏より七代前)が、鎌倉時代初期(1190年代)邸宅を撤去して大日如来を本尊とする真言宗金剛山鑁阿寺を設立した。2. 各お堂の前に建物の説明板が出ておりますのでごらん下さい。(イ)鎌倉時代の建物 本堂、鐘楼、東門、西門(ロ)室町時代の建物 一切経堂、山門(仁王門)(ハ)江戸時代の建物 二重塔(再建)、御霊屋(再建)、校倉(大黒堂)太鼓橋、蛭子堂、大酉堂、北門 (ニ)明治時代の建物 水屋、本坊(庫裡)、稲荷堂等
【堀の外、十二坊跡地】義兼の子・義氏(尊氏より六代前)の代に七堂伽藍は完成し、堀の外に塔中十二坊が堀をかこむ様に建てられたが、明治維新と共に塔頭・千手院(現、足利幼稚園敷地)を除いて、明治政府に上地させられ、今は家富町という民家になっている。(広さ約5万坪)~下記案内板より抜粋転載~
「手水舎」
「本堂」<国宝>
本堂は鎌倉時代、建久7年(1196)に足利義兼が持仏堂として建立したものを、その後足利義氏が方5間の大堂を建立したが、1129年の火災で失い、尊氏の父・足利貞氏により正安元年(1299)に再建したもの。鎌倉時代に当時中国の最新の寺院建築様式の一つであった禅宗様をいち早く取り入れたもの。密教寺院における禅宗様仏堂の初期の例として、また関東地方における禅宗様の古例として貴重な文化財である。平成25年(2013)に国宝指定。ご本尊様は胎蔵内大日如来。申年、未年の守り本尊である。後方壇に弘法、興教の二大師、開基鑁阿上人(足利義兼)像をはじめ、明治維新まで、堀の外に祀ってあった塔頭十二支院の御本尊を安置している。~鑁阿寺HPより抜粋転載~
「鑁阿寺本堂(大御堂)」<国宝>
鎌倉時代初期、建久七年(1196)に足利義兼の建立。正安元年(1299)再建。本尊は源氏相伝の守本尊、大日如来。建築は構造雄大、手法剛健、本瓦葺 唐様と和様を加味した折衷の代表的な建物で堂内の柱、天井、厨子等の価値は高い。明治41年、国宝に指定され昭和8年より2年間、解体修理を文部省の指導の下、実施した。戦後、法令の改正により重要文化財となる。平成25年8月、国宝に指定される。境内に山門、鐘楼、不動堂、一切経堂、多宝塔、御霊殿等の七堂伽藍を備えた東国の密教の代表的な寺である。創建以来、幸い火災にあわず多数の重要文化財を蔵している。開祖、義兼七世の孫は足利尊氏にして京都室町に幕府を構え、幕府は一五代230年つづいた。大祭は5月3、4、5日、11月3、4日、初詣、節分鎧年越等 厄除・開運の祈願寺として参拝者が多い。 真言宗大本山 金剛山 鑁阿寺 ~下記案内板より抜粋転載~
横から眺めると、裏面にも向拝いが見える。
「大銀杏」<天然記念物>
開基足利義兼 の御手植えと称しているが鎌倉時代末期正和年間(1310年)の当山の古地図には載っていない。故三好学博士の鑑定によれば樹令を約550年といわれる。江戸時代には既に大木となり樹下に於て大日如来のお堂を前にして青年男女の見合いが行われ縁結びの御神木ともいわれている。目通りの周囲9m。高さ約30m。往古より避雷針の役目を果し、諸堂の災厄を守護した。最近樹勢とみに衰え衆庶の愛護を切に望む。真言宗 大本山 鎫阿寺 ~下記案内板より抜粋転載~ 見頃は11月下旬で、見上げるほどの巨木に、圧倒的な量の黄金色の葉が壮麗で見事。
「多宝塔」 (塔婆) <県指定文化財>
開祖足利義兼公創建と伝えられているが、現在のは元禄5年徳川五代将軍綱吉の母、桂昌院尼公の再建と伝えられていたが、相輪の宝珠を調査したところ、寛永6年(1629)銘のものが発見され、塔の再建年代がさかのぼる事が判明した。徳川氏は新田氏の後裔と称し、新田氏は足利の庄より新田の庄に分家したるが故に徳川氏は先祖発祥の地なるを以て、此の宝塔を祖先の菩提供養のため再建寄進した。・本尊は金剛界大日如来。本尊前に勢至菩提(俗に二十三夜尊)、両側に十六羅漢像を祀る。・奥に足利家の大位牌と徳川歴代将軍のお位牌を祀る。・多宝塔としてはわが国で一番大きい。(これ以上大きいのは大塔という)平成7・8年半解体修理を実施した。真言宗 金剛山 鎫阿寺 ~下記案内板より抜粋転載~
「中御堂」 (不動堂)
寺伝では開基足利義兼公の創建とあるが、文禄元年(1592)生実御所国朝の再修になる。御本尊不動明王は往古千葉県成田山より勧請せるもので興教大師の作といわれ霊験あらたかな不動明王である。本堂が明治41年国宝に指定される迄は不動堂と廊下でつながっていて四度加行の護摩法の道場として使用した堂宇である。昭和44年信徒の浄財により半解体修理を実施した。商売繁盛を祈念する堂であると同時に酉年守本尊となり。堂の右側に古井戸の跡あり800年前足利氏が居住した時に使用したといわれる。真言宗 金剛山 鎫阿寺 ~現地案内板より転載~
上記写真:HPより転載
「経堂」<国指定重要文化財>
当山開基、足利義兼が妻の供養の為、一切経会を修する道場として鎌倉時代に創建したといわれるが、現在の建物は応永14年(1407)関東管領足利満兼により再建された。足利家は鎌倉・室町の両時代に盛んに一切経会を営んだ事が当山古文書(国重文)にみられる。堂内に八角の輪蔵(経棚)があり一切経二千余巻を蔵するが、此の経棚は江戸時代宝永年間の大修繕のものなり。
昭和11、2年、文部技師阪谷良之進の指導の下、解体修理を実施した。昭和59年国重要文化財に指定される。平成16・7年、屋根を主に文化庁指導の下、大修繕を実施。真言宗 金剛山 鎫阿寺 ~下記案内板より抜粋転載~
「鐘楼」
<国宝・国指定重要文化財>
・建久7年(1196)足利義兼建立
・【建築様式】 形状簡古 手法稚撲
鎌倉時代の和様、唐様折衷の代表的禅宗様式、桁行3間、梁間2間、袴腰付、入母屋造、本瓦葺
・明治41年、国宝建築物に指定さる。 ・大正5年、解体修理実施 ・昭和26年、国重要文化財に指定さる。
・昭和36年、半解体修理実施 ・平成4、5年、半解体修理実施
・梵鐘は、元禄時代の再鋳であるが戦時の供出は歴史資料としてまぬかれる。
真言宗 金剛山 鎫阿寺 ~下記案内板より抜粋転載~
中央に鐘(江戸時代の天明鋳物の再鋳)が吊り下げられ、四方吹放しとなっている。木鼻や斗栱をはじめ、建物の形状やそのつくり方など、全体に鎌倉時代の禅宗様建築の特色がよく現われている大変珍しく貴重な建物。~足利市HPより抜粋転載~
「御霊屋」
<県指定文化財>
足利大権現と称し、俗に赤御堂とも云う。正和年間(1312~)の当山伽藍配置図にも境内西北に描かれている。創建は鎌倉時代といわれるが、現在の建物は徳川十一代将軍家斉の寄進によって再建された。本殿に源氏の祖を祀り、拝殿に県指定文化財足利十五代将軍像を祀る。昭和32年境内整備のため以前の位置より北へ十二間後退させた。本殿の裏に当山開基足利義兼の父、義康、祖父、義国の墓あり。昭和57、8年度栃木県及び足利市の助成を得て半解体修理を実施した。真言宗 大本山 鎫阿寺 ~下記案内板より抜粋転載~
「大酉堂」(おとり様)
此のお堂は元来、足利尊氏公を祀るお墓として室町時代に建立された。当山に残る寛政2年及び明治5年の伽藍配置図には足利尊氏公霊屋と現在地に記載されている。明治中期より足利尊氏逆賊の皇国史観抬頭し、四十一世忍禅上人は、甲冑姿の尊氏公木像を本坊に移し、当山伝来の大酉大権現を本尊とした。大正6年四十二世忍空上人は、信徒の浄財を仰いで堂宇の大修繕を実施す。大酉大権現は、俗におとり様といい、古来武神として武門の信仰篤く、殊に東国では近世より商売繁昌、福の神として信仰されている。昭和61年、解体修理を実施した。金剛山 鎫阿寺 ~下記案内板より抜粋転載~
「校倉」
<市指定重要文化財>
宝庫、大黒堂とも称する。永享4年公文所奉行の再建といわれているが、現存の棟札では当山二世満慶上人が宝暦2年の再修となる。建築様式は校倉で元来当山の宝物を収蔵した。四十二世忍空上人の時、宝物は他へ移して足利家伝来の大黒天を祀った。昭和55年、市の助成を得て元文部技官安田昭二に依り半解体修理を実施。真言宗 金剛山 鎫阿寺 ~下記案内板より抜粋転載~
大黒堂の隣に鎮座する観音立像。
像前に多くの文字庚申塔群が並んでいる。
「姪子堂」(ひるこどう)
<市指定重要文化財>
時姫堂とも称し、当山開基、足利義兼の妻、北条時子(源頼朝の妻北条政子の妹)を祀り、時子の法名から智願寺殿ともいう。創建年代は不詳。時子姫は寺伝では自害したといわれ、これにまつわる逆さ藤天神、足利又太郎忠綱の遁走、自刃の哀話は足利七不思議の伝説の中の自眉の物語りとして残っている。妊娠の女人、此の堂にお詣りすれば栗のいがより栗が軽くもげるが如く安らかに安産のききめありといわれ、昔から信仰されている。本尊は栗のいがを手に持つ姪子女尊。平成5年、栃木県と足利市より補助を受けてお堂の解体修理を実施した。金剛山 鎫阿寺 ~下記案内板より抜粋転載~
「北門 」(薬医門)
<市重要文化財>
当山開基、足利義兼の子、足利義氏は父の建てた鑁阿寺維持の為、堀の外十二の支院(塔中十二坊)を鎌倉時代に建て、その筆頭(塔頭)を千手院とした。此の門は千手院(現在の足利幼稚園)の門で、弘化2年、卅九世学頭来昌上人の再建である。明治4年、千手院を除いて塔中十一支院を明治政府に上地後、大正7年四十二世学頭忍空上人は此の地に此の門を移建した。薬医門としては、規模雄大にして、典型的な江戸末期の形式を有している。昭和62年、足利市重要文化財の指定を受く。令和5年、解体修理を実施した。真言宗 金剛山 鎫阿寺 ~下記案内板より抜粋転載~
「出世稲荷神社」
足利義兼が鑁阿寺境内に邸稲荷として建てたもの。足利氏を支えたお稲荷様で、事業成功のご利益があるとされている。